第16話:雪解けの泥と、壊れた自販機

 一月も下旬に差し掛かると、世界は一度、その美しさを放棄するようだった。

 降り積もって街を純白に覆い隠していた雪は、日中に緩んだ気温のせいで、自身の重みに耐えきれずに崩れていた。道路の脇に積み上げられた雪山は、排気ガスと泥を吸い込んで薄汚れ、かつての輝きを失った灰色の塊と化している。

 ポタ、ポタ、と軒先から雪解け水が落ちる音が、不規則なメトロノームのように街のあちこちで鳴っていた。

 足元のコンクリートは濡れて黒ずみ、踏みしめるたびにグチャリと不快な音を立てる。靴の裏から滲み込んでくるような底冷えと、頭上から降り注ぐ微かな春の気配を含んだ日差し。その二つが混ざり合い、生温かいような、けれど芯まで冷えるような、奇妙な湿度を孕んだ空気が辺りを満たしていた。


 湊カケルは、その泥濘(ぬかるみ)の中を走っていた。

 跳ね上がった泥がジーンズの裾を汚すが、そんなことを気にしている余裕はない。肺の中に入り込む空気は冷たく、喉の奥が鉄の味がするほど張り詰めているのに、背中にはびっしりと脂汗が浮いていた。


 数十分前、スマートフォンの画面に表示された着信履歴。

 レンの母親からだった。

『カケル君、レンが……レンが目を覚ましたの!』


 その言葉を聞いた瞬間、カケルの世界から音が消えた。

 一歩、足を踏み出すたびに、心臓が早鐘を打つ。

 よかった。本当によかった。

 安堵で涙が出そうになるのと同時に、胃の腑が雑巾絞りにされたような強烈な吐き気が込み上げてくる。

 ――何を話せばいい?

 ――許してもらえるだろうか?

