第8話:卒業シーズンの桜雨と、終わりの恐怖
三月。それは一年で最も残酷な季節だ。
期待と不安、出会いと別れがミキサーにかけられ、ドロドロになった感情のシェイクを無理やり飲まされる時期。
空は低く垂れ込め、冷たい雨がシトシトと降り続いていた。アスファルトを叩く雨音は、どこか急かすようなリズムを刻んでいる。
大学のキャンパスには、引っ越し業者のトラックが停まり、段ボールを抱えた学生たちが行き交う。かつて誰かの生活の一部だった部屋が、ただの「空洞」に戻っていく。その反響音が、湊カケルの胸の奥をキリキリと締め上げていた。
今日は、オカルト研究会の「追い出しコンパ」だった。
送り出されるのは、四年生の先輩――通称「影山先輩」。
彼は「オカ研」に籍を置きながら、四年間で部室に来た回数が片手で数えられるという、まさに生きる都市伝説(幽霊部員)だった。正直、カケルも二回くらいしか会ったことがない。
それなのに、なぜかカケルは泣きそうだった。
場所は駅前の安い居酒屋。
店内は、同じように別れを惜しむ学生たちの喧騒と、揚げ物の油っこい匂い、そしてアルコールの熱気で満ちていた。
「うおおおおおっ! 影山先輩ぃぃぃ! 卒業しないでくださぁぁぁい!」
剛田の咆哮が店内のBGMを掻き消した。
彼はジョッキを握りしめ、滝のような涙を流している。
「先輩がいなくなったら、誰がこのオカ研の『影の薄さ』を守るんですか! 俺の筋肉じゃ、存在感が強すぎて幽霊が逃げちまう!」
「いや、剛田。俺、そもそも何もしてないから……」
影山先輩は困ったように眉を下げている。ひょろりとした体躯で、確かに影が薄い。
カケルは引きつった笑顔でサラダを取り分けながら、頻繁に腕時計をチラ見していた。
午後八時四十五分。
飲み会の終了まで、あと十五分。
その事実を確認するたびに、胃のあたりが鉛のように重くなる。
(終わる。もうすぐ終わっちゃう)
楽しいはずの飲み会なのに、カケルの心は「現在」にいなかった。
彼の意識は、少し先の未来――「解散」した後の静寂や、明日からの変わってしまった日常――に飛んでいて、勝手に絶望していた。
目の前の唐揚げの味もわからない。
影山先輩との会話も上の空だ。
このメンバーで飲むことは二度とない。この空気感は二度と戻らない。
そう思うと、恐怖で呼吸が浅くなる。
「……カケル、顔色が悪いわよ」
隣に座っていたシズクが、カシスオレンジのストローを回しながら囁いた。
「あ、いえ、ちょっと酔ったかもです」
「嘘ね。酔ってるんじゃなくて、怯えてる顔」
図星を突かれ、カケルは俯いた。
カケルにとって「変化」とは常に「喪失」と同義だった。かつて親友との関係が壊れたあの日から、彼は「今の幸せが壊れること」を極度に恐れている。
「……なんで、時間は進むんでしょうね」
カケルはポツリと漏らした。
「ずっとこのままでいいのに。楽しい時間が永遠に続けばいいのに。終わるってわかってたら、最初から始まらなきゃよかったって、ちょっと思っちゃいます」
場の空気が少し湿っぽくなった。剛田の号泣する声だけが響いている。
カケルは感情が堰を切ったように、少し大きな声で続けてしまった。
「時間なんて、止まればいいのに!」
その悲痛な叫びに、影山先輩も箸を止める。
シズクは静かにグラスを置いた。
彼女の瞳は、居酒屋の薄暗い照明の中でも、ビー玉のように澄んでいて、底知れない深さを湛えていた。
「それが**『祭りの後の寂しさ』**よ」
「え?」
「楽しい時間が永遠に続けばいいのに。そう願う心が、今のあなたを苦しめている犯人」
シズクはテーブルの上にあった、デザートの売れ残りのショートケーキを指差した。
「そのケーキ、いつまでも眺めていたい?」
「えっと、美味しそうですけど……」
「もし、そのケーキが永遠に腐らず、形も崩れず、ずっとそこにあったらどう? プラスチックの食品サンプルみたいに」
「それは……美味しくなさそうです」
「でしょ? ケーキが美味しいのは、それが『食べたら消えてしまう』からよ。儚(はかな)さというスパイスが効いているの」
シズクはフォークでケーキの角を崩し、口へと運んだ。
「最高の瞬間も、最後の一口を食べなきゃ消化されない。永遠に続く祭りなんて、ただの地獄よ。終わりがあるから、今のこの一秒が、ダイヤモンドみたいに輝いているの」
カケルはハッとした。
終わりがあるから、輝く。
自分は「失うこと」ばかりに焦点を当てて、目の前にある「ダイヤモンド」を見ずに、泥ばかり見ていたのではないか?
