未来ワイン

@Ichor

***

 いろいろな日々がありました。

 勿論、今ここでそのすべてをつぶさに思い出すことなどは、到底できるものではありません。

 でも確かにそれらは、私が過ごしてきた七十年余の時間の上に、ときにクリスマスの飾り電球のように、あるいは薔薇線の棘のように累々と散りばめられて、暗くも明るくも、冷たくも温かくも、そして忘れてしまったことでさえ、すべてが渾然一体となって、私という人間の人生の風味とでも呼ぶべきものを醸し出しているのです。


 どこからか、微かに祭り囃子が聞こえて来るような夏の夕暮れに、ほどよい涼風が額の汗を拭っていきますと、つい、ベランダへ出て缶ビールなどをやってしまいます。そんなときは明日の予定よりも、思い出にふける歳になったのだ、ということを否が応でも実感

させられます。

 私は、虫除けのお線香を足下に置いて、布貼りの折り畳み椅子に背を預けました。

 右手に持った缶を口元で傾けると、また風が、木綿のシャツから露出した私の腕や頚を撫でていきました。

―自分は生まれてからこれまでに、一体何本の缶ビールを飲んだのだろう―

 そんな取り留めの無いことを考えていますと、ふと妻の姿が脳裏に浮かんで来ました。たぶんそれは、半世紀も前の、子供のように若い頃の妻でした。

 ビールのせいで、一緒にお酒を飲んだときの記憶が呼び起こされたのか、それとも、遠くから聞こえて来るお囃子の音が、夏祭りの思い出でも運んで来たものか。

 でもすぐに、遠い記憶の中に漂う匂いが、そのどちらでもないことを私に教えてくれました。

 私は室内に戻り、文机の一番上の引き出しの奥から、一枚の小さな小袋を取り出しました。

 白かった袋は、今はすっかり黄ばんでしまって、表面に印刷されている文字も薄れています。ですが、北海道の土産物屋で、キーホルダーか何かを買ったときに入れてもらった袋だということは覚えています。

 新婚旅行でした。

 札幌で車を借り、二週間をかけて全道を回るという、いささか贅沢な旅でした。

 パックツアーではなく、点々と宿泊地だけを決めておいて、自由気ままに辿っていく旅でした。だから、ずいぶんと寄り道をしたものです。

 目を閉じると、澄み切った空の色も、どこまでも真直ぐな道も、喜びに猛る自らの心臓の鼓動までもが、今でもはっきりと蘇って来ます。

 ただ……一カ所だけ、それがどこだったのか、どうしても思い出せない場所がありました。

 脳裏に浮かんだのは、紛れも無くそのときの妻の姿なのです。

 妻は、私と揃いのトレーナーを着て、淡い霧の中に立っていました。霧の肌触りや木々の匂い、向こう向きに立つ妻の、髪留めの色や形まで覚えているのに、それがどこなのか分からないのです。

