静寂の電話
ささやきねこ
静寂の電話
国道沿いの歩道は、夜の雨にすり潰されていた。
アスファルトを叩く水の粒は細かく、低い持続音となって足元から這い上がってくる。ヘッドライトの光が遠くで滲み、白い筋となって流れるたび、私は自分がどこへ向かって歩いているのか分からなくなる。
逃げ場のように、そこだけがわずかに明るかった。
電話ボックスだった。
濡れたアクリルの扉に手をかけた瞬間、指の腹に冷たい水膜が吸いついた。滑る。掴み直すと、蝶番が短く鳴いて、扉が内側へ開いた。雨音が一段、遠のく。私はその隙間へ身体を押し込み、急いで扉を引いた。
密閉音がした。
それだけで、外の世界が一枚の薄い膜の向こうへ退いた気がした。
だが中の空気は、思ったよりも重い。
湿った紙と、甘苦いカビと、冷えた金属が混ざり合った匂いが、喉の奥へねっとりと張り付く。床のゴムマットは黒く濡れ、体重を預けるたび、粘ついた摩擦音を立てた。逃げ込んだはずなのに、息が浅くなる。
照明は弱く、白い膜のような光が天井から落ちていた。曇ったガラスに弾かれ、私の影は輪郭を失ったまま足元に滲んでいる。
――早く出たい。
そう思った瞬間、私は受話器に手を伸ばしていた。
なぜそうしたのか、自分でも分からない。
ただ、沈黙の重さに耐えられなかった。
黒い受話器はフックに掛かり、コードを伝って細い水滴が落ちている。指先で持ち上げると、 死人の肌のように冷たく、硬い感触が私の体温を拒んだ。思わず取り落としそうになり、それでも離せなかった。
耳に当てた瞬間、
「サーーー……」
砂を擦り合わせるような、途切れない音が流れ込んできた。
電子音ではない。雨音と似ているのに、どこか違う。外で降っている雨と、受話器の中で降っている雨が、わずかにずれた層として私の鼓膜を挟み込む。二重の世界に閉じ込められたようで、奥歯が小さく震えた。
切ろうとした。
だが指が、受話器に貼り付いたように動かない。
喉がひくりと鳴った。声を出そうとしたのに、空気だけが漏れた。冷えた汗が背中を這い落ちる。逃げ込んだはずのこの箱が、いつの間にか 逃げ場のない檻 に変わっていた。
ガラス越しに、自分の顔が映っている。
外側を流れる雨粒が、像を細かく歪ませる。鼻の位置が揺れ、口元が引き伸ばされ、次の水滴で戻る。瞳も同じように揺らぎ、定まらない。
私は瞬きをした。
――ガラスの中の「私」が、目を閉じた。
そして、開かなかった。
暗い線だけが、そこに残った。
こちらの視界は開いたままなのに、映る像だけが、永遠に閉じた瞼を持ったまま、雨に溶かされ続けている。
「サーーー……」
音は変わらない。
外の雨と、内側の雨が重なり、境界を溶かし合う。受話器の中と、ガラスの外と、私の耳の内側が、同じ粒子で満たされていく。
遠くでエンジン音が近づき、トラックのヘッドライトが一瞬、白く四角い空間を満たした。
――影が、ない。
壁に落ちるはずの影が、どこにも現れない。受話器の輪郭だけが床に薄く映り、その手前にあるはずの 私の形は欠けたまま、闇と同化していた。光はそのまま背後へ抜け、国道の暗さが元に戻る。
私は、受話器を見た。
黒い受話器と、垂れたコードだけが、宙に浮いたように見える。そこに接続されているはずの 「私」だけが、いない。
床の水たまりに、小さな波紋が広がった。雨粒が扉の隙間から入り込んだのだろう。輪はすぐに消える。私の存在のように。
切らなければ。
今度こそ、そう思った。
力を込めた。指が、軋むほどに受話器を握りしめる。それでも、動かない。まるでこの冷たい塊のほうが、私を掴んでいるみたいだ。
「――たすけ……」
声は、音にならなかった。
代わりに「サーーー」という雨の音が、喉の奥から流れ出ていくような錯覚に襲われる。私の中にあったはずの言葉が、粒子に分解され、音の層に混じっていく。
ガラスの中の閉じた瞼は、なおも動かない。
ただ雨だけが降り続け、私の輪郭を少しずつ削っていく。
寒気が、骨の中から広がった。
匂いも、感覚も、恐怖も、すべてが静かに薄まっていく。抵抗する力すら、音の中に溶けていく。
――なぜか、
この音を、これ以上聞いてはいけない気がした。
だが同時に、聞き続けなければならない気もした。
その二つの直感が、静かに一つへと重なった瞬間、
私は 何かの境界を越えた。
それがいつだったのか、自分では分からない。
気づいたときには、受話器がガラスに軽く当たり、
コツ。
コツ。
と、乾いた音を立てて揺れていた。
国道脇に、電話ボックスが佇んでいる。
濡れたガラスの内側に、弱い照明が反射している。
中には、誰もいない。
受話器だけが、コードにぶら下がり、緩やかに揺れている。
雨音と、その乾いた衝突音だけが、夜の中に続いている。
コツ。
コツ。
静寂が、まだ鳴っている。
静寂の電話 ささやきねこ @SasayakiNeko
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