『奇跡の人(ミラクルワーカー)はママハハでした。』

志乃原七海

第1話:帰らないお母さん



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### **小説『夜明けの交換日記』**


#### **第1話:帰らないお母さん**


私の名前は三月。お母さんが、三月の桜みたいに可愛い子になるようにってつけてくれた。


そのお母さんが、真っ白な部屋で寝ていた。お顔には透明なマスクがついていて、そこから伸びる管が機械に繋がっている。ヒュー、ヒューって、苦しそうな音がする。


「お母さん」


私が小さな声で呼ぶと、お母さんの目がゆっくりと開いた。そして、マスクを指さして、外してほしいって合図した。隣にいたお父さんが、慌てて看護師さんを呼んで、マスクが外される。久しぶりに見る、少し痩せたお母さんの顔だった。


「みつき…」


かさかさの声だった。お母さんは、冷たい手で私の小さな手をぎゅっと握った。


「ごめんね。お母さん、遠いところへ行かなくちゃいけないの」

「遠いところ? 旅行?」

「…うん、そう。長い、長い旅行」


お母さんは咳き込みながら、もっと強く私の手を握った。


「でも、約束。お母さんは、いつでも三月のそばにいるから。ずっと、ずっと一緒だからね」


それが、お母さんがお話ししてくれた、最後の言葉になった。


***


気づくと、私は窮屈な黒いワンピースを着ていた。周りの大人もみんな黒い服を着ていて、お家の知らない場所に、お母さんが綺麗な箱の中で眠っていた。


みんな、私の頭を撫でて「かわいそうに」と言った。何がかわいそうなのか、私には分からなかった。だって、お母さんは旅行に行っただけだ。約束したもん。ずっと一緒だって。


「お父さん」


私はお父さんのズボンを引っ張った。


「お母さん、帰ってくるんだよね?」


お父さんは、困った顔で私のことを見て、何も言わずに私を抱きしめた。お父さんの肩は、小さく震えていた。


その時だった。黒い服を着た、知らない女の人が近づいてきた。その人は、なんだかお母さんに少しだけ似ていた。でも、違う。お母さんじゃない。


「三月ちゃん…」


その人は、泣きそうな顔で笑って、私の前にしゃがんだ。お父さんが「美咲さん」と、その人の名前を呼んだ。


「お姉ちゃんのこと、つらかったわね」


美咲さん、という人の手が私の頭に伸びてくる。私はとっさに身を引いて、お父さんの後ろに隠れた。その手は、行き場をなくして、寂しそうに宙を彷徨っていた。


***


季節が一つ、ぐるりと回った。桜が咲いて、セミが鳴いて、葉っぱが赤くなって、雪が降った。でも、お母さんはまだ旅行から帰ってこない。


ある日、お父さんが私を膝に乗せて言った。


「三月。今度から、美咲さんが、新しいお母さんになってくれることになった」

「新しいお母さん?」


私は意味が分からなかった。


「いらない。だってお母さんは一人だけだもん。すぐ帰ってくるもん」

「三月…」


お父さんはまた困った顔をした。私は、お父さんも美咲さんも、みんな嘘つきだと思った。お母さんは帰ってくる。約束したんだから。


美咲さんが、私たちの家に引っ越してきた。彼女はキッチンに立って、ご飯の準備を始めた。お母さんがいつも立っていた場所に、違う人がいる。トントン、という包丁の音も、ジュージュー、というフライパンの音も、なんだか全部、お母さんの音とは違っていた。


この人は、偽物だ。

お母さんのふりをして、お母さんの場所を奪いにきた、悪い人だ。


その日の夜ごはん。食卓に並んだのは、黄色いオムライスだった。ケチャップで、下手くそなウサギの絵が描いてある。オムライスは、お母さんが一番よく作ってくれた、私の大好物だった。


許せなかった。

お母さんとの大切な思い出を、この偽物の人に汚された気がした。


「いらない!」


私の甲高い声が、静かな部屋に響き渡った。伸ばした手が、目の前の皿を思い切り払いのける。ガチャン!という耳障りな音と共に、オムライスは床に叩きつけられた。黄色と赤がぐちゃぐちゃに混ざって、フローリングに汚いシミを作る。


私は椅子から立ち上がって、呆然とする美咲さんを睨みつけた。心の奥から、どろどろした黒いものが溢れてくる。


「あなたなんか、お母さんじゃない!」


美咲さんは、何も言わなかった。ただ、悲しそうな顔で床のオムライスを見ていたかと思うと、静かに床に膝をつき、割れたお皿の破片を、一枚、一枚、拾い始めた。


その小さな背中を見ながら、私は唇を噛み締めた。

絶対に、負けない。

お母さんが帰ってくるまで、私はこの場所を、この人を、絶対に認めたりしない。


(第2話へ続く)

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