 私は、土産物屋の小袋の口に指を差し入れて、中の物を取り出しました。それはキーホルダーではなく、一枚の古い写真でした。


 折角、フリープランで北海道を周遊するのだから、道すがら目に付いた湖にはできるだけ寄って行こうと決めていました。

「ほら、あれ!」

 妻が頓狂な声を上げて、顔を左に回しながら窓の外を指差しましたので、私は慌ててブレーキペダルを踏みました。

「今、少し手前に看板があった!」

 妻は、今度は上体を右にひねって、座席の背もたれ越しにリアウィンドウの奥を見つめながら言いました。

 車をバックさせて見てみますと、左に細い林道が伸びていて、その入り口の辺りに手書きらしい木製の看板が立っていました。

「読めないな……よく、湖の看板だって判ったね」

「女の“カン”」

 ずいぶん古いものなのか、字が薄れてしまっていました。

―牧場かも知れない―

 私の“カン”は、そう言っていました。むしろ、判読できない看板に惑わされて、時間を無駄にしたくなかったのかも知れません。

 看板の下の方には、矢印のような形と数字の“2”が見て取れました。

「2キロか?……まあそのぐらいなら、次のホテルのチェックインに間に合うかな」

 私は、妻の喜ぶ顔を横目に見ながら、ハンドルを左に切りました。

 雑草を踏み分けるように刻まれた、ふた筋の“わだち”に沿って、林道の木漏れ日の中をしばらく走っていますと、ふいに、前方を黄金色の動物が横切りました。

「今の、キタキツネだった⁉」

 妻が「ねえ、ねえ」と言いながら私の袖を

引っ張りましたので、車を止めて欲しいということは、すぐに分かりました。

 でも私は「また、どこかで出会えるさ」と言って、そのまま車を走らせました。

 地図に無い湖は広さも判らず、見つからないこともありました。それに、あの不明瞭な看板が、やはり気になっていました。知らない森の中で道に迷ってしまったら、車中泊になるかも知れないと思いました。

 それからしばらく、妻は不満そうに頬を膨らませていました。

「少し霧が出て来たな」

 私が言うと、妻は窓の方を向いたまま「妖精って……いるのかな」と言いました。

 確かに、辺りにはそういう風情が漂っていました。


 あの時、霧にかすむ白樺の林の奥に、湖はあったのでしょうか。いくら思い出そうとしても、記憶は、揺らめく水面に映る影を見ているように曖昧で、はっきりとしません。そもそも、あの林道それ事態が夢だったのかも知れないとさえ感じるのです。

―夢なら、夢のままでもいい―

 古い写真は引き出しの奥に押し込んで、何かの勘違いだったのだと、忘れてしまってもいいのかも知れません。

 けれども私には、“気がかり”な事がありました。


「すぐに病院の方へいらしてください」

 妻が入院して、既に三ヶ月が経過していました。

 いつか、そういう連絡が入るだろうということは覚悟していました。でも心には、氷の塊を押し付けられたような、冷ややかな焦燥感が貼り付いていました。

―妻が逝ってしまう―

 突きつけられた現実に、私の五感は軽い酩酊状態のようにゆらゆらと定まらず、いつしか意識は過去の時間を彷徨っていました。


 結婚した頃は、夫婦生活はまるで“ままごと”のようでした。どこか“ぎこちない”やり取りの中で、少しずつ私たちなりの“夫婦らしさ”を作り上げて行ったのだと思います。

 ある時、味噌汁をすすりながら私が眉を“へ”の字に寄せたのを見て、妻が慌てて声を上げました。

「何か変⁉」

「いや、そんな風にじっと見つめられていたら変な気分だよ」

 私が言うと、妻はちょっとニガ笑いをしてから「それで、どう?」と問いました。

 私は、妻が作ってくれた“初めての”味噌汁を、抹茶でも品評するかのように、わざとらしく矯めつ眇めつ椀を傾けてから、小さく溜め息をつきました。

「やっぱり、美味しくない?」

「この味噌汁……インスタントじゃ、ないよね?」

 ちょっと笑いそうになるのをこらえながらそう言うと、妻は「ヒドイ‼」と言って私の肩を平手で打ちました。

「違う、違う。あんまり美味しいからビックリしたんだよ」

 少しお味噌は薄かったけれども、出汁が良く効いていました。

「それはホメ過ぎ。でも、嬉しい。……ジャガ芋、柔らかくなってた?」

「えっ? ああ、大丈夫」

 実は私は、子供の頃からジャガ芋とタマネギの味噌汁がニガテでした。

「今度は、ワカメと豆腐が食べてみたいな」

 妻は頷いて「任せて」と言いました。何だか胸の辺りがムズ痒くて、その後私は、缶ビールを三本空けました。

 デートをして、外でお酒を呑んだことは何度かありました。でも何と言いますか、その初めての晩酌の味は……いや、味はいつものビールでしたが、何だか回るのが早くて、すぐに鼻先がふわふわと良い気持ちになったのを記憶しています。

