燃焼海②

 新宿の街は、奇妙なほどに平穏だった。

 昨日の〈首吊り兎〉による重力崩壊の爪痕は、未だ至る所に残っている。



 飴細工のように捻じ曲がったガードレール、一部が抉り取られた高層ビルの側面、規制線が張られたままの瓦礫の山。



 だが、その横を歩く人々は、何事もなかったかのようにスマートフォンを覗き、談笑し、足早に職場や学校へと向かっている。



​「へえ。人間って、もっと騒ぐかと思ったけど。案外ケロッとしてるんだね」

​ 隣を歩くアリスが、白いコートのポケットに手を突っ込んだまま言った。



 最上は、その無邪気な感想を鼻で笑った。



​「順応しただけだ。……あるいは、騒ぐことすら許されないか」



​ 2030年、新東京府。



 この街から、スリや強盗、殺人といった「旧来の犯罪」はほぼ消滅した。



 警察の検挙率が上がったからではない。



 殺意や強欲、切迫した他害意識といった「負の感情」を抱いた瞬間、その人間は〈支流ルート〉となり、物理法則を無視した怪物〈犯人〉へと変貌してしまうからだ。



​ 隣人が突然、巨大な肉塊となって暴れ出すリスクに比べれば、ナイフを持った強盗など可愛らしいものだ。



 だから市民は、必死に『善人』を演じる。



 ストレスを押し殺し、愛想笑いを浮かべ、無意識の底にドロドロとした澱を溜め込みながら、表層的な平和を維持している。



 皮肉なディストピアだ。


 >>>



​ 駅前の大型ビジョンの多くは昨日の衝撃波で破壊されていたが、唯一無事だった東口の巨大モニターが、毒々しいほど鮮明な映像を映し出していた。



​『――続いて、本日の精神汚染(メンタル・ポリューション)予報です』

​ ニュースキャスターが、天気予報と同じトーンで告げる。



 画面には「降水確率」の代わりに、脳の断面図のようなアイコンと数値が表示されている。



​『昨日の大規模災害の影響により、新宿エリアの大気中残留思念濃度は「やや高い」数値を記録しています。不安感、焦燥感を覚えやすい環境となっておりますので、外出の際は十分な対策をお願いいたします』



​ 続いて、画面が切り替わる。



 幸せそうな家族が食卓を囲み、白い錠剤を笑顔で飲み込むCMだ。



 バックに流れるのは、耳触りの良いヒーリングミュージック。



​『心の健康は、明るい未来へのパスポート。

 微弱な不安も、これ一粒ですっきり解消。

 国内シェアNo.1、サナトン社の精神安定サプリメント〈カーム・ホワイト〉。

 ……あなたの笑顔を、守りたいから』



​ サナトン社。



 今や新東京府のインフラを牛耳ると言っても過言ではない、巨大製薬企業だ。



 市民は毎朝、ビタミン剤の代わりにあの錠剤を飲む。



 思考を鈍らせ、感情の起伏を平坦にし、怪物化を防ぐための去勢薬・・・を。


​「……反吐が出る」

 最上は吐き捨て、視線を逸らした。



 あの薬が普及してから、確かに〈犯人〉の発生件数は減った。だが、発生した際の「凶悪度」は跳ね上がった。



 無理矢理に蓋をした鍋は、吹きこぼれる時は爆発するしかないのだ。



​「ねえねえ梁人! あれ見て!」

 社会の歪みなどどこ吹く風のアリスが、最上の袖をグイグイと引っ張った。



 彼女が指差したのは、瓦礫の撤去作業が行われているすぐ横で営業している、パンケーキ専門店だ。



「『奇跡のふわふわパンケーキ』だって! あそこがいい!」



​ 最上は深く溜息をついた。



 精神漂白で失った記憶の隙間に、甘い匂いと少女の喧騒が無理矢理ねじ込まれていく。



 これもまた、狂った日常の一コマだった。



​「……分かった。離せ、服が伸びる」

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