恋のまじないとモノクロームな世界
猫野 にくきゅう
第1話 悪魔プチクロームと恋のおまじない
放課後の校舎は、どこか水槽の底に似ている。
部活動の掛け声や楽器の音が遠くから響いてくるけれど、私たちがいるこの場所だけは、世界のエアポケットみたいに静まり返っていた。
美術準備室の隅っこを間借りした、オカルト研究部――
通称『オカ研』の部室。
窓から差し込む西日は、宙を舞う埃をキラキラと照らしている。
けれど、その光さえも、うず高く積まれた本棚の陰に遮られて、私の手元までは届かない。
「この悪魔召喚は成功させるのよ。この前の、河童探しもUFO召喚も不発だったんだから」
小野寺恵麻がいつもの不機嫌そうな顔に期待を込めて言った。
彼女はひょろりとした長身を折り曲げるようにして、パイプ椅子に座っている。
机の上には、カビ臭い古書が山積みになっていた。
歴代の先輩たちが残していった負の遺産だ。私たちは今日、それを整理した時に見つけた魔導書の検証をしている。
「ええ、この本が一番古くて、一番本格的だったもの。きっと本物だわ」
私はボソボソと答えた。
自分の声は、いつも湿気を含んだように小さい。
私の隣で、ぽっちゃりとした竹内芙志子が困ったようにへらへらと笑っている。
彼女は気弱で、こういう時はいつもオロオロしているだけだ。
「まあ、河童もUFOも、影も形もなかったのは残念だけど、これは本物よ」
恵麻がため息をつく。
これまでの私たちの活動は、惨憺たるものだった。
地元の古地図を頼りに川へ行けば泥だらけになり、屋上で宇宙人を呼ぼうとすれば先生に怒られた。青春と呼ぶにはあまりにも地味で、滑稽な日々。
未確認生物にも、いまだにお目にかかれていない。
「じゃあ、やろうか。検証」
私が手に取ったのは、背表紙がボロボロになった黒い本だった。
タイトルには掠れた金文字で『悪魔プチクロームの召喚』とある。
プチクローム。
名前だけ聞けば可愛らしいけれど、ページを開けば、そこには禍々しい幾何学模様の魔法陣が記されていた。
私はコピー用紙にペンで魔法陣を模写し、机の中央に置いた。三人でそれを囲む。独特の緊張感が、部室の空気を張り詰めさせた。
「……始めるよ」
私は二つ結びの短い髪が邪魔にならないよう、そっと顔を上げた。
クラスメイトは誰も私の存在に気づかない、背景のような毎日。
それを変えたかったわけじゃない。
高望みなんてしない。
ただ、ほんの少しの奇跡が欲しかった。
心の中に浮かぶのは、教室の中心でいつも笑っている、一ノ瀬楓くんの姿。
サッカー部のエースで、さわやかで、誰にでも優しい彼。
私とは住む世界が違う、光の住人。
「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム。我は望み、希求する。いでよ悪魔プチクロームよ。我の望みを叶えたまえ」
震える声で呪文を唱え終える。
その瞬間、部室の蛍光灯がパチリと瞬いた気がした。
窓の外で、ゴウッと強い風が吹いてガラスを揺らす。
けれど、それだけ。
煙が上がるわけでも、床が割れるわけでもない。
悪魔は現れなかった。
(やっぱり、ダメか)
諦めにも似た安堵の中で、私は心の中で強く念じた。
『一ノ瀬君と仲良くなれますように』
数秒の沈黙の後、芙志子が額の汗を拭きながら口を開いた。
「ねえ、どう? 願いはかなった?」
二人の視線が集まる。
まさか「クラスの男子と仲良くなりたい」なんて願ったとは言えない。男と付き合いたがっていると思われそうで、顔が熱くなる。
「えっと……夕飯は、ハンバーグが良いなって……」
とっさに口をついて出たのは、そんな子供じみた嘘だった。
「それじゃあ、今すぐには分からないわね」
恵麻が呆れたように肩をすくめ、手元の魔術書をパラパラとめくった。
「この本、最後の方に注意書きがあるわ。『願いを叶えるには代償が必要であり――』えっ、代償?」「なんかヤバくない? ハンバーグが焦げるとか……?」
慌てる二人。
私は引きつった笑みを浮かべた。
恵麻の言葉を、私は上の空で聞き流していた。
何も起きなかったのだから、代償なんてあるはずがない。
そう思っていた。
***
翌朝。
憂鬱な気分のまま、私は学校の下駄箱の前に立っていた。
周りの生徒たちは、昨日のテレビの話や部活の話で盛り上がっている。
その喧騒の中、私は誰とも目を合わせないようにして、上履きを取り出した。
いつもの朝だ。
昨日のおまじないなんて、やっぱりただの時間の無駄だったんだ。
ため息をついて顔を上げた、その時だった。昇降口から入ってきた男子生徒が、まっすぐに私の方へ歩いてくるのが見えた。
一ノ瀬楓だった。
いつもなら、取り巻きの女子やサッカー部の仲間に囲まれている彼が、今日は一人だった。
(えっ……?)
私の心臓が早鐘を打つ。
彼の様子が、どこかおかしい。
整った顔立ちには焦燥の色が浮かび、視線は不安定に揺れている。まるで、暗闇の中で一点の光を探すような、そんな必死な目つき。
彼は私の目の前まで来ると、足を止めた。
近い。
ありえない距離だ。
周囲の生徒たちが、何事かとこちらを見ているのが分かる。
「……あの」
一ノ瀬くんが口を開いた。
その声は微かに震えていて、どこか縋るような響きがあった。
彼は私の顔をじっと凝視している。穴が開くほどに。まるで、この世界に私以外誰もいないかのように。
「佐山さん、だよね?」
初めて向かい合って名前を呼ばれた。
でも、どうして今……。
彼の瞳の奥で、何かが揺らいでいた。
私にはまだ分からない。
この瞬間、彼の瞳に映る世界が、すべて色を失った灰色の廃墟に変わってしまっていたことを。そして、そのモノクロームの世界の中で、私だけが鮮やかな色彩を放って立っていたことを。
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