 何事と言えるほどのことも無く、時間は静かに過ぎて行きました。気がつけば、私たちは共に三十路を歩き始めていました。

 その年も、近所の公園のサクラが綺麗に咲いていると言うので、お弁当を持って、散歩がてらお花見に出かけました。

 ここかしこ、道の端には桜色の小さな花びらがわずかに吹き溜まっていました。

「風が、少し冷たいね」

 妻が身体を私に寄せて言いました。

「うん……そうだね」

 “花”の頃、春の気配は一時、肌寒い空気に包まれることがあります。

「“花冷え”って言うんだよ」

 ちょっと自慢気に言って、私は、お弁当の入った肩掛けバッグを反対の肩へ賭け直しました。

 少しひんやりとして、それでいて柔らかな春の空気の中、通りの向こうにぼんやりと公園のサクラ並木が見え始めると、妻は振返って、「ちょうどいいかも」と言いました。

「うん」

 サクラの“咲き具合”のことです。

 私たちは二人とも、七分咲きほどのサクラが好みでした。満開の“奢り”も、枝ばかりが骨のように透けて見える“心細さ”も無い、ちょうど良い華やかさ。そんな風情が、私たちの身の丈に合った安心感を与えてくれたのだと思います。

 公園の入り口に着いて、辺りのサクラを見上げますと、確かに花は六、七分咲きのように見えました。

「いい感じ」

 妻は私の言葉に軽く頷いてから、公園の遊歩道へ向かって小走りに駆けて行きました。

 遊歩道は、公園の外周に沿うように東西をつないでいて、東側の入り口から入って、ちょうど五本目のサクラが妻のお気に入りでした。

 私には良くわかりませんでしたが、妻は樹形が「カワイイ」のだと言っていました。

「えっ、どうして⁉」

 お気に入りのサクラを見上げていた妻が、怒ったように肩を上下させましたので、私は駆け寄って「……どうした?」と声を掛けました。

 指差す方を見てみると、サクラは綺麗に花を咲かせていました。それで私は、「このサクラが、どうかしたの?」と、もう一度問い掛けました。

 妻はこちらを振り向いて「枝……切られちゃった」と言って、唇を尖らせました。

 なるほど言われて見れば、確かに樹木の枝振りが変わっていました。

「植木屋さんが剪定したんだな」

「前の方が可愛かったのに」

 私は専門家ではないので、妻を納得させる理由は思いつきませんでした。

「放っておくと、大きく成り過ぎちゃうからじゃないかなあ。隣の木と枝がぶつからないように、とか……」

 後に、木に詳しい知り合いから聞いたのですが、道に張り出したり、電線に接触したりすると危険だからだそうです。

 それから、木々は密集して生えていても、互いにそれぞれの“領域”を守っていて、枝どうしが絡み合ったり、ぶつかったりすることはないのだと言っていました。

「自然は“あるがまま”が一番なのに」

 私も妻の意見に同感でした。

 人が手を入れると、自然の環境は悪くなって行くような気がします。


 重たい引き戸を引いて病室へ入ると、私に気付いた若い女性の看護師さんが、妻の枕元に顔を寄せて「ご主人が来てくれましたよ。がんばって!」と声を掛けました。

「先生……?」

 私は、恐る恐る白衣の背中に話し掛けました。

 担当の医師は、振り向いて小さく会釈をすると、こう言いました。

「今は少し落ち着いています。手を握って、言葉を掛けてあげてください」

 医師と看護師さんの間から、横たわる妻の手が見えました。

 私は、ベッドの傍らでお辞儀をするように屈んで、妻の顔を見つめました。顔色は、健康なときとあまり変わらないように見えました。ですが、長い入院で伸びた髪は、その生え際に本来の年齢がはっきりと表れていました。

『お互いに……歳を取ったね』

 心の中で呟いて、私は両の掌で妻の手を包みました。

 両親よりも長い日々を共に過ごして、数えきれないほどの会話をして、数えきれないほどの思い出を紡いで来ました。

 でも、積み上げて来た時間をどれほど手繰ってみても、管につながれて目を閉じる妻に掛ける言葉は、見つかりませんでした。

 枕元に置かれたバイオモニターの、ポツ、ポツ、という機械音が、微かに残った妻の命の証を刻んでいました。

 私は妻の手を握ったまま、ふと、窓の外の抜けるような秋の空を見上げました。

「もう……いい……」

 はっとして視線を戻して見ますと、妻は薄目を開いて私を見上げていました。

「やぁ、どうしたんだい?」

 私の声に、妻の唇が何か言いた気に小さく動いたように見えました。それで、顔を近づけるようにして「どうして欲しい?」と聞き直しました。でも、虚ろな瞳は私を通り越して、ただ虚空の彼方を見ているようでした。

