第15話
週明けの月曜日。
天気予報は午後から崩れると言っていたが、その予言通り、昼過ぎからは重く垂れ込めた雲が空を覆い尽くしていた。
窓の外では、梅雨の走りを思わせる生暖かい風が木々を揺らし、時折パラパラと大粒の雨がガラスを叩いている。
教室の中は湿気で満ちており、生徒たちのけだるげな吐息が充満していた。
洛央学院高等学校。
偏差値72を誇るこの進学校において、この時期の空気は一種独特の緊張感を帯びる。
中間考査。
一学期の成績を決定づける最初の関門が、目前に迫っていたからだ。
普段は部活動に明け暮れている連中も、さすがにこの時期ばかりは教科書や参考書を開き、血眼になってノートをまとめている。
自分も例外ではない。
手元の数学の参考書に視線を落としながら、しかし頭の片隅では、昨日の夕方に祖父母の屋敷で言い渡された「新たなミッション」のことを反芻していた。
◇
時間は少し遡り、日曜日の夕方。
町内会の清掃活動と慰労会を無事に――そして周囲から「お似合いの若夫婦」という、こそばゆい評価を得て――終え、その足で上賀茂の祖父宅へと向かった。
報告義務があるからだ。
通されたのは、手入れの行き届いた日本庭園を一望できる縁側だった。
真田源三郎と如月重蔵。
この二人の古狸は、将棋盤を挟んで向かい合い、パチン、パチンと小気味好い音を立てて駒を打ち合っていた。
「おお、ご苦労じゃったな」
源三郎が盤面から目を離さずに言う。
「町内会の会長から電話があったぞ。『あんなに働き者で、しかも仲の良い若夫婦はおらん』と絶賛しておったわ。鼻が高いぞ」
「……若夫婦というのは、訂正してきませんでしたが」
疲れた声で言うと、重蔵がニヤリと笑った。
「訂正する必要などない。事実は事実じゃからのう」
「まだ高校生です」
凜花がムッとしたように口を挟む。
彼女も慣れない肉体労働と、ご近所付き合いという精神労働で疲弊しているようだった。
「まあよい。とにかく、地域への顔見せは成功じゃ。これで将来、お前たちがここで暮らすことになっても、近所の受けは良かろうて」
気の早い話だ。
だが、この老人たちの頭の中では、孫たちの未来図はすでに確定事項として描かれているらしい。
「で、だ。次なる指令じゃが」
重蔵が懐から、いつもの奉書紙を取り出した。
二人して反射的に身構える。
水族館での密着撮影、町内会での夫婦ごっこ。
回を重ねるごとにハードルが上がっている気がする。次は一体何をさせられるのか。
「『もうすぐ中間テストであろう。我が家で勉強会を開催せよ』」
読み上げられた内容は、予想外にまともなものだった。
拍子抜けして顔を見合わせる。
「……勉強会、ですか?」
凜花が瞬きをする。
「うむ。お前たち、学校ではまだ『付き合いたてのカップル』という設定なんじゃろ? それなら、テスト前に互いの家で勉強会をするというのは、青春の定番イベントじゃろうが」
源三郎が得意げに言う。
確かに、イベントとしては自然だ。
洛央学院の生徒として、テスト勉強はおろそかにできない。それをデートと兼ねるというのは、合理的かつ学生らしい振る舞いだ。
「場所はここ、上賀茂の屋敷を使え。広間を開放してやる」
「……まさか、二人きりで?」
確認すると、二人の老人は顔を見合わせて悪巧みをするように笑った。
その笑顔を見て、嫌な予感が背筋を走る。
密室に二人きり。そこで起きるハプニングを期待しているのではないか。
「いや、今回はゲストを呼べ」
源三郎の言葉に、少し驚いた。
「ゲスト?」
「うむ。二人きりだと、どうせ勉強せずにイチャイチャするだけじゃろうからな」
「しません!」
凜花が即座に否定する。
その顔が僅かに赤いのは、否定しつつも想像してしまったからだろうか。
まあ、二人きりでも構わない……いや、むしろその方が嬉しいのだが、それでは勉強にならない可能性が高いのは否定できない。凜花の顔を見ているだけで時間が過ぎてしまいそうだ。
「まあ、そういうわけじゃ。友達を呼んで、賑やかにやればええ。ワシらはその日は温泉旅行にでも行って、家を空けてやるから」
「……本当か?」
疑いの眼差しを向ける。
この狸爺たちのことだ。
「家を空ける」と言いつつ、天井裏から覗くとか、隠しカメラを仕掛けるとか、使用人に監視させるとか、ろくでもないことを考えていそうだ。
「失敬な。孫のプライバシーくらい尊重するわい。……それに、お前たちが学校で猫を被っていることは知っておる。ワシらがいては、友達の前でボロが出るかもしれんじゃろ?」
図星だった。
学校では「付き合っている」と公言しているが、その実態は「許婚」であることを隠している。
もし祖父たちが同席して、「許婚の凜花ちゃん」などと口を滑らせれば、全てが台無しになる。
彼らが不在であることは、むしろ必須条件だった。
「……ただし、ちゃんと『仲良くやっている』という証拠写真は送ること。それだけじゃ」
条件は悪くない。
広い屋敷で、邪魔も入らずに勉強できるなら、環境としては最高だ。
それに、友達を呼んでいいなら、二人の関係を周囲にアピールする良い機会にもなる。
