第5話 終着
午前2時。木の葉が擦れる音がした。いつの間にか眠っていたようだ。目が覚めても瞼を閉じたような世界がある。顔は涙でベトベトになっており、周りは相変わらず真っ暗だが、幾分か暗闇に慣れ始めている自分がいた。固まった身体を起こし手探りで自転車を見つけて、再び立ち上がる。もう、気分も気持ちも最悪だった。
忘れかけていたあの時の気持ちを思い出してしまい、もはや何も考える気力も無かった。鉛のように重くなった体を作業のように動かして、ただただ足を前に出す行為を繰り返している。もう暗闇に対して、何の感情も湧かなかった。一歩、一歩、足を踏み出しながら、思う。この道を越えてその先は?どこまで進めば良いのか。終わりのない逃避行に、僕は疑問を抱き始めていた。
やがて、緩やかな坂道が終わり、そこからさらに緩やかな下り坂に差し掛かっていた。思いのほか、そこまで高い山では無かったらしい。だがそれでも、僕の体力は限界に近づいていた。下り坂に至るまで、僕は何度も道の端で座り込み、立ち上がっては歩き出すを繰り返していたのだ。それでも何度も歩きだせていたのは、この暗闇の行進から逃れたいだけに他ならない。元気なら自転車に乗って下っていたであろうこの下り坂も、僕は自転車を引きながら下っている。あれほど真っ暗だった目の前に木々の形が浮かび上がるようになった。最初は目が慣れただけかと思ったが、上を見上げてその答えはすぐにわかった。空に色が着き始めて、枝の輪郭がハッキリとわかる。夜明けが近づいてきたのだ。終わりのないと思っていた暗闇の行進に終わりが来ると分かり、安堵の溜息をつく。本当に怖かった。出来ることなら、二度と味わいたくない恐怖だった。
午前4時。長かった山越えにようやく終わりが見えてきた。道は山道より整えられた公道になり、両端の木々はアーチ状になって道を覆っている。ここまで来れば。公道が起伏のない平坦な道になったこともあり、僕は自転車に乗ってみようと考えた。いざ自転車に跨ろうとすると、体が思うように飛ばない。足の裏が磁石みたいにくっついている感覚だった。余程疲れが溜まっていることがその時わかった。僕は泣けなしの思いっきりで体を飛ばせることで、自転車にまたがる事ができた。自転車を漕ぐにも、足が上手く回らない。自転車がスピードに乗るまで、ジグザグとフラつかせながら進んでいた。一度スピードに乗れば固くなった両足が解れて、足が回るようになった。
木々のアーチを抜けた所で、山の匂いとは違うものが鼻腔につく。かつて嗅いだことのある匂い。その時、両親と出掛けた時の記憶が蘇る。
海だ。
僕はいつの間にか海の近くまで来ていたようだ。見てみたい。まるで泣きつきたい子供のように、僕は自転車のペダルに力を入れた。その時、
「ガタン」
自転車に衝撃が走った。自転車は上下に大きく揺れ始めて、バランスが取れなくなっていた。疲れ切っていた僕は受け身を取れず、背中から盛大に転げ落ちる。上手く息ができない。運良くコンクリートの上ではなく、草が茂る地面に転んだが、それでもその衝撃は今まで味わったことがないものだった。必死になって息を整えて自転車に目を向ける。(そんな、嘘だ)嫌な予感が頭をよぎり、その度に否定する。目の前の現実を無かったことにしたかったが、力なく凹んだ前輪のタイヤがこれ以上進めないことを物語っていた。
もうこれ以上進めない。その結論に至った時、僕の中の“何か“が音を立てて崩れ去った。
「あぁ・・・いやだ・・・嫌だ・・・」
唯一持っていた移動手段を無くしてしまい、行くことも、帰ることもできない。八方塞がりの状況だった。
だが、帰ったからといって何ができたのだろうか。夏休みが終われば“あれら“に否が応でも顔を合わせることになる。拒めば彼らからいじめを受けるかもしれない。だからといって一緒にいればいじめに加担することになるかもしれない。何より、これ以上彼らに合わせていくことは出来ない。合わせることができたとしても、それは一時凌ぎで、いずれ破綻してしまう。もう、どうしようも無かった。
遠くから波の音が聞こえる。潮風が僕を呼んでいるような気がした。
まだ空が白み始めた薄暗い中を、僕は歩き始めた。家も何もない。コンクリートに塗装された道だけが海へと続いていた。
道はT時路へと変わり、道の向こうには防波堤がある。波の音が近づく度に大きくなる。視界の端に小さな階段が見える。
この階段を登れば、辿り着ける。仮初の一縷の希望が頭を覆う。階段を登った先は記憶とは違う姿をしていた。
夜の海は、黒い大きな生き物だった。
波の音は鳴き声のように、一切の明かりがなくても畝りのような動きがわかる。記憶とあまりにもかけ離れた姿に僕はあの時とは違う衝撃を受けた。不思議と恐ろしさはない。足は自然と海に向かっていた。砂浜にたどり着いた所で、僕は座り込む。
目の前には黒く広がる海。それはまるで僕の心の中のようだった。その姿は、ただただ悲しかった。
ずっとずっと、苦しかった。皆優しい人だと思っていた。友達になってくれると思っていた。でも、ありのままの自分を誰も見てはくれない。大勢の中の一人が、こんなに苦しいことなんて知らなかった。
普通であるようにいたかった。でも、もうどうしようもない所まで来てしまっていたのだ。気づいた時にはもう遅かった、自分は普通じゃないってことに。どうしようもなく、人が信じられなくなっていたのだ。両親もクラスメイトも、先生も、誰も彼も。自分がどこかで、人を見限っていたのだ。
だけど、それでも、誰かと一緒にいたい。自分にも、一緒にいられる友達が欲しい。
「・・・“ケンちゃん“・・・」
いつの間にか、そう呟いていた。思えば、友達と呼べたのは彼だけだった。お互いにぎこちない瞬間は何度もあった。大笑いするわけでも、羽目を外したりするわけでもない。でも、そんな関係が僕はとても安心していた。今ならはっきりと言える。あれが、僕たちの正解だったんだ。ただ静かに一緒にいるだけでも、友達だったんだ。
けど、彼はもういない。彼が離れたわけじゃない。僕が彼から離れたのだ。離れなければ、もっと友達でいられたんだろうか。こんな気持ちになることもなく、夏休みを過ごせていたのだろうか。無性に僕は、会いたくなった。
俯いた顔を上げる。空は明るさを取り戻し、海は色を帯びてきた。記憶の中の海の姿を徐々に取り戻していく。潮風の匂いが変わった。凍てついた匂いから温かみのある匂いへと変わっていく。心の中も同時に色を帯びていくように感じた。その変化を、僕は目を離せなかった。やがて海の向こうに光が差す。初めて見た光景に、美しいという言葉以外、思いつかなかった。波の音は楽器のように。水面は宝石のように煌めいていた。僕はその光景を、眺めているだけで幸せだった。
「君、どうしたんだい」
不意に声を掛けられて、声の主に顔を向ける。
目の前には、犬を連れた老人が立っていた。
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