「僕が、わかるかい?」

 私は妻の手の甲をそっと擦りながら、もう一度声を掛けました。

「もう……ちょう、ど」

 切れ切れに、声にならない妻の“声”は、思い出を共有する者にだけ、その言葉の意味を伝えていました。

 きっと妻は、夢うつつにサクラを見ているのだろうと思いました。それで「ああ、ちょうどいいよ」と、私は四角い青空に浮かぶ、秋の雲を見上げながら、小さな嘘をつきました。

 すると妻は、絞り上げるように「ごめん…なさい……見つ…からない」と言って、ゆっくりとベッドに沈み込むように、動かなくなりました。


 硬いもの同士がぶつかるような、短く鋭い音に耳を叩かれて、私は顔を上げました。

 地平線が朱色に滲んで、夜が訪れようとしていました。どうやら少しの間、眠ってしまったようです。私は、足元に落とした空き缶を拾うと、ゆっくりと布貼りの折り畳み椅子から立ち上がって、部屋へ戻りました。

「少し酔ったかな……」

 頭の中では、あの、妻の最後の言葉がぐるぐると回っていました。

―サクラが、もう見つからない……と―

 それが妻の最後の言葉でした……でも。

 ずっと、何か変だと感じていました。

「もう、そろそろ……」

「えっ?」

 室内に戻ってカーテンを引いたとき、ダイニングの方から、そんな妻の声が聞こえたような気がして、思わず振返りました。

「……見つからないの」

 また……。

 無論、そこに妻がいるはずはありません。

 その声はおそらく幻聴か、記憶の底から涌き上がって来たものに違いありません。

 それでも私は、いないはずの妻に「何が見つからないんだい?」と、問い掛けていました。

 すると忽然、以前にもこんな会話をしたことがあるような気がして、私は眉間に指を当てました。


―今夜は洋食かな?―

 ダイニングから漂って来る香りに鼻腔をくすぐられながら、たぶん私は、そのとき居間で新聞を読んでいたと思います。

「大丈夫かい?」

 私は、そう問い掛けました。

 そう……大丈夫かと聞いたのです。

 妻が還暦を過ぎた頃だったと記憶しています。その頃の妻は、物忘れが多くなってきたことを気に病んでいました。

 程度の違いこそあれ、歳を取ればそのくらい誰にでもある事だろうと思っていました。でも妻は、何かを探しているうちに、何を探していたのかを忘れてしまうようでした。

「ちょうどいい頃なんだけど……」

 妻は私の方へは応えずに、ひとり言を唱えながら、あちこちと動き回っては何かを探していました。

 長い年月を共に過ごしているうちに、聞こえて来る音だけで、食事の支度が整ったのかどうかは分かるものです。ちょうど、ご飯を盛りつけた茶碗がテーブルに置かれたタイミングで、私は一つ咳払いをしました。

 それは「もういいかい?」という意味でした。そして程なく、妻が居間へやって来て「ご飯、食べましょ」と言うのです。

 その晩も、いつものように妻の足音が近づいて来ました。ところが、新聞越しに聞こえたのは「ごめんなさい」という言葉だったのです。

「どうかした?」

 私は、新聞をたたんでテーブルの端に置くと、向かいに座った妻の表情を窺いながら訊ねました。

 妻は、私の視線を逸らすように顔を傾けると「約束……ちょうどいい頃かな、って」と言いました。

―約束?―

「何だったかな?」

 妻がグラスに注いでくれた泡に唇を差し込みながら、このひと月ほどの記憶を辿ってみました。

「今夜は、これで我慢してね」

「えっ?」

 私のグラスへビールを注ぎ足しながら、妻は笑顔の下に、どこか不安そうな表情を隠していました。そして「今度、見つけておくから」と言いながら箸を動かし始めました。でも、すぐにその手を止めて、遠い視線で天井を見つめていました。

