死尽欲林③
影の穴を抜けた先。
梁人とアリスの視界に広がったのは、目が眩むほどに豪奢で、そして吐き気を催すほど悪趣味な一室だった。
壁は深紅のベルベットで覆われ、天井からは巨大なシャンデリアがぶら下がっている。床にはペルシャ絨毯が敷き詰められているが、それは食べこぼしと酒のシミで汚れていた。
部屋の至るところに金塊や札束が積み上げられ、ブランドバッグや高級時計がゴミのように散乱している。
その部屋の中心。
巨大な天蓋付きベッドの上に、その女はいた。
「んぐ、あ、ガツッ、ごく……ッ!」
女は、獣のように貪っていた。
両手で鷲掴みにした肉塊を口に押し込み、咀嚼し、高級ワインをラッパ飲みで流し込む。
その身体には、指輪やネックレス、ブレスレットといった宝石類が、皮膚が見えなくなるほどジャラジャラと巻き付けられていた。
死の淵。
人間と怪物の境界線。
彼女はそこで、死ぬことすらも厭わない己の強欲に溺れていた。
「……もうすぐ
最上は冷静に分析した。
彼女の自我はすでに崩壊している。残っているのは、肥大化した欲望という核だけだ。
あと数分もしないうちに、この女は人間の殻を破り、周囲の空間ごと現実を食い荒らす〈犯人〉へと変貌するだろう。
⚁
(そもそも、なぜ人は〈犯人〉になるのか)
目の前の醜悪な光景を見つめながら、梁人の意識はふと、遠い過去へと遡っていた。
すべての元凶。
かつて彼が、公安の協力者であった羽海野有数と初めて出会った、あの日の記憶へ。
――そこは、彼女の研究室だった。
壁を埋め尽くすのは、精神医学、脳科学、オカルト、量子力学に至るまで、あらゆる「精神」に纏わる書物。
そして、ガラス棚に整然と並べられた大小様々な瓶。
ホルマリン漬けにされた様々な生物の脳が、保存液の中で静かに浮遊する、死と知性の部屋。
『ねえ、最上くん』
白衣を纏った有数が、瓶の中の脳髄を愛おしそうに指先でなぞりながら、問いかけてきた。
振り返った彼女の瞳は、今、隣にいるアリスと同じ赤色だが、そこには無邪気さの代わりに、冷徹な狂気と知性が宿っていた。
『この世界に欠けているものは、何だと思う?』
当時の梁人は答えられなかった。
有数は薄く微笑み、自ら答えを口にした。
『真の怪物よ』
『怪物?』
『ええ。今の人間は不完全だわ。欲望を理性で飼いならし、社会という檻の中で小さくまとまっている。……退屈で、脆弱で、美しくない』
彼女は書架から一冊の本を抜き出し、パラパラと捲った。
『恐怖こそが生物を進化させる。絶対的な捕食者、抗いようのない絶望。それらが存在して初めて、世界は完成するの。……だから私は見てみたいのよ。世界というシステムを蹂躙し、支配する「完全な怪物」が生まれた世界を』
それは、マッドサイエンティストの妄言のようだった。
だが、梁人はその時、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
彼女は夢を語っているのではない。
実行可能な
⚂
意識が現在へと戻る。
そうだ。
今、この世界で起きている〈犯人〉の発生現象など、有数にとっては過程に過ぎない。
人々の抑圧された無意識が逆流し、異能を持って暴れまわる現象。
〈犯人〉とは詰まるところ、彼女がばら撒いた「怪物の種」でしかない。
羽海野有数が望んでいるのは、こんな雑魚ではない。
この世界を絶対的な恐怖によって支配し、塗り替えるための、唯一無二の怪物。
(あの夜……〈レッド・クイーン事件〉の夜。奴は確かに、それを生み出そうとしていた)
燃え盛る炎。崩壊する現実。
有数はあの夜、世界を恐怖で支配するための「器」を選定し、完成させようとしていたはずだ。
(奴が誰を「選んだ」のか。……完成した怪物がどこに潜んでいるのか、まだ分からないが)
梁人は、目の前で宝石と肉に塗れて蠢く女を見下ろした。
この女は違う。
羽海野が求めた「王」ではない。ただの失敗作、欲望の廃棄物だ。
だが、放置すれば人を殺す。
「……時間だ」
梁人は『ヴォーパル・カリキュラス』を構えた。
その銃口が、強欲な女の眉間に吸い込まれるように定まる。
「アリス、弾を拾え。……終わらせるぞ」
梁人の視線が、ペルシャ絨毯の染みの上に転がっていた小さな物体を捉えた。
それは、現実世界で彼女の周囲に散乱していたものと同じ――サナトン社の精神安定剤〈カーム・ホワイト〉の空き瓶だった。
かつて彼女が、暴れ狂う欲望を必死に押し込めるために縋り付いた、理性の最後の砦。
この狂った黄金の部屋において、唯一、「欲」ではなく「抑制」の概念を宿した遺物だ。
「拾え、アリス」
梁人の短く鋭い命令。
アリスは無造作に指を振るい、その空き瓶を宙に浮かせた。
「はいはい。……あーあ、最後までお薬頼みなんて、救いがないね」
少女の掌の中で、プラスチックの容器が光の粒子へと分解される。
圧縮された情報は、青白く澄んだ輝きを放つ、一本のクリスタルの弾丸へと再構築された。
それは〈論理断片〉。
彼女が人間であろうとした証であり、彼女を終わらせるための唯一の解。
「はい梁人!」
アリスが弾丸を放り投げる。
梁人はそれを空中でひったくるように掴み取ると、流れるような手際で『ヴォーパル・カリキュラス』のシリンダーへと滑り込ませた。
かちり。
乾いた装填音が、欲望に塗れた部屋の喧騒を切り裂く。
「あ、ウ、ま、まだ……もっと……!」
ベッドの上の女は、最上の殺意に気づいてすらいない。
宝石を貪り、肉を詰め込み、肥大化していく自らの欲望に溺れながら、ただ虚空に向かって何かを求め続けている。
最上は、その醜悪な姿に一切の慈悲を見せなかった。
躊躇いなどない。
これ以上、彼女を人間としての尊厳すら失った怪物にさせておくことこそが、最大の冒涜だ。
「眠れ。……今度こそ、永遠にな」
最上は引き金を引いた。
銃口から放たれたのは、物理的な鉛玉ではない。
青白い閃光が一直線に伸び、女の眉間――その奥にある、暴走した自我の核を正確に貫いた。
静寂な部屋に、割れる硝子じみた破砕音が盛大に響き渡った。
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