笛の音の遺言

武陵隠者

プロローグ:死せる街の年代記

​ ウェーザー川は、今日も変わらず泥色に濁り、重々しく流れている。

 千二百八十四年のあの春の日も、川はこうして流れていた。変わったのは、川面を見つめる私の眼が白く濁り、手綱を握るべき指先が、節くれ立った枯れ木のようになったことだけだ。


​ ハーメルンの街は今、一つの「巨大な嘘」を呼吸して生き永らえている。

 窓を開ければ、広場から子供たちの嬌声が聞こえてくる。だが、その声が「ブンゲローゼン通(太鼓禁止通り)」に差し掛かると、不自然に、かつ暴力的に途絶えるのを私は知っている。あの通りでは今も、調べを奏でることも、踊ることも禁じられている。数十年前に消えた百三十人の若者たちの不在を、街は「静寂」という名の儀式によって、無理に維持し続けているのだ。


​ 広場に面した教会のステンドグラスには、色鮮やかな衣装を纏った「笛吹き男」の姿が嵌め込まれている。市民たちは、そのガラス越しの光を浴びながら十字を切り、悪魔の誘惑を退けた自分たちの信心深さを再確認する。彼らにとって、あの事件はもはや権力者の失態でも、人口の流出でもない。語り継ぐべき、甘美で残酷な「奇跡」なのだ。


​ 酷い皮肉だ。

 彼らは、自分たちが「捨てられた」という耐え難い真実よりも、「悪魔に奪われた」という劇的な虚構を選んだ。人間という種族は、自尊心を保つためなら、歴史を平気で生贄に捧げる。


​ 私は、重い腰を上げ、書斎の机に向かった。

 机の上には、一束の羊皮紙と、黒々と光るインク壺が置かれている。私はこの数十年、市書記官として数万枚の公文書に署名してきた。税収の記録、土地の売買、ギルドの規約。それらはすべて、この街の体裁を保つための「表の文字」だ。

 だが今、私の前にあるのは、誰にも見せることのなかった「裏の文字」である。


​ 私は、あのコッペンの丘で、ブランデンブルクの印章を燃やした。

 若者たちの未来を守るために、私は歴史を殺した。

 だが、死者は埋められることで、皮肉にも「伝説」という名の永遠を手に入れてしまう。私が隠蔽した真実は、年月を経て、より強固な、より手の付けられない神話へと変質してしまった。


​ このまま私が死ねば、真実は私という肉体の腐敗と共に、完全に消滅するだろう。それでいい、と自分に言い聞かせてきた。

 だが、死を目前にした私の指先は、奇妙な熱を帯びている。一人の記録者クロニストとしての本能が、私の喉元を締め上げる。「それでいいのか?」と。

 真実を抹殺した男として、真実を綴る。この矛盾こそが、私が己に課すべき最後の刑罰ではないか。


​ 私は、羽ペンをインクに浸した。黒い液体が白い羊皮紙の上に落ち、染みを作る。それは、隠蔽された血の色のようにも見えた。


​ 私は、これから書くべき物語の冒頭に、こう記した。


​『これは、ハーメルンの公式記録ではない。

 ある一人の書記官が目撃し、そして殺害した「真実」の遺言である。

 未来の読者よ。もしお前が、魔法や悪魔の物語を求めているのなら、直ちにこの紙を火にくべるがいい。

 ここにあるのは、契約と、泥と、そして人間の意志が引き起こした、あまりに現実的な事件の全貌である。』


​ 私の指は、もう震えていない。インクの臭いが、老いた脳を覚醒させる。

 

 さあ、記録を始めよう。

 笛の音が、どこから聞こえてきたのか。

 そして、若者たちが本当はどこへ歩いていったのか。

 「ハメレン」という名の、その新しい世界の座標を、私はこの紙の上に再び刻みつける。


​ 物語は、あの一二八四年の、少し肌寒い春の日から始まる――。

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