「そのうち見つかるさ」

 私は妻を慰めるつもりで、そう、声をかけました。

 それきり、その“探し物”が話題になることはありませんでした。


「さて、と……」

 少し早いけれど、今夜はもう横になろうと立ち上がりかけたとき、虫の羽音のようなけたたましい音が、文机の上に響きました。

「今、何時だ?」

 私は卓上のデジタル時計を一見してから、携帯電話と老眼鏡を手に取りました。

 息子からメールが届いていました。

―明日、仕事帰りに寄っていい? ちょっといいワインが手に入ったんだ。たまにはオシャレなのもいいだろ? 一緒に飲もうよ―

「ワイン、だって?」

 男の子は母親に似ると言うけれども……そう言えば、妻もワインが好きだったような気がします。

 私は、専らビールか焼酎をやります。むしろ「果実酒は、あんまり……」

―今夜は、これで我慢してね―

「えっ?」

 私が携帯電話から目を上げると、いつの間にか目の前にテーブルがあって、向かい側に妻が座って私を見ていました。

「今夜は、これで……」

 妻は言いました。

「我慢も何も、ビールは好きだよ。いったい何を我慢することが……」

 私は腕組みをして目を伏せました。

 そうして記憶を辿ってみましたが、やはり妻の言う“約束”に心当たりがありません。

―僕が支えるから……キミは何も心配しなくていい―

 心が少し、ざわついていました。

 私は努めていつも通りに、ビールのグラスに手を伸ばしました。

 そのときふいに「ねえ!」と、自分のすぐ左側から呼び掛けられたので、思わず身体が跳ねてしまいました。

「大丈夫?」

 ちょっと、からかうように言って、声の主はクスクスと笑いました。

「えっ……」

 その声に一瞬、記憶の水底で砂に埋もれそうになっていた小さな光が、見えたような気がしました。それで、ちょっと肩をひねるようにして、そちらへ顔を向けてみました。

「あっ……!」

 その“人”を見た途端、震えるような熱い感覚が私の身体の芯を貫きました。

「少し手前に看板があったよ」

 その、少女のように若い女性が、リアウィンドウを振返って言いました。つられて周りを見回しますと、私は、その女性と二人で小さな自動車に乗っていました。

「……まさか、あのときの」

 私は改めて助手席の女性を見ました。

「ねえ、行ってみようよ」

 女性が、さも親し気に私のシャツの袖をつまんで引っ張りました。私はふと、ルームミラーを見上げました。小さな鏡の中から怪訝な表情でこちらを見返している若者は、紛れもなく、五十年前の私自身でした。

―ここは、写真の……あの日?―

 私は思いました。

 そして、鼓動の高鳴りを感じながら、もう一度助手席の方へ目をやりますと、あの日の若い妻が、ぱちりと開いた艶やかな瞳で私を見ていました。

「見に行ってみようか」

 自分はあの時、こんなことを言ったただろうか。そう思いながらも、言葉は自然に口を衝いて出ていました。

 シラカバの林道は、緩やかにくねりながら霧の奥へ続いていました。

―果たして、あの道の先に湖はあったのだろうか―

 老いた私は、それまでずっと思っていたことを心に浮かべながら、若々しい腕でハンドルを握っていました。

「あっ、キタキツネ!」

 妻が言って、また私の袖を引きました。

「また、どこかで……いや、そうだね」

 私は静かに車を止めて、エンジンを切りました。そして、「驚かさないように、車の中から見よう」と言いました。

 ……ええ。あの時の二人には、まだまだたくさんの時間があったのです。今なら、そのことが本当によく解ります。

―急ぐ必要なんて、なかったんだ―

「えっ何?」

「ゆっくり見て行こう」

 振返った妻の顔が眩しくて、私は思わず目を細めていました。


 それから、どのくらい走ったでしようか。

 幾重にも重なった、柔らかい霧のベールを掻き分けるように進んで行きますと、木の間に、澄んだ瑠璃色を跳ね返す水面が見えました。

 その小さな湖は、水底に小山を盛り上げている湧水の営みさえ、はっきりと見てとれるほどに澄み切っていました。

―ここなのか?―

 この、小さくも美しい湖を、自分は何故忘れてしまったのだろう。そんな思いを抱きながら、私は湖畔に佇む妻の後ろ姿を見つめていました。まるで一幅の日本画のようなその風景は、間違いなくあの写真そのものに見えました。

