第10話 朱音アカリ、牙を剥く

夕暮れの校舎は、不気味なほど静かだった。


保健室の前、

玄関へ続く薄暗い廊下で、蒼月凛は白音夕奈と並んで歩いていた。


今日一日、何度も感じた空気のざわつき。

白音はそのたびに凛の袖を掴み、

周囲を警戒していた。


その理由は、もう説明するまでもない。


──朱音アカリ。


放課後のあの気配は、

ほんの“挨拶”でもなんでもなかった。


白音は、歩きながらぽつりと呟いた。


「蒼月くん……

今日、何度もその……すみません」


「謝ることじゃないですよ。

俺も、白音さんがそばにいてくれる方が安心ですし」


白音は息を飲んだように、目を伏せた。


ほんのわずかな沈黙。

その間に、凛の胸の奥がきゅっと温かくなる。


しかし──

その余韻を、急な寒気が突き破った。


風のない廊下なのに、

凛の首筋を“指先でなぞられたような感覚”が走った。


白音も同時に凛の手を握る。


「……来ます」


声が震えている。

恐怖でではなく──凛を守ろうとする焦りで。


次の瞬間。


廊下の奥に、赤い色が揺れた。


ただ立っているだけなのに、

空気がねじれたように重くなる。


朱音アカリが、ポケットに手を突っ込んだまま歩いてきた。


「やっと二人きりになれたね」


その声は楽しげで、

それが何より恐ろしい。


凛は白音を背に庇おうとしたが、

白音の方が早く前に出た。


「……近づかないで。

蒼月くんには……指一本触れさせません」


アカリの口元がゆっくりと吊り上がる。


「その“必死な顔”……ほんと好きだなぁ、姫巫女ちゃん」


そして──

アカリの足元が、風もなく、音もなく消えた。


(──速い!!)


凛の視界が追いつかない。

まるで瞬間移動のような動き。


白音は即座に凛の腕を引っ張り、

二人は横に跳んだ。

その瞬間、アカリの爪先が凛の顔の横を掠めた。


壁が裂け、破片が飛び散る。


「おー、避けるんだ。

やっぱり原初くんは反応がいいねえ……

壊しがいがある」


凛の背中を汗が濡らす。


(……本気で殺しにきてる……!

こいつ、昨日とは段違いだ……!)


白音が息を整えながら言った。


「蒼月くん、下がってください。

彼女は──私が止めます」


アカリはあざ笑うように目を細める。


「止める?

あなたが私を?」


「ええ。

あなたに蒼月くんは渡しません」


アカリの表情から一瞬、笑みが消えた。


ただの挑発に見えたが──

その言葉には、

白音の“覚悟”が確かに宿っていた。


アカリがゆっくりと構えを変える。


「……面白い。

じゃあ、姫巫女ちゃん。

あなたの覚悟、壊してあげる」


白音も静かに前へ一歩踏み出す。


普段は控えめで優しい少女が、

今は“凛を前に出させない”ためだけに立っていた。


「来なさい。

あなたの狙いは──私が守ります」


アカリの目がすうっと細まる。


「その言い方……

本当に、好き。

……だから余計に壊したくなる」


言葉が終わる前に、

アカリは前へ飛び出した。


靴音など一切しない。

ただ影が走る。


白音は腰をひねり、アカリの初撃を回避。

足が空を切り、廊下が砕け散る。


続けざまに二撃、三撃。

アカリの攻撃は鋭く、力もスピードも桁違いだ。


けれど──

白音は避け続ける。


その姿は、凛の目から見ても不思議だった。

白音には、“見えて”いるのだ。


アカリの殺気も軌道も。


アカリが軽く笑う。


「避けるの上手。

でも──そろそろ限界でしょ?」


白音は息を整え、構え直す。


「あなたの攻撃は……

“蒼月くんを守るため”なら、全部見切れます」


その声にアカリが僅かに表情を変えた。


「……そう。

じゃあこれでどう?」


アカリの身体が一瞬で消え──

白音の背後に回る。


(──危ない!!)


凛が叫ぶより早く、

白音は反転し、アカリの手首を掴んだ。


一瞬。

本当に刹那の攻防。


アカリの手が止まった。


白音の手も震えている。


アカリは目を見開き、

そのまま白音の額に鼻が触れそうな距離で囁いた。


「……ほんとに、守るつもりなんだねぇ……

そこまで?」


白音の瞳は揺れなかった。


「当然です。

蒼月くんは……私が守ります」


アカリは唇を噛み、

ぞくりと背を震わせた。


興奮したのだ。


深く、満足げに。


「……いいね。

あなたみたいな子、大好き」


アカリは手を引き抜き、後ろに跳ぶ。


「今日のところは帰るよ。

次はもっと……深いところまで触れさせてもらうね、原初くん」


その言葉に、

白音の指が凛の袖を無意識に掴む。


アカリはひらひらと手を振り、

廊下の影へ溶けるように消えていった。


静寂。

残されたのは凛と白音だけ。


白音は凛の方へぐっと振り向いた。


「……蒼月くん、怪我は……?」


「大丈夫です。白音さんのおかげで」


白音は安堵したのか、

その場に膝から崩れ落ちた。


「……よかった……

本当に……怖かった……」


凛は慌てて白音の肩を支える。


「白音さんこそ、怪我……!」


白音は首を振り、

震える声で言った。


「蒼月くん……

こんなに……私……怖かったんです。

あなたが……連れて行かれるのが……」


その言葉に、

凛は胸が苦しくなるほど締めつけられた。


白音は目を伏せ、

そっと凛の胸元に額を押し当てた。


「……だから……お願いです。

明日も、明後日も……

私のそばに……いてください」


凛はその頭に手を置き、

静かに言った。


「もちろん。

ずっと……一緒にいます」


廊下の薄暗い光の中、

二人の影が重なった。


これは、ただの襲撃ではない。


──ここから、本当の戦いが始まる。

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