「あと十五分しかない」と嘆くのと、「まだ十五分もある」と楽しむのでは、見える世界がまるで違う。
「……消化不良を起こしてました、俺」
カケルは深呼吸をした。
肺いっぱいに、居酒屋の雑多な空気を吸い込む。
剛田の暑苦しい泣き顔も、影山先輩の困った笑顔も、シズクの冷ややかな視線も、今この瞬間だけの奇跡的な配置だ。
カケルは腕時計を見るのをやめた。
そして、残りの時間を全力で味わうために、グラスを持ち上げた。
「先輩! 俺、先輩の影の薄さ、忘れませんから!」
「いや、覚えててよ。存在まで消さないでよ」
影山先輩が笑い、剛田が泣き、シズクが呆れる。
その光景は、涙が出るほど鮮やかだった。
*
店を出ると、雨足は強まっていた。
冷たい雨が、酔った火照りを冷ましていく。駅のホームは、湿ったコンクリートの匂いがした。
「じゃあ、みんな、元気でな」
影山先輩が改札の前で振り返った。
剛田は「うおおおおん!」とついに崩れ落ち、目から大量の水分を放出した。
「剛田先輩! 床が! 床が水浸しです! 駅員さんに怒られます!」
カケルが慌てて剛田を支える。これはもはや涙ではない。スプリンクラーだ。周囲の客がギョッとして避けていく。
そのドタバタの中、影山先輩がふとカケルに近づいてきた。
「湊」
「はい?」
先輩は、周囲には聞こえないほどの小声で、カケルの耳元に囁いた。
「あの子には……シズクちゃんには、気をつけろよ」
背筋がゾクリとした。
カケルは先輩の顔を見る。いつも通りの、影の薄い笑顔だ。だが、その目は笑っていなかった。
「え?」
「あの子は……たぶん、この世の住人じゃない気がするんだ。俺、存在感がないからさ、たまに見えちゃうんだよね。……あの子の周りだけ、時が止まってるのが」
電車の到着ベルが鳴り響いた。
先輩は「じゃあな!」と手を振り、何事もなかったかのように改札の向こうへ消えていった。
カケルは呆然と立ち尽くす。
時が止まっている?
この世の住人じゃない?
「カケル、何してるの? 電車行っちゃうわよ」
シズクの声に引き戻される。
彼女はホームの端で、雨に濡れる夜桜を見上げていた。
駅の明かりに照らされた桜の蕾は、雨粒を纏って妖艶に光っている。
カケルは彼女の横顔を見た。
あまりにも白く、整いすぎている横顔。
先輩の言葉が、冷たい雨水のように心に染み込んでくる。
でも、カケルは首を振ってその不安を振り払った。今はこの「別れ」をちゃんと締めくくらなければならない。
「……シズクさん」
「ん?」
「雨、冷たいですね」
「そうね。でも、春の匂いがする」
シズクはふと、桜を見上げたまま、その瞳から一筋の雫を流した。
え?
カケルは我が目を疑った。
感情が欠落しているかのようにクールな彼女が、泣いている?
それは悲しみの涙なのか、それとも雨の雫が反射しただけなのか。
「綺麗ね……散る準備ができている花は」
シズクはそう呟くと、すぐにいつもの無表情に戻り、「帰るわよ、剛田君を回収して」と言って歩き出した。
カケルは去りゆく電車のテールランプを見送った。
胸の奥にあった「終わりの恐怖」は、不思議と消えていた。代わりに残ったのは、静かな感謝だった。
「さようなら」ではなく。
「ありがとうございました」
カケルは小さく呟いて、深く一礼した。
雨はまだ降り続いている。
カケルはポケットに手を入れた。そこには、高校時代の親友と撮ったプリクラが入っている。いつもはお守りのように持ち歩いているものだ。
ふと取り出してみると、雨水が滲んでしまったのか、親友の顔の部分だけがインクが溶けて、不気味に歪んでいた。
「……あ」
まるで、過去の記憶までが雨に流されていくように。
カケルは一瞬、息を止めた。
先輩の不吉な言葉と、歪んだ写真。そしてシズクの涙。
何かが、音を立てて動き出そうとしていた。
終わりの始まり。
春の嵐は、まだ序章に過ぎなかったのだ。
「カケルー! 俺の筋肉が低体温症で縮み上がってるぞー!」
改札の方から剛田の情けない声が聞こえる。
カケルは濡れた写真をそっと財布の奥に戻し、苦笑いを浮かべて走り出した。
「今行きます! まったく、世話が焼ける先輩たちだ……」
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