第2話 色のない世界で、君だけが鮮やか

「ねえ、佐山さん。しばらく僕と一緒にいてくれないかな」


 その日から、私の灰色の学校生活は――

 ありえない色彩を帯びて回転し始めた。


 教室移動の時も、休み時間も、一ノ瀬くんはそれとなく私に話しかけてくる。  

 廊下を歩けば、すれ違う生徒たちがギョッとして振り返る。「あの二人って仲良かったっけ?」というヒソヒソ話が、鼓膜を直接撫でるように聞こえてくる。  


 いたたまれなくて俯く私をよそに、一ノ瀬くんは気にする素振りも見せない。


 昼休み。

 私たちは人目のつかない西校舎の階段の踊り場で、お弁当を広げていた。  

 コンクリートの冷たい床に座り込んで、気になる彼の隣で卵焼きを食べるなんて夢みたいだ。


「ごめんね、こんなところに付き合わせちゃって」


 一ノ瀬くんが申し訳なさそうに眉を下げる。


「う、ううん。私はいつも一人だから……むしろ、一ノ瀬くんこそ、みんなとサッカーしなくていいの?」


「うん。今は、佐山さんとここにいたいんだ」


 彼は真っ直ぐに私を見て言った。  

 その瞳に嘘は見当たらない。


 私の心臓が、肋骨を蹴破りそうなほど跳ねた。  

 本当に、悪魔プチクロームが願いを叶えてくれたのかもしれない。この非現実的な幸福感に、私はふわふわと酔っていた。


 放課後、私は一瞬だけオカ研の部室に顔を出した。  

 恵麻と芙志子に事の顛末を報告すると、二人は目を丸くした。


「嘘でしょ? あの一ノ瀬楓が?」


 恵麻が疑わしそうに眼鏡の位置を直す。


「本当なの。急に仲良くなれちゃって」


 私が頬を緩ませて報告すると、芙志子が「すごいすごい!」と手を叩いて喜んでくれた。  


 私は有頂天だった。

 代償のことなんて、すっかり頭から抜け落ちていた。


 けれど、違和感は確実に忍び寄っていた。


 異変が決定的になったのは、その後の美術の時間の居残り作業だった。  

 風景画の色塗りが終わっていない生徒だけが美術室に残されていた。私と一ノ瀬くんもその中にいた。


 一ノ瀬くんは筆を握ったまま、パレットの前で固まっていた。  

 キャンバスの絵には微妙にちぐはぐな色が置かれていた。


「一ノ瀬くん? どうしたの」


 私が恐る恐る声をかけると、彼はビクリと肩を震わせた。

 そして、私の方を見て小声で囁いた。


「佐山さん……これ、どっちが青?」


 彼が指差したのは、青の絵の具と、深緑の絵の具だった。  

 チューブのラベルは汚れていて読めないが、色を見れば一目瞭然だ。


「えっ……こっちが青で、こっちが緑だよ」

「ありがとう。助かった」


 彼は安堵の息を吐き、青い絵の具をパレットに出した。  

 私は背筋が寒くなるのを感じた。


 嫌な予感がする。  


「……一ノ瀬くん、もしかして」

「実は、最近ちょっと目が悪くなっちゃってさ」


 彼は苦笑いを浮かべて、私の言葉を遮った。


「色がぼやけて見えるんだ。だから、佐山さんがいてくれるとすごく助かるよ」


 目が悪い。  

 そんなレベルの話なのだろうか。青と緑の区別がつかないなんて。  


 胸の奥で、黒い澱のような不安が渦巻き始めた。



 **


 美術室を出て、私たちは並んで下校した。

 

 日は傾き、街はオレンジ色に染まっているはずだった。

 交差点に差し掛かった時だ。歩行者信号が点滅し、赤に変わった。私は立ち止まったが、一ノ瀬くんは何の躊躇もなく、車道へ足を踏み出そうとした。


「一ノ瀬くん!」


 私は悲鳴に近い声を上げて、彼の腕を掴んで引き戻した。  

 その直後、目の前をトラックが猛スピードで通過していく。風圧が私のスカートと、彼の髪を激しく揺らした。


「危ないよ! 赤だったのに!」


 心臓が破裂しそうだった。  


 一ノ瀬くんは呆然とトラックの去った方向を見つめ、それから私を見て、ハッとした表情になった。


「……ごめん。考え事してた」


 嘘だ。  

 彼は真っ直ぐ前を見ていた。

 まるで、信号の色なんて存在しないかのように。


 信号が青に変わり、私たちは再び歩き出した。  

 繋がれたままの手。


 彼の手のひらは冷たく、微かに汗ばんでいた。  

 彼は私を好きで一緒にいるんじゃない――私という「ガイド」がいないと、この世界を歩けないからなんじゃないか?


 そんな冷ややかな推測が頭をよぎる。


 別れ際、夕焼けに照らされた公園の前で、彼は立ち止まった。  

 逆光で表情が見えにくい。


 けれど、その声だけは優しく、そしてどこか寂しげに響いた。


「今日はありがとう。……夕日に照らされた佐山さんは、とても綺麗だ」


 それは、恋する乙女なら誰もが夢見るような、甘い言葉のはずだった。  

 でも、私は素直に喜べなかった。彼の瞳は私を捉えているようで、その奥には何も映っていないような気がしたから。


「……うん、ありがとう」


 私は笑顔を作ったけれど、頬が引きつるのが分かった。  

 彼には、この夕焼けの赤色が、本当に見えているのだろうか。それとも、私だけが、この灰色の世界で唯一の色として、彼の目に焼き付いているだけなのだろうか。


 悪魔プチクローム。  

 その名前が、呪いのように私の脳裏でリフレインしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

恋のまじないとモノクロームな世界 猫野 にくきゅう @gasinnsyoutann

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画