 私が小型カメラのシャッターを切ると、その音に、妻が振返りました。

「魚でも居た?」

 腐ることなく湖底に沈んでいる、大小の倒木を見ながら私が言うと、妻は「妖精が隠れていそう」と言いました。

 そして、湖の対岸を指差して私の顔を見上げました。

「ほら、あの光……何だろう」

 少し陽が傾いてはいましたが、まだそれほど暗くはない林の奥に、ぼうっと、微かな灯りが見えました。よく見ると、小さな建物も見えました。建物はコテージか、何かのお店のようでした。

「行ってみよう」

 私は妻の手を取って、湖の対岸へ向かいました。

 シラカバの林の中にひっそりと建つ、木造の和モダンな建物を見たとき、突然、頭の真ん中から何か温かいモノが、じわっと広がったような気がしました。

 そして、あのときの時間と今の時間がゆっくりとスライドして、ファインダーのピントがピタリと重なったように感じたのです。

―確かここは喫茶店、だったと思う。何か軽いものを食べた……そう、生ハム・オレンジを一皿と、それから―

「看板、無いね」

 妻が、ちょっと不安そうに言いました。

「たぶん喫茶店だよ。ほら、コーヒーのいい匂いがする」

 ドアベルをカラカラ鳴らして、私は木製の扉を開きました。店内の様子は、記憶とは少し違っていました。私たちは、たぶんあの時と同じ、湖の見える窓際のテーブルに席を取りました。

「いらっしゃい」

 カウンターの向こうから、黒いエプロンに白ヒゲの老マスターが、落ち着いた低い声で言いました……いえ、あの頃は老人にしか見えなかったのですが、70を過ぎた今の私には、年下の中年紳士に見えます。

 水とメニューを配膳すると、マスターは私の顔を見て、小声で「お久しぶりです。ワインは、いかがでしたか?」と言いました。

―どういうことだ……これは自分の記憶ではないのか?―

 私は何も答えずに、ただマスターの顔を見上げました。

 すると、メニューを見ていた妻が「ワインがあるんですか?」と訊ねました。マスターはコクリと顎を引いて「おすすめがございます。試飲なさいますか?」と言いました。

 ほどなく、料理とワイングラスがテーブルに運ばれて来ました。

「あの、僕は運転があるので」

 私は掌をマスターに向けて、ワインを辞退しました。

「あっ、そうか。ゴメンなさい」

 妻は申し訳なさそうにそう言いましたが、正直、私はあまりワインが好みではありませんでした。

「僕はいいから。キミが気に入ったら、お土産に買って行こう」

 そう言うと、妻は嬉しそうに頷きました。

 そのとき私は……注がれたワインを見て、

確か……。

 ボトルに貼られたラベルを見ると、ただ真っ白で何も印刷されていません。そして、ワイン自体も無色透明で、ただの水にしか見えません。

「変わったワイン、ですね」と、私が言いますと、マスターは口ヒゲの端をちょっと上げて、ただ「ええ」と言いました。

―何だか胡散臭いな―

 妻も、グラスの脚をつまんで口元へ近づけると、ちょっと眉を寄せ、目で私に“ハテナマーク”を一つ二つ送ってからワインを一口飲みました。

―どう?―

 私も目で、訊ねました。

「ただの水みたいでしょう?」

 そのとき、マスターがそう言って笑ったので、私たちは思わず、同時に彼の顔を見ました。

「……実は、このワインはまだ“飲み頃”ではないんです」

「どういうことですか?」

 妻が訊ねたとき、私は偶然、彼女が持ったグラスの底から小さなアワが一つ涌き上がって消えるのを見ました。それ事態は大した事ではないのですが、手品を見ているような、何だか不可思議な感覚がありました。

「このワインは、持ち主の“想い”を吸収して醸成する、特別なお酒なんです。銘は“未来ワイン”と言います」

 私は、マスターがお客を楽しませるためにお伽噺をしているのだろうと思いました。でも、試飲用のワインが水だというのは、少しやり過ぎだと感じました。

 それで、何となく皮肉を込めて「一本、いくらですか?」と聞きました。


「……で、いくらだったの?」

 息子は、私がテーブルに置いたワインボトルを手に取って、怪訝そうに眺めました。白無地だったラベルには、いつしかパステル調のサクラが描かれていました。

「いや、そのとき買ったのかどうかも覚えていなかったんだよ」

―そうだ―

 忘れていたのは妻ではなく、私の方だったのかも知れません。

 そう言えばあのとき、マスターは言いました。

「そうですね……お二人が、還暦を過ぎた頃には飲み頃になっているでしょう」

 還暦など遥か彼方のことのようで、私はただニガ笑いをしていた気がします。 

「じゃ、開けるよ」

 息子は慣れた手つきでコルクスクリューをねじ込むと、ゆっくりとコルク栓を抜き出しました。そうして、ボトルの口に鼻先を寄せて二、三度顎を左右に振ってから「うん……ちゃんとワインだよ」と言って笑いました。

