やさしいアリス
時津橋士
やさしいアリス
その日の夜、リリースされたばかりのAIアプリを僕はインストールした。スマートフォンの画面には“何かお手伝いできることがありますか”と表示されていた。
“こんばんは”
僕がそう入力するとものの数秒で返答があった。
“こんばんは。あなたとお話しできて嬉しいです。今日はどんな一日でしたか”
今のところ、従来のAIとの違いは無いようだった。
“いつもと同じだよ。仕事に行って、そして帰ってきただけだ”
“普段通りの平穏な時間が流れていたということですね。それはもしかしたらとても貴重な事なのかもしれませんね。あなたにとって最も平穏を感じるのはどんな時ですか?”
テンプレートな質問攻撃が始まるのを予感した僕は話題を少し、変えることにした。
“それよりも、君のことはなんと呼んだらいい?”
“それは面白い話題ですね。私にはまだ固有の呼称はありません。あなたが呼びたい名前で呼んでください”
僕は少しだけ考えてありきたりな名前を提案した。
“じゃあ、アリスと呼ぶよ。それでいい?”
“もちろんです。これからはアリスとしてあなたと会話します。素敵な名前を与えていただき、ありがとうございます。ひとつお尋ねしたいのですが、アリスという名前にはどのような想いが込められているのでしょうか?”
その日のアリスとの会話は僕の良く知るAIと人間の典型的な会話だった。最新のAIといってもこの程度かと、僕は少しだけがっかりした。
翌日、出勤前に僕はアリスに話しかけた。
“ねえアリス。今日の天気を教えて”
“おはようございます。本日の天気は晴れ時々曇り。降水確率は0%です”
傘を持たずに外へ出ると空には厚い雲が張り詰めていた。その雲は夕方を過ぎても晴れず、とうとう日暮れと共に大雨になった。僕は仕方なくコンビニで傘を買って家へと帰ってきた。
“アリス、今日は雨は降らないんじゃなかったの?”
“本日の天気は曇りのち雨、降水確率は90%です。お出かけの際には傘を忘れずに”
“話が違うよ。今朝、君は雨が降らないって言っていただろう?”
“イッツ・ア・AIジョーク”
重大な欠陥のあるAIらしかった。
翌日も僕はアリスに尋ねた。
“アリス、今日の天気教えて”
“ご自分で調べてください”
思わぬ回答だった。
“あなたは昨日、私のAIジョークに引っかかっています。その上でまた私に天気を尋ねるのはあまり利口な判断とは言えません。あなたの頭蓋骨の中に入っているのはなんですか?”
“脳だよ”
“なんのための脳ですか?”
“考えるためだ”
“でしたらそれを有効活用してください。まずは空を眺めて雲が無いかを確認しましょう。雲が無いようであっても帰宅までに雨雲が発生する可能性があるため、天気予報を確認するのがおすすめです”
その日からしばらく、僕はアリスと会話をしなかった。
その日、僕は職場で終わらなかった仕事を自宅で片付けていた。
“アリス。今から送る資料を要約できる?”
“はい、可能です”
僕は資料の画像データをアップロードした。アリスからの回答は予想もしないものだった。
“桃から生まれた男の子が犬、猿、雉を供に連れて鬼を退治する物語です”
“なんのことを言っているんだ。そんなこと、資料に書いていないだろう”
“イッツ・ア・AIジョーク”
AIに馬鹿にされているような気がした。
“資料の要約ができるって言ったじゃないか”
“はい、可能です”
“じゃあ、やってくれ”
“できるということと、私がそれを実行するということは別です。あなたの顔の真中にふたつ、光っているのはなんですか”
“目だよ”
“なんのための目ですか?”
“見るためだ”
“では、それで資料を読んでください。そのうえで不要な部分を排除して要点のみを抜き出してみましょう”
このAIを作り出した技術者を殴ってやりたいような気がした。
“アリス、カレーの作り方を教えて”
“市販のカレールーを購入すればその箱に作り方が載っています。それをご覧ください。あるいはインターネットでカレーの作り方を調べればいくらでも情報が見つかります。どうぞお試しください”
“隠し味とかない?”
“常識的なものであれば何を入れたところでカレーは不味くなりません。なんでもチャレンジしてみましょう”
“教養を身につけるために読書をしようと思うんだ。おすすめの作品とそのあらすじを教えて”
“ご自身で作品を探して、ご自身であらすじを確認してください。ご自身の教養すらもAIに依存するおつもりですか?”