 ――いや、罵倒されてもいい。生きていてくれたなら、それだけで。


 期待と恐怖。相反する二つの感情が、カケルという一つの器の中で激しく渦を巻き、彼を突き動かしていた。


 総合病院の自動ドアを抜け、消毒液とワックスの匂いが染み付いた廊下を走る。

 ナースステーションの前を過ぎ、個室のドアノブに手をかけた時、カケルの手は震えていた。

 深呼吸を一つ。震える指先で、ゆっくりと扉を開ける。


「……レン」


 掠れた声が出た。

 病室のベッドの上、リクライニングで少し上体を起こされた状態で、その青年は窓の外を見ていた。

 痩せこけて頬骨が浮き、肌は病的なほど白い。点滴のチューブやモニターの配線が、まるで彼を現世に繋ぎ止める鎖のように伸びている。

 けれど、その瞳は開いていた。

 カケルの声に反応し、レンがゆっくりと首を動かす。

 視線が交差する。

 カケルの目尻に、熱いものが溜まる。言葉にならない思いが喉元まで溢れ出し、笑顔を作ろうとして頬が引きつった。


「よか、った……本当にお前、ずっと寝てるから……」


 一歩、近づこうとした、その時だった。


「来るな」


 短く、鋭い拒絶の言葉。

 それは、弱々しい体からは想像もできないほど、明確な敵意を孕んでいた。

 カケルは足を止めた。笑顔が凍りつく。

「え……?」

 レンの瞳には、再会の喜びも、生還の安堵もなかった。あるのは、煮えたぎるような、どす黒い怒りの炎だけだ。

 レンは、カケルを睨みつけたまま、枯れた声帯を無理やり震わせて言葉を吐き出した。


「お前の顔なんて、見たくねぇ……帰れ」


 カケルの脳裏に、あの日の記憶がフラッシュバックする。

 事故の直前。カケルがレンに向かって『お前なんて消えちまえ!』と怒鳴りつけた、あの瞬間。

 レンの記憶は、そこで止まっているのだ。

 彼にとって、カケルは親友ではない。自分を否定し、拒絶した、憎むべき敵のままなのだ。


「レン、俺は……謝りたくて……」

「謝る? 今さら?」

 レンが鼻で笑った。その表情が歪む。

「お前が言ったんだろ。俺がいなきゃいいって。……願いが叶って清々してたんじゃないのかよ」

「違う! そんなわけないだろ!」

「うるさい! 出てけよ! 二度と俺の前に現れるな!」


 レンが枕元のサイドテーブルにあったティッシュ箱を掴み、力任せに投げつけた。

 箱はカケルの肩に当たり、虚しい音を立てて床に落ちた。

 物理的な痛みは皆無だった。けれど、その軽い衝撃が、カケルの心を粉々に打ち砕くには十分すぎた。


 入室してきた看護師に「興奮させないでください!」とたしなめられ、カケルは逃げるように病室を出た。

 廊下のベンチに座り込むこともできず、ただふらふらと、出口へと向かう。

 窓の外では、まだ雪解け水がポタポタと落ち続けている。

 その音が、カケルには「ざまあみろ」という嘲笑のように聞こえた。


     ***


 大学の旧校舎の最奥、オカルト研究会の部室。

 そこは外界から隔離された異空間のような静けさと、カビと古本の独特な匂いに満ちていた。

 いつもなら、怪しげな儀式の準備だとか、UMA(未確認生物)探索の作戦会議だとかで騒がしい場所だが、今日の空気は澱(よど)んでいた。


「……で、追い出されたと」


 部室の中央にある炬燵(こたつ)に入り、みかんの皮を剥きながら、部長の一ノ瀬シズクが淡々と言った。

 その向かいで、カケルは机に突っ伏していた。魂が口から半分出ているような状態だ。

「もう無理です……完全に嫌われてます。目が……あの目が、人を殺す時の目でした……」


 カケルの横で、筋肉の塊のような大男、剛田が、ダンベルを上げ下げしながら励ます。

「元気出せよカケル! 筋肉だって、一度破壊されてからの方が太くなるんだ! 友情も筋繊維と同じだ! 今が超回復の時期なんだよ!」

「うるさいよ剛田……人間関係はプロテイン飲んでも治らないんだよ……」

 カケルは力なく呟き、さらに深く机に沈み込んだ。

「せっかく目が覚めたのに。俺が行かなきゃよかったんだ。俺のせいで、またあいつの血圧が上がって、死んじゃったらどうしよう……」


 ネガティブな妄想が螺旋階段を転げ落ちるように加速していくカケルの頭上に、コトン、と湯気の立つマグカップが置かれた。

 甘いココアの香りが漂う。

 顔を上げると、シズクが漆黒の長い髪を揺らしながら、眠たげな瞳でカケルを見下ろしていた。


「あなたって、本当に学習しないわ音痴ね」

「……音痴?」

「心のチューニングの話よ。レン君が怒っている。それは事実。でも、それを受けて『もう終わりだ』『俺のせいだ』って絶望してるのは、あなたの脳内が勝手に奏でてる不協和音よ」


 シズクは自分の分のココアを両手で包み込むように持ち、ふう、と息を吹きかけた。その仕草だけを見れば、深窓の令嬢のように美しいのだが、口から出る言葉は常に変化球だ。


「カケル、あのね。レン君はいま、壊れた自動販売機なの」

「は? 自販機?」

 カケルは涙目のまま聞き返した。

「そう。あなたも経験あるでしょ? 喉が渇いて、小銭を入れて、ボタンを押したのに、ジュースが出てこない。……そういう時、どうする?」

「えっと……返却レバーをガチャガチャやるとか?」

「それでも出てこなかったら?」

「……叩く、かもしれません。『ふざけんな!』って」

「でしょ」


 シズクはココアを一口啜り、満足げに頷いた。


「レン君はずっと、あなたという自販機にコインを入れていたのよ。『親友ならわかってくれるはず』『ずっと味方でいてくれるはず』という、期待という名のコインをね」

 カケルはハッとした。

「でも、あの日、その期待は裏切られた。ボタンを押したのに、出てきたのは『消えちまえ』っていう最悪の泥水だった。だから彼は今、自販機を蹴り飛ばしているのよ。『なんでだよ!』『金返せよ!』ってね」


