第10話:新緑の眩しさと、色眼鏡の君
五月。
世界は彩度を限界まで上げていた。
ゴールデンウィークの陽気は、冬の間に縮こまっていた生命を一斉に爆発させる起爆剤だ。
公園の木々は、目に痛いほどの新緑を湛えている。重なり合った葉の隙間からこぼれ落ちる木漏れ日が、地面に無数の光の水玉模様を描き、風が吹くたびにそれがキラキラと踊る。
空は抜けるように青く、雲ひとつない。
平和の象徴のような鳩がポッポーと鳴き、どこか遠くで子供たちの歓声が聞こえる。
そんな天国のようなロケーションで行われているのは、大学生の聖なる儀式――バーベキュー大会だった。
「ぬおおおお! 肉だ! タンパク質が炭火で踊っているぞ!」
剛田の咆哮が、新緑の静寂を切り裂いた。
彼は今日もタンクトップだった。しかも「MEAT(肉)」と書かれた特注品だ。上腕二頭筋にトングを挟み、まるで二刀流の剣士のように網の上のカルビをひっくり返している。
「剛田先輩、火力が強すぎます。野菜が炭化してますよ」
湊カケルは、煙たそうに眉をひそめながら言った。
彼は大きめのサングラスをかけていた。日差しが眩しいというのもあるが、半分は「他人と目を合わせたくない」という精神的な防具でもあった。
今日は、近隣の他大学との合同バーベキュー。
オカルト研究会のような日陰者のサークルがなぜ参加しているかといえば、単に「人数合わせ」で呼ばれたからだ。
周囲には、コミュ力の高そうな、キラキラした大学生たちが溢れている。
カケルは居心地の悪さを感じながらも、必死に「楽しんでいるフリ」を演じていた。焼きそばを配り、空いた缶を片付け、愛想笑いを振りまく。それは彼の得意技であり、同時に呪いのような習性だった。
「あら、カケル。サングラスなんてかけて、芸能人気取り?」
木陰のベンチで、一ノ瀬シズクが優雅に紙コップを傾けていた。中身はウーロン茶だが、彼女が持つと高級なヴィンテージワインに見えるから不思議だ。
「違いますよ。日差しが強いんです。シズクさんこそ、もっと肉食べてくださいよ。霞(かすみ)ばっかり食べてないで」
「肉は重いのよ。……念(おも)いが残ってるから」
シズクは意味深なことを言いながら、焼きしいたけを齧った。
その時だった。
広場の入り口から、新しい集団がやってきた。
少し遅れて合流した、他大学のグループらしい。
カケルは何気なくそちらを見た。
そして、凍りついた。
サングラス越しの視界。
その中心に、見覚えのある長身の男がいた。
整った顔立ちだが、常に人を小馬鹿にしたような冷ややかな目。流行りの服を着崩し、ポケットに手を突っ込んで歩く姿。
「……黒崎」
カケルの喉から、乾いた音が漏れた。
黒崎(くろさき)。高校時代の同級生。
そして、カケルが親友のレンと決裂するきっかけを作った――と、カケルが信じ込んでいる――因縁の相手だ。
心臓が早鐘を打つ。
胃の奥がギュッと縮み上がり、口の中に苦い味が広がる。
トラウマのフラッシュバック。
『お前さ、偽善者なんだよ』
『レンも言ってたぜ。お前と一緒にいると疲れるって』
かつて黒崎に言われた言葉が、脳内でリフレインする。
逃げたい。
カケルの足が、無意識に後ずさりした。
だが、運命は残酷だ。
黒崎が、ふとこちらを見た。目が合った。
「……あ?」
黒崎は眉をひそめ、カケルの方へ歩いてきた。
「誰かと思えば。湊じゃねーか」
低い声。見下ろすような視線。
「げ、元気そうだな、黒崎……」
カケルの声は裏返っていた。サングラスの下で、目が泳ぐ。
「相変わらずだな、そのヘラヘラした面(ツラ)。……お前、こんなとこで何してんの? また『いい人ごっこ』か?」
黒崎の唇が歪む。嘲笑だ。
カケルの体温が一気に下がった。
やっぱり、こいつは俺を軽蔑している。俺を攻撃しに来たんだ。敵だ。最悪の再会だ。
怒りと恐怖が混ざり合い、カケルの拳が固く握りしめられる。
言い返したい。でも怖い。
その葛藤で、カケルは石のように固まってしまった。
その時。
スッと、カケルの顔から視界が明るくなった。
「え?」
目の前が眩しい。
横を見ると、シズクがカケルのサングラスを摘んで立っていた。
「ちょっと、シズクさん! 返してください!」