「堂々と交際している」という事実を、親しい友人たちを通じて補強できる。
その場で了承し、誰を呼ぶか相談することにした。
人選は慎重に行わなければならない。
「秘密」をある程度知っていて、かつ信頼できる人間。
こちらは当然、親友の朝倉大和。
凜花は、親友の白石楓。
この二人なら、二人が幼馴染であることも知っているし、最近付き合い始めた(という設定)ことも受け入れてくれている。
何より、大和はフォロー役として優秀だし、白石は凜花の良き理解者だ。
「よし、じゃあ俺は大和に声をかけてみる」
「わかった。私は楓に聞いてみるわ」
そう決めて、屋敷を後にしたのだった。
◇
そして現在、月曜日の昼休み。
購買でパンを買って戻ってきた大和を捕まえ、自席に座らせた。
「マジで!? お前のじーちゃんの豪邸で勉強会!?」
大和が目を輝かせて食いついてくる。
焼きそばパンを頬張りながら、その目は興奮に満ちている。
こいつは運動神経は抜群だが、座学の成績は芳しくない。特に数学と英語は壊滅的で、前回の小テストでは一桁得点を叩き出していた。
洛央学院の進級基準は厳しい。このままでは赤点、そして補習の嵐が待っている。
勉強を教えてもらえるチャンスとあれば、断る理由はないだろう。
「ああ。場所は上賀茂の屋敷だ。広くて静かだし、冷暖房完備、お茶菓子付きだ。祖父たちは留守にするから、気兼ねなく使える」
「行く行く! 絶対行く! 頼むよ零先生、俺を赤点の危機から救ってくれ! このままじゃ部活停止になっちまう!」
大和が拝むように手を合わせる。
現金な奴だ。
「ただし条件がある」
声を潜める。
「……如月と、その友達も来る」
「えっ、如月さんも!? しかも友達って……女子!?」
大和のテンションがさらに跳ね上がる。
焼きそばパンを飲み込み、身を乗り出してきた。
「ああ。如月の親友の、白石さんだ」
「白石さんって……あの茶道部の!? おっとり系の美少女じゃん! うおおお、マジかよ! 俺の春が来たかもしれん!」
大和がガッツポーズをする。
単純な奴で助かる。
白石楓。
茶道部に所属する彼女は、その雅な雰囲気とおっとりとした言動で、男子生徒の隠れファンが多い。大和もその一人だったらしい。
まあ、白石はおっとりしているように見えて、中身は凜花のことを一番に考える策士だが……それを言うのはやめておこう。大和の夢を壊す必要はない。
「よし、決まりだな。今週末の土曜日だ。時間はまた連絡する」
「おう! 任せとけ! 俺、勝負服で行くわ!」
「勉強しに行くんだぞ、忘れるなよ」
「わかってるって! いやー、持つべきものは頭の良い親友と、その彼女だな!」
大和は上機嫌で自分の席に戻っていった。
とりあえず、男子側のメンバーは確保した。
あとは凜花の方だ。
教室を出て廊下を歩く。
昼休みの廊下は、生徒たちで溢れかえっている。
すれ違う生徒たちが、こちらを見てヒソヒソと話す声が聞こえる。
『真田だ』『如月さんと付き合ってるってマジ?』『勉強もできるしイケメンだし、勝ち組だよな』
相変わらずの注目度だ。慣れてきたとはいえ、居心地が良いものではない。
渡り廊下に差し掛かった時だった。
前方に、B組の生徒たちの集団が見えた。
その中心に、見覚えのある大柄な男がいた。
先週の金曜日、体育の授業で卑劣な肘打ちを食らわせた、柔道部だ。
あいつか。
左脇腹は、まだ微かに痛む。
だが、歩調を緩めず、真っ直ぐに進んだ。
男がこちらに気づく。
目が合った。
表情を変えず、ただ冷ややかに彼を見据える。
すると、男はビクリと体を震わせた。
以前のような威圧的な態度はどこにもない。
顔色が青ざめ、視線が泳ぐ。
そして、バツが悪そうに視線を逸らし、仲間の陰に隠れるようにして小さくなった。
まるで蛇に睨まれた蛙だ。
「……おい、あれ真田じゃん」
「目ぇ合わせんなよ、ヤバイって」
「お前、まだ顧問に目つけられてんだろ?」
取り巻きたちの囁き声が聞こえる。
どうやら、凜花の情報通り、相当絞られたらしい。
部活停止に加えて、顧問の監視付きでの奉仕活動。さらに、学校内での素行についても厳重注意を受けているのだろう。
手を出せば、今度こそ退部、あるいは停学になるかもしれないという恐怖が、彼を萎縮させている。
「……ふん」
鼻を鳴らした。
ざまあみろ、という感情がないわけではない。
だが、それ以上に、あんなくだらない嫉妬で他人を傷つけ、結果として自分の首を絞めている浅はかさが滑稽だった。
男を一瞥しただけで、何事もなかったかのように通り過ぎる。
相手にする価値もない。
今の自分には、あんな小物に構っている暇はない。
週末の勉強会を成功させ、凜花との「ミッション」を遂行することの方が、何倍も重要だ。
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https://kakuyomu.jp/works/822139840343249565
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