 シズクの喩(たと)え話は、突飛なようでいて、残酷なほど核心を突いていた。

 レンの怒りは、単なる憎悪ではない。

 「信じていたのに」という期待が大きかった分だけ、裏切られた時の反動が大きいのだ。


「カケル、蹴られている自販機が『痛いな! なんで蹴るんだよ!』って怒り返したらどうなると思う?」

「……余計に、壊れると思います」

「正解。あるいは『ごめんなさい、ごめんなさい』って謝りながら、間違ったジュースを出し続けたら?」

「火に油を注ぐだけです……」


 カケルは項垂(うなだ)れた。

 今の自分はまさにそれだ。レンの怒りに怯え、あるいは逆ギレしそうになり、慌てて媚びへつらう。そのすべてが、レンをさらに苛立たせている。


「じゃあ、どうすればいいんですか……」

「簡単よ」


 シズクは窓の外、泥にまみれた雪解けの景色へと視線を移した。


「ただ、『故障中』の張り紙をして、そこに立っていなさい」

「え?」

「言い返さない。逃げない。媚びない。ただ、『ガタン』という音を立てて、蹴られた衝撃をそのまま受け流すの。 相手の怒りは、相手の中にある『期待外れの悲しみ』の悲鳴なんだって、ただ観察するのよ」


 シズクがカケルに向き直る。その瞳は、深い湖の底のように静かで、何も映していないようで、すべてを見透かしているようだった。


「嵐はずっとは続かない。彼の中のコインが尽きるまで、あるいは彼が『この自販機は今は動かないんだな』って認めるまで、ただの鉄の箱になりなさい。 それが、今のあなたができる唯一の償いよ」


 ただの、箱になる。

 感情を持たない、空っぽの箱に。

 それは「我慢」とは違う。「諦め」とも違う。

 カケルは、シズクの言葉を反芻する。

 レンの怒りを、自分への攻撃として受け取るのではなく、彼が抱える「悲しみ」の発露として、ただ現象として捉えること。

 オカ研に入ってから散々叩き込まれてきた、「色眼鏡を外して世界を見る」という実践の、これが応用編なのだ。


「……剛田、俺、もう一回行ってくる」

 カケルは立ち上がった。

「おお! そうだカケル! 心の筋肉をパンプアップさせてこい!」

 剛田が無駄に熱い声援を送る。

 シズクは何も言わず、ただココアの湯気の向こうで、薄く微笑んだ気がした。


     ***


 翌日も、その翌日も、カケルは病院へ通った。

 病室に入るたび、レンは露骨に不機嫌な顔をした。

「また来たのかよ。暇人か」

「ごめんな。果物、置いておくよ」

「いらねぇって言ってんだろ!」


 レンの言葉のナイフが飛んでくる。

 以前のカケルなら、その一本一本に傷つき、血を流し、心が折れていただろう。

 だが今は、心の中に「故障中の自販機」をイメージしていた。

 ――ガシャン。

 罵倒が飛んでくる。

 ――ガシャン。

 無視される。

 ――ガシャン。

 舌打ちされる。


 痛くない、と言えば嘘になる。

 けれど、カケルはレンの顔を、シズクに言われた通り「観察」するように努めた。

 怒鳴っている時の、眉間の深い皺。

 震える指先。

 そして、ふとした瞬間に見せる、泣き出しそうなほど心細げな瞳の揺らぎ。


 (ああ……あいつ、怖いんだ)


 カケルは唐突に理解した。

 長い昏睡から目覚めたら、体は動かず、季節は変わり、自分だけが取り残されている。

 その恐怖と孤独を、誰かにぶつけなければ、自分が壊れてしまいそうなんだ。

 そして、その感情をぶつけられる相手は、皮肉にも親友だった自分しかいないのだ。


 そう気づいた瞬間、カケルの心から「辛い」という感情がスッと引いていった。

 代わりに湧き上がってきたのは、静かで、温かい哀れみだった。

 上から目線の同情ではない。「共に苦しむ」という意味での、慈悲に近い感覚。


 ある雨の日の午後だった。

 カケルがいつものようにパイプ椅子に座り、黙って本を読んでいると、レンが苛立ちを爆発させた。


「おい! いつまでそこにいるんだよ! 目障りなんだよ!」


 レンの手が、サイドテーブルにあった花瓶を払った。

 ガシャーン!