「嫌よ。せっかくの新緑が、そんな色眼鏡(フィルター)越しじゃ台無しじゃない」
シズクはサングラスを自分の胸元に引っ掛けると、黒崎の方を一瞥もしないまま、カケルに囁いた。
「その眼鏡、外して見てみなさい」
「何言ってるんですか、外しましたよ、今!」
「いいえ、まだ掛けてるわ」
シズクはカケルのこめかみを冷たい指でツンと突いた。
「あなたの脳内にある『コイツは嫌な奴だ』っていう色眼鏡よ」
カケルは言葉に詰まる。
「だって、事実にアイツは嫌な奴なんです! 俺のこと馬鹿にして……」
「それは過去の記憶(データ)でしょ?」
シズクは静かに諭す。
「あなたは今、目の前の彼を見ているんじゃない。過去の嫌な記憶を彼に重ねて、勝手に『敵だ』と認定しているだけ。……ほら、フィルターを外して、カメラのレンズみたいに、ただ『光景』として彼を見てごらん」
カケルは戸惑いながらも、シズクに言われるがまま、深呼吸をして黒崎を直視した。
「嫌な奴」「敵」「怖い」という感情のラベルを、一旦剥がしてみる。
ただの映像として、見る。
そこには、一人の青年が立っていた。
黒崎。
彼はカケルから離れ、自分の大学のグループの輪に戻ろうとしていた。
だが。
よく見ると、彼は輪に入れていなかった。
周囲の学生たちは盛り上がっているが、黒崎だけが会話に入れず、手持ち無沙汰にスマホをいじっている。
やがて、誰かに何かを押し付けられたらしく、彼は一人で焼き場に立たされた。
高級そうな服が煙に巻かれている。
額には大量の汗。
トングを持つ手はぎこちなく、肉を焦がしてしまい、周囲から「あーあ、黒崎くん下手すぎ〜」とからかわれている。
黒崎は、ムッとした顔で「うるせーよ」と言い返しているが、その耳は赤かった。
「……あれ?」
カケルは瞬きをした。
俺の記憶の中の黒崎は、もっと傲慢で、取り巻きに囲まれていて、余裕綽々(しゃくしゃく)な奴だったはずだ。
でも、今目の前にいるのは、不器用で、孤立して、汗だくで困っているただの男だ。
「彼はね、コミュニケーションが下手なのよ」
シズクが焼きしいたけを齧りながら解説する。
「プライドが高いから、素直になれない。だから攻撃的な言葉で自分を守る。さっきあなたに言った嫌味も、久しぶりに会ってどう接していいかわからなくて、つい出ちゃった『防衛反応』に見えるけど?」
カケルはもう一度、黒崎を見た。
一人で肉を焼き続ける背中が、なんだか小さく見えた。
かつて自分が「悪魔」だと思っていた相手が、急に「人間」に見えてきた。
(なんだ……こいつも、必死なんじゃん)
そう思った瞬間、カケルの胃の痛みは嘘のように消えていた。
恐怖の対象が、等身大の悩める若者に変わったからだ。
カケルはクーラーボックスから、よく冷えた缶ビールを一本取り出した。
そして、自分でも驚くほど自然な足取りで、黒崎の方へ歩いていった。
「……よう」
カケルが声をかけると、黒崎はビクリとして振り返った。
「なんだよ、湊。まだ文句あんのか」
相変わらずの刺々しい口調。でも、カケルにはもう、それが「怯え」の裏返しだと分かってしまった。
「いや。……暑そうだと思って」
カケルは缶ビールを黒崎の頬にピタッと押し当てた。
「うわっ、冷たっ!」
「飲む? 運転じゃないだろ?」
「……ああ」
黒崎は不審そうにカケルを見ながらも、ビールを受け取った。
「焼くの、代わろうか?」
カケルは黒崎の手からトングを取ろうとした。「お前、服汚れるぞ。そういうの得意じゃないだろ」
黒崎は一瞬抵抗しようとしたが、焦げた肉を見て、観念したように息を吐いた。
「……悪い。実は俺、こういうのアウトドアとかマジで無理なんだよ」
ポツリと漏らした本音。
それは、高校時代には絶対に聞けなかった弱音だった。
「知ってるよ。お前、家庭科の調理実習でもボヤ騒ぎ起こしてたもんな」
カケルが笑うと、黒崎もつられて、ふっと小さく笑った。
「うるせーよ。記憶力いいな、お前」
二人は並んで肉を焼き始めた。
炭火の爆ぜる音。肉が焼ける香ばしい匂い。
不思議な沈黙が流れる。でも、それは嫌な沈黙ではなかった。
カケルは、トングで肉を返しながら、心の中でシズクに感謝した。
色眼鏡を外すだけで、世界はこんなにも違って見える。
敵だと思っていた相手と、こうして並んで肉を焼く未来があるなんて。
