第2話 予算

 ──ここはピグイタン王国。私たちは古来より、脳内の情報を伝える魔道具……キーボードを、タイピングと呼ばれる技術によって操ってきました。


「なんて?」


 ──口承、筆記、タイピングは魔導三本の柱とも呼ばれるように、脳内を外部に向けて具象化する技術は魔法を扱うのに極めて大切なものですが……。


「そうなの?」


 ──タイピングは三本柱の中では少々癖のある技術ですから、使い手は少なく、彼らはタイピストと呼ばれました。


「そうなんだ」


 ──このピグイタン王国はタイピストたちが集まって建国された国……タイピングの国です。


「ピグイタンってタイピングのアナグラムか」


 ──数年前まで、ピグイタン王国には、この世界で最も強い……魔力、打鍵速度、正確性……どれをとっても右に出るものはいないタイピストがいました。彼のことは皆、ただ、勇者と。そう呼んでいました。


「最強タイピストってことね」


 ──しかし彼は……姿を眩ませてしまいました。勇者のいないピグイタンは、翼をもがれた鳥……民は希望を失い、日に日に国力は落ちています。


「タイピストがいないだけでそんなことになんの?」


 ──民は明日を生きるのも精一杯……新たな勇者候補になろうという気概のあるものはおりません。全国二位のタイピストは努力を重ねていますが……彼の代わりというには、まだ……至らず……。


「重い話だ」


 ──私たちはなんとしてでも、次の勇者を見つけなければなりません。勇者は、才能があり、見目も良く、国民みんなの心を惹きつけるような人でなくては。そしてそれが……


──あなたです。


「ちょっとよくわかんな──」

「──あーもう! 人の話は静かに聞くのが吉ですよ! 少なくともこの国においては!」


 そう言われても、ツッコミどころが多すぎる──そのモノローグは心のうちに留めておいたが、私はきっと、意味がわからない、という顔をしてしまっていた。なぜなぜと問い続ける子どものような、そんな表情をしているに違いない。目の前の女性(チェレーゼというらしい)は、わざとらしく咳払いをして会話の主導権を握ろうと努め、続きを語り始めた。その仕草もノベルゲームみたいだ。あまりやったことはないけれど。


「──私たちは偶然、あなたがたの住む惑星を見つけました。そこでは、私たちの使用する魔道具とほぼ同じ道具を使用して、文字を入力するあなたたちの姿がありました。異界はいくつか観測していますが……これほどに近い文明を持つ場所は初めてです。私たちは、有名なタイピングゲームのプレイヤーを観察し続けました。そして、」


 チェレーゼは、一拍の間を置いてから、まだ混乱している私の両の手を握る。すがるように、どうか、神様、と、祈る時のように……「あなたを見つけた」。


 あまりにも、じい、と私の目を見つめるものだから、戯言だと思いながらもつい、真面目に返答してしまう。


「……でも私、勇者って言われるほど? もっと速い人もいくらでもいるけど」

「あなたには、タイピングだけでなく、魔法の才能があるんです。見ていればわかります! 速度は鍛錬を重ねれば良いですが、魔力や魔法への適性は才能ですから、まずはそれが満たされていれば良いのです。それにあなたは……召喚に応じてくれました」

「誤クリックだけどね」


 不満げな私に、表情を変えぬまま、握った手により力を込めて、チェレーゼは捲し立てる。手汗が混ざり合い、私たちの緊張はひとつに溶け合う。チェレーゼの喋りはどんどん早口になり、瞳はよく見ると僅かに潤んでいる……私は気圧され、1cmほど後退りする。


「とにかく……契約は成立しています! 申し訳ありませんが、あなたには私たちの要請に応じる義務があります。クーリングオフ不可です、ごめんなさい。ただ、どうしても、」

「そう……でも家帰りたいよ私。少なくとも福利厚生とやらをしっかり確認して元の仕事と比較検討しないと。結構大企業に勤めてたんだよこれでも。こんな強引な転職ありえないって」


 しばし沈黙が続く。私は気まずくなり目線を床へと逸らしたが、さすがに気になって……改めてチェレーゼの方に向き直ってしまうほど、時間が経過した。長い長い沈黙を、ついに私は破った。


「あのさ……」

「……ご協力いただけないのですか?」


 その顔は、豆もちに似ていた。豆もちは子どもの頃実家にいた柴犬で、引き取った頃は豆のように小さく、もちのようにむにむにしていたことから、豆もちと名付けられたそうだ。今のチェレーゼの顔は、豆もちが、当人にとっては些細な、しかし私たちにとっては頭を抱えたくなるような悪戯をした後、くぅーんと悲しげに鳴く時のあの顔に似ていた。私も父も母も兄もその顔にめっぽう弱く、叱るに叱りきれず、こらっ! と言ってはみるものの、そのうち同じ顔になってしまっていたものだ。今の私もそうだった。私も眉を下げ、困った顔をし、もじもじと喋った。


「いや……私だって向こうの世界にその……いろいろあるし」


 これは本当だ。第一に仕事があるし、家族や友人も、急に連絡がつかなくなったら不安だろう。でも恋人はいない。ロボットペットのだいふくならいる。豆もちほどではないが、十分可愛い。スマートフォンのアプリで行動を通知してくれる。お部屋を走ったよとか、お歌を歌ったよとか。ああ、だいふくちゃん! 電池が切れても死ぬわけじゃないのが不幸中の幸いである。チェレーゼは私の困った顔を見ながら、しばし黙り込み、手を離した。私はむしろ不安になり、手を伸ばそうとしたが、チェレーゼは先ほどの私のように、横目に床を見ることで拒否の意を示した。そして、大変気まずそうに口を開いた。


「……予算が……」

「予算?」

「この事業についた予算は勇者候補を呼ぶところまで。勇者候補を返す技術の開発、テスト、その他諸々にかかる費用は予算がついていないのです」

「は?」

「なので……無理です」

「……は?」


 私は瞬間、その理不尽に怒った。心象風景の中の豆もちの面影は跡形もなく消え、感傷は砂となり風にさらわれていった。レンジでチンして突沸した味噌汁の如く、(そしてそれを見た私自身の、自身の行動の愚かさへ地団駄を踏んだあのときの如く、)怒った。


「そんな片道通行の切符ある!? ていうか、そこの予算ついてないのに事業実施していいの!? てか何、お金の問題なら、私が個人でお金払えば帰り道も用意してくれんの!?」

「……強いタイピストになれば、自然とお金も増えます。それで稼いでもらうしかないかなと」

「それいくら!?」


 チェレーゼはちょいちょいと周りにいたモブを呼んで、ヒソヒソと話した。私は不機嫌に腕を組んで、これ見よがしに貧乏ゆすりをして待ってやった。体感10分は待った。社会人としてなんたる姿勢だと怒りに震え、それが脚に現れた、そんな貧乏ゆすりであった。社畜として5年間生きてきた──私の上司なら、そんな甘い事業計画を出した瞬間、プレゼン資料を顔面に投げつけてくるのに、なんたる甘い世界!──あまりにもイラついたのでわざと大きなため息をついてやったら、チェレーゼはやっとこさこちらへ戻り、また豆もちみたいな顔をして語った。


「……お見積もりを出すのに、1ヶ月ほどお時間をいただいても……よろしいでしょうか?」

「なんなんだよ」

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