 ガラスの割れる甲高い音が響き、花瓶の水が床にぶちまけられる。

 破片の一つが跳ねて、カケルの頬を掠めた。

 ツゥ、と熱いものが頬を伝う。

 赤い血が、白い床に一滴、落ちた。


 病室の空気が凍りついた。

 やってしまった、という顔で、レンが息を呑む。

 その視線が、カケルの頬の傷――かつて高校時代、カケルが喧嘩で作った古傷と同じ場所に刻まれた、新しい傷に釘付けになる。


 カケルは、怒らなかった。

 慌てもしなかった。

 ただ静かに立ち上がり、ナースコールを押すこともなく、散らばったガラスの破片を拾い始めた。

「危ないから、動くなよ」

 淡々とした声だった。

 怒りを押し殺した声ではない。本当に、ただ事実を述べただけの声。


「……お前、血……」

 レンが震える声で言う。

「ああ、大丈夫。かすり傷だ」

 カケルはハンカチで頬を拭うと、ニッコリと笑った。

 それは、媚びるような愛想笑いでも、無理をした強がりの笑顔でもなかった。

 春の日差しのように穏やかで、どこか達観したような、自然な微笑みだった。


「レン、痛かったな」

「は……?」

「花瓶、投げる時。手、痛かっただろ」


 カケルは、レンのまだ自由の利かない右手をそっと目で示した。

 レンは呆気にとられたように口を開き、それから、今まで張り詰めていた糸が切れたように、肩を落とした。

 怒りの炎が、燃料を失って鎮火していくのが見えた。

 自販機を蹴り疲れた子供のように、レンは深く息を吐き、布団に顔を埋めた。


「……バカじゃねーの、お前」

 布団の中から、くぐもった声が聞こえた。

 それは拒絶の言葉だったが、そこにはもう、以前のような刺々しい殺意はなかった。

 むしろ、甘えるような響きすら含んでいた。


「そうかもな」

 カケルは再び椅子に座り、読みかけの本を開いた。

 窓の外では、雨が雪を完全に溶かし、黒い土が顔を出していた。

 泥だらけの地面から、小さな緑色の芽が顔を出しているのが見えた。

 冬が終わる。

 本当に、冬が終わろうとしていた。


     ***


 その頃、オカルト研究会の部室では、奇妙な現象が起きていた。

 シズクが、いつものように窓辺で紅茶を飲もうとしていた時のことだ。

 彼女がティーカップの取っ手に指をかけた瞬間、カチャリ、と乾いた音がした。

 持ち上げたはずのカップが、持ち上がらなかった。

 いや、正確には。

 彼女の指が、陶器の取っ手を、まるで霞(かすみ)か何かのようにすり抜けてしまったのだ。


「……あ」


 シズクは小さく声を漏らし、自分の指先を見つめた。

 そこには確かな感触が残っているはずなのに、指の輪郭が、夕暮れの光の中でわずかに揺らぎ、向こう側の景色が透けて見えたような気がした。


「部長? どうしました?」

 筋トレをしていた剛田が、異変に気づいて振り返る。

 シズクは瞬時に手を隠し、いつもの気だるげな表情を取り繕った。

「なんでもないわ。ただ、握力が弱まっただけ。……剛田君、これ、片付けておいてくれる?」

「え? あ、はい! 任せてください! カップの洗浄も大胸筋のトレーニングですから!」


 剛田は元気にカップを回収していったが、洗い場に向かう背中で、ふと首を傾げた。

(おかしいな……今の部長、なんか……影が薄かったような……)


 剛田は霊感というものを「筋肉のざわめき」として感知する男だ。その彼が感じた違和感は、決して気のせいではなかった。


 シズクは、誰もいなくなった窓辺で、自分の足元を見つめた。

 夕日が差し込んでいるのに、彼女の足元には、影が伸びていなかった。

 

「……そろそろ、時間切れかな」


 彼女の呟きは、誰にも届くことなく、早春の風に溶けて消えた。

 部室の黒板には、カケルが新入生勧誘のために書いた「ウェルカム!」という文字が、陽気に躍っている。

 それが、シズクにはやけに眩しく、そして遠く感じられた。

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