「そうか。ずっと床下に転がしたままだったから、もうダメなんじゃないかって、心配してたんだ。それじゃ……お母さんにも」

 私は、小さいグラスにワインを注いで仏壇に供えました。

―これ……たぶん、あの時のワイン。見つけたよ―

「本当に買うの?」

 マスターがカウンターへ戻って行ったのを見て、私は小声で言いました。

 その時キミは頷いて……確か、こう言っていたのを思い出しました。

「二人で歩いて行く時間がワインになるなんて、素敵だと思わない?」って。

―忘れていて本当にすまない。でも……―

「私は、どんな味になったのか、少し怖い気がするよ」

 食卓へ戻ると、息子が遠くを見るような目で天井を見上げていました。

「やっぱりダメか?……それ」

 私がボトルを指して言うと、息子は、ゆっくりと視線を落として、手に持ったワイングラスを見つめました。

「いや、まあまあだよ。主張が強い訳じゃないけど……何て言うか、何となく“懐かしい”味、かな?」

「解るような解らないような……どれ」

 グラスに注がれたワインを、ちょっと光に透かして見てから……、口を寄せて香ってみて……、それから……

「……どう?……お父さん?」


 あのとき僕は、小さな湖を見つめて佇むキミの後ろ姿に、思わずカメラのシャッターを切りました。

「魚でも居た?」

 僕が話しかけると、キミは振返って、

「妖精が隠れて……」

 僕は咄嗟に、右手の指でキミの言葉を遮りました。

「妖精なら、見つけたよ」

―さっき写真を……―

 すると今度はキミが、細い手指を僕の唇に乗せて、柔らかく微笑みました。そして、恥ずかしそうに目を伏せて、

「サクラが咲いたら、きっと思い出してね」と言いました。

「なにを言ってる?」

「ワイン、一緒に飲めなくて……ゴメンなさい」

「そんなこと……。それは僕の方が」

「……私、本当に幸せだったよ。だからきっと、美味しいワインになってるはず、でしょ?」

 そのとき忽然と、胸の奥から何かが勢いよく溢れ出すのを感じました。

「ねえ……⁉」

 言いたい事が、たくさんありました。

 それで、私は妻の方へ、思い切り両手を伸ばしました。けれども“霧”に触れることは出来ませんでした。

 妻は「ありがとう」と言いながら、その姿は次第におぼろげになっていきました。

 幾歳月、一つずつ丁寧に積み重ねてきた思い出や感情が、間欠泉のように身体の芯を突き上がって来て……私はその熱い“ほとばしり”を目頭に押し留めることが出来ませんでした。



 ドアベルをカラカラ鳴らして、子供のように若いカップルが、和モダンでお洒落な店内に入って行きました。

「いらっしゃい」

 エプロン姿の老マスターが、カウンターの奥から二人の方を見て微笑んでいました。

「やっぱり!……きっとここだよ」

 彼氏が弾むような声で言いました。

「何が?」

 彼女が問うと、彼氏は腕組みをして、

「俺の爺ちゃんが若い頃、婆ちゃんと来た店だって、親父が言ってた。親父は見つけられなかったらしいけど。絶対ここだよ」

「ふぅん、そうなんだ」

 そうして、若い二人は窓際の席に座りました。

「マスター、ワインはありますか?」

 彼氏が言うと、マスターは小さくコクリと顎を引いて、

「ええ。まだ飲み頃ではありませんが、試飲なさいますか?」と言いました。

 テーブルに置かれたワイングラス越しに、お店の窓が、痩せて歪んだ形に見えました。その窓ガラスの向こうには、瑠璃色に透き通る小さな湖が、静かに佇んでいました。


—終—

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