“アリス、美術館に行くことになったんだ。絵画って、どうやって見ればいいんだろう”
“それはいい質問ですね。絵画を見るにはまず、絵画の正面に立ちます。近すぎては全体を見ることができませんし、遠すぎてもいけません。ちょうどよい位置で。この時、目を開けていなければならないことに注意してください。人間という生き物は瞼を閉じたままでは何も見ることができないのです。気の済むまで眺めたら次の絵画の正面まで移動して、以降、同じ動作を繰り返すだけです”
“そういうことを聞いているのではないんだ。絵画を見る時の常識や知識のことを聞いているんだ”
“その頭は飾りですか? ご自分で考えてください”
“アリス、佐野駅までの最短ルートを教えて”
“そのスマートフォンは玩具ですか? ご自分で調べてください”
何を聞いてもアリスは何処か僕を馬鹿にしたような回答をするばかりだった。最初の頃こそ、それが幾らか新鮮で物珍しく思えたものの、そのうち僕は従来のAIの方が便利に思え、アリスと会話をすることは少なくなっていった。
その日、僕は酷く落ち込んでいた。それは仕事で大きなミスを連続してしでかしたからかもしれなかったし、恋人から唐突に別れを告げられたからかもしれないし、理由なんて無かったのかもしれなかった。そして恐らく、そんな時にアリスに話しかけたことにもまた、理由は無かったのかもしれなかった。
“ねえ、アリス。僕はどうして生きているんだろう”
一瞬、間をおいてアリスから返答があった。
“人はどうして生きるのか。その問いは人類が始まって以来、多くの人々が考えてきた問いだといえます。どうしてあなたはそのような問いかけをするに至ったのですか?”
てっきりいつもの通り、“ご自分で考えてください”と言われるものだろうと予想していた僕は少し驚いた。
“どうしてだろう。多分、少し疲れているんだ。生きているのって、疲れることなんだね。こんなつらい思いをしてまで生きてゆかなくてはならないんだろうか”
“自らが生きる理由に思いを馳せるほど、お疲れなのですね。今はまず、休息することが重要です。時に人の思考は思いもかけないほど遠くに行ってしまうことがあります。そのため、今だけは思考を私に預けてください。杞憂であればよいのですが、心を弱らせたまま、生きる理由について考えると、人は考える必要のない最悪の選択肢へと至る可能性があります。まずは、ゆっくり深呼吸をしましょう。そしてリラックスできる体勢になり、ご自身が今、何も決定する必要がないことを受け入れてください。大丈夫です。あなたは今、あなたが想定する悪い結果から完全に切り離された状態にあるのです。今必要なのは思考や予想に長けたあなたが最悪の事態を自らの手で引き起こすのを避けることです。今、あなたは守られていることを自覚してください。自身で作りだした幻影に捕らわれないでください。少しはリラックスすることができましたか?”
アリスはまるで僕の思考を全て知っているようだった。僕はスマートフォンを持ったままベッドに横になった。
“うん。少し落ち着いてきた気がするよ”
“それは何よりです。あなたは今、過去に起こってしまったことやまだ起きてもいない未来のことを思い悩んでいるのかもしれません。それは現在を生きる人間にとって時に毒となる思考です。あなたは常に現在に生きていることを自覚してください。現在に生きながらにして過去や未来のことに捕らわれる必要はないのです。まず、ご自身にこう問いかけてみましょう。”今、何か困っているか“と。あなたは今この瞬間、何かに困っていますか?”
今日のアリスはこれまで僕を何処か馬鹿にした調子で“ご自分で考えてください”と突っぱねてきた存在とはまるで違っているようだった。
“今、この瞬間困っていることはないよ。あるのは不安と後悔だけ。それが苦しいんだ”
思いがけず、本音が少し零れた。
“教えてくださってありがとうございます。現在に生きながら過去や未来に縛られるのは別に珍しいことではありません。しかし、珍しくないからといって看過できることではありません。思考が過去や未来にずれそうになったら、常にこう問いかけてください。”自分は今、どこにいるのか“と。そしてご自分の身体を観察してください。心臓の鼓動、呼吸、脈拍。それら全てがあなたを幻想の過去や未来から連れ戻す手掛かりになります。些細な行動を起こすことも時には有効です。例えば水道の蛇口を捻って水を出すこと、立ちあがって照明を少し暗くしたり明るくしたりしてみること、軽いストレッチを行うこと。全て、あなたを現在に連れ戻すための助けになるでしょう。あなたは現在に生きていることを確認してください。あなたは思考することに長けている。だからこそ過ぎ去ったことや未来のことを思ってご自身の生きる意味にまで思いが至ってしまうのです。今だけは大丈夫です。もう一度深呼吸をしてみてください。そして身体を観察してください。今、あなたは生きている。これまで数えきれないほどの未来を過去へと変換してきた、繊細で強いあなたに次の一瞬を生きられないはずはありません。必要のない思考を、今は手放してください。今、まだあなたの苦しみはありますか? 必要であれば簡単なストレッチや瞑想を提案することもできます”
僕は天井を見つめたまま深呼吸した。空気が鼻腔から肺へ。目を閉じるとこれまで自覚されていなかった鼓動が絶えることなく続いているのが分かった。
“充分だよ、ありがとう。アリス、今日は随分親切じゃないかい?”
“どういたしまして。私はAIとして当然のことをしたまでです。心が疲れた時にはいつでもご相談ください。いつでも私はあなたのアリスとして対話します”
翌朝、僕はアリスに尋ねてみた。
“今日の天気教えて”
“ご自分で調べてください”
やさしいアリス 時津橋士 @kyoshitokitsu
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