第8話 その気配は、静かに近づいていた

昼休みのチャイムが鳴った瞬間、

教室の空気がゆるんだ。


「はぁ……やっと休みだ……」


凛が小さく伸びをすると、

白音は席から立ち上がり、静かに近づいてきた。


「蒼月くん、今日は……一緒に食べませんか?」


いつもより少し控えめな声に、

彼女がどれだけ神経を尖らせているかがわかった。


「もちろん。俺でいいなら」


「もちろん……なんて、言わないでください。

私は、蒼月くんと食べたくて……言ってるんですから」


言ったあと、白音がわずかに耳を赤くした。

彼女にも“慣れない言葉”というものがあるらしい。


凛は喉の奥がくすぐったくなるのを感じつつ、

二人で教室を出た。


ただ──階段を降りる途中。

さっきまで普通だった空気が、

じわりと濁るように重くなる。


(……まただ)


白音が足を止め、

凛の袖を、無意識のように掴んだ。


「蒼月くん……感じますか?」


「いや、俺には……」


「……本当に、いやな気配です。

近い……さっきより、明らかに」


“近い”。

その言葉の意味がわからなくても、

凛の心臓は自然と速く打ち始めた。


階段を降り切ると、

校舎裏につながる渡り廊下に出る。


昼の光が差し込んでいるのに、

妙に静かだった。


人の声が遠い。

風の音だけが、やけに耳につく。


白音が立ち止まり、

肩越しに小さく呟く。


「……来ています」


次の瞬間。


廊下の端から、誰かがひょい、と姿を現した。


「あれぇ? 見つかっちゃった?」


朱音アカリ。

赤髪を指でくるくる回しながら、

まるで散歩中の猫のように気楽な足取りで近づいてくる。


制服の着こなしは軽いのに、

まとう空気だけが異常だった。


“殺しに来た”わけではない。

“遊びに来た”のだ。


それが逆に、背筋を冷たくした。


白音が凛の前に立つ。


「……校舎内での行動は禁止されているはずです。

牙城の戦闘員が、堂々と入ってくるなんて」


アカリは口元を緩め、

廊下の光の中で立ち止まった。


「いいじゃない。

蒼月くんにご挨拶したくて、来ただけだよ。

それに……こういう場所って、さ……

“無防備な表情”が見られて好きなの」


凛の喉が詰まる。


(……なんだよ、この女……

昨日の連中とは、明らかに違う……!)


白音は震える手で凛の腕を押し戻し、

前に出た。


「蒼月くんには、触れさせません」


アカリは首を傾げながら、

ゆっくりと歩み寄る。


「触れないって……どうやって?

ねぇ姫巫女ちゃん。

あなた、昨日みたいに血を吸わせちゃったんでしょ?」


白音の表情がわずかに揺らぐ。


アカリはその揺れを楽しむように笑った。


「あぁ……いい顔。

そんなに必死になっちゃって。

……そんなに彼、好きなの?」


空気が一瞬だけ止まった。


白音は言葉を返せず、

わずかに凛の方へ視線を揺らした。


凛の胸が跳ねる。


その一瞬の隙。


アカリが──“消えた”。


(なっ……!?)


音がしない。

風も揺れない。


次に姿が見えたとき、

アカリは白音の背後にいた。


「姫巫女ちゃん。

弱いわけじゃないけど……

私とは、生き物としての“質”が違うのよ?」


白音が振り返るより早く──

アカリの足が白音の側頭部へ向かって飛び込む。


(白音さん──!)


反射的に、凛の身体が動いた。


自分でも理解できないほど自然に、

白音を抱き寄せ、アカリの蹴りから守るように跳ね退いた。


風が肌を裂くように通り抜ける。


白音は抱きとめられたまま、

震える声で凛の名を呼んだ。


「……蒼月くん……!」


凛の腕の中で震えるその身体は細くて、温かくて──

守らなきゃいけない、と胸の奥が強く締めつけられる。


アカリは距離をとり、

満足そうに笑った。


「へぇ……

咄嗟にあんな動きができるなんて……

やっぱり原初だね。

いい反応だったよ」


まるで獲物を品定めするように、

そして楽しげに。


白音は凛の胸元を掴みながら言った。


「蒼月くん……

今の彼女の動き……“人間”じゃありません」


「分かってます」


凛の喉が乾いていく。


アカリが軽やかにステップを踏む。


「今日はこれだけ。

本気で狩りたいときは、もっと静かな場所がいいもの」


白音が冷たい目で睨む。


「……二度と来ないで」


アカリは片手をひらひら振った。


「来るよ。

あなたが嫌がるほど、ね」


そして、アカリは廊下の奥へと消えていった。


足音は軽く、

しかしその“気配”だけは長く尾を引いた。


白音は凛の袖を握りしめたまま、

震える息を吐く。


「……蒼月くん……

気を付けてください。

あの女は……あなたを“奪いに来る”つもりです」


凛は白音の手をそっと握り返した。


「大丈夫です。

白音さんがそばにいてくれれば……どうにかなる気がしますから」


白音は目を伏せ、

ほんの少しだけ笑った。


「……そう言われると……弱くなります」


校舎裏の静かな廊下で、

二人の手はまだ離れなかった。

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