「……なあ、湊」
不意に、黒崎が低い声で言った。視線は網の上のカルビに落としたままだ。
「お前、最近……病院、行ったか?」
カケルの手が止まった。
「え?」
「レンのことだよ」
レン。
その名前が出た瞬間、カケルの心臓がドクリと大きく脈打った。
かつての親友。そして、カケルが逃げ続けている最大の「過去」。
「……行ってない。怖くて、行けないんだ」
カケルは正直に答えた。
「そっか」
黒崎はビールを一口煽り、どこか遠くを見るような目をした。
「あいつ、まだ目覚めないらしいな」
時が止まった。
公園の喧騒も、鳥の声も、風の音も、すべてが遠のいた。
「……は?」
カケルは黒崎の顔を凝視した。「目覚めないって……どういうことだよ。あいつ、怪我はしたけど、命に別状はないって……」
「知らなかったのか?」
黒崎は憐れむような、それでいて厳しい目をカケルに向けた。
「事故のあと、意識が戻ってないんだよ。植物状態……って言うのかな。もう半年以上だろ」
カケルの手からトングが滑り落ちた。
カシャン、という金属音が、乾いた音を立てて響く。
意識がない。
レンが?
あの、いつも笑っていた、カケルの唯一の理解者だったレンが?
俺が最後に「お前なんて消えちまえ」と怒鳴った、あの日のまま?
「嘘だろ……」
カケルは膝から崩れ落ちそうになった。
世界が回る。新緑の眩しさが、急に毒々しい色に見えてくる。
「湊、お前……」
黒崎が何か言いかけた時だった。
「カケル!」
鋭い声と共に、カケルの腕が強く引かれた。
シズクだった。
彼女はいつの間にか背後に忍び寄り、カケルを引き剥がすように立っていた。
その表情は、いつもの冷静な彼女とは違い、明らかに険しかった。
「シズクさん……?」
「離れなさい。……黒い霧が濃すぎる」
シズクは黒崎の方を睨みつけていた。いや、黒崎ではなく、彼の背後にある「何か」を。
黒崎の背中に、陽炎のような、どす黒い靄(もや)が揺らめいているのが、カケルにも一瞬だけ見えた気がした。
「なんだよ、アンタ」
黒崎が不快そうに眉を寄せる。
「邪魔しないでくれる? 俺たち、大事な話してんだけど」
「大事な話?」
シズクは冷たく言い放った。
「いいえ、あなたはただ、彼に『絶望』という名の毒を感染させようとしただけ。……無意識でしょうけど」
シズクはカケルの肩を抱き寄せた。
「行くわよ、カケル。肉が焦げてるわ」
「で、でも、レンの話が……!」
「今は聞かなくていい。今のあなたには、その情報の重さに耐えられない」
強引に連れ出されるカケル。
去り際、カケルはもう一度黒崎を見た。
黒崎は、ポツンと取り残され、また一人で肉を焼いていた。その背中の黒い靄が、まるで誰かの手のように、彼の首に巻き付いているように見えたのは、気のせいだろうか。
木陰に戻ったカケルは、震えが止まらなかった。
右手の甲にある古傷――レンと喧嘩した時についた傷――が、ズキズキと熱を持って痛み始めた。
「……シズクさん。レンが、目覚めないって……本当なんですか」
カケルは縋るように聞いた。
シズクは答えなかった。ただ、カケルの右手の傷を、そっと自分の冷たい手で覆った。
「事実は変えられないわ。でも、受け入れる準備はしなきゃいけない」
彼女の声は静かだったが、そこには「逃げられない運命」への宣告が含まれていた。
「……物語が、動き出しちゃったわね」
シズクの視線が、ふと森の奥へ向けられた。
カケルもつられてそちらを見る。
鬱蒼とした木々の隙間。
そこで何かが光った。
カメラのレンズだ。
誰かが、望遠レンズでこちらを――カケルとシズクを――じっと監視していた。
シャッター音は聞こえない。ただ、粘着質な視線だけが残る。
風が強く吹いた。
新緑の葉がざわめき、木漏れ日が乱れる。
五月の眩しすぎる光は、深い影を落とし始めていた。
平和な日常(コメディ)の幕が下り、本当の苦しみと向き合うための、長い夜が始まろうとしていた。
カケルは自分の手を握りしめた。
サングラスはもうない。
色眼鏡なしで見る現実は、あまりにも残酷で、鮮明すぎた。
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