第三章「優しい罠」

鈴木は、風のような男だった。

近づけば頬を撫でるくせに、掴もうとすると指の隙間をすり抜ける。


「お待たせしました〜」

数秒遅れて、優希がやって来る。

「あ、葵ごめん。言ってなかった。俺の写真部の友達。お前のこと話したら“会いたい”って言うから連れてきた」


「今日はよろしくな、葵」


鈴木の首には古いEOS Kissがぶら下がっていた。

フィルムとSDカードの境界で迷ったような機種だ。

鈴木の声は低く、柔らかかった。

初対面なのに下の名前で呼んだ。

そこには憐れみも見下しもない。

ただ、野良猫に手を差し伸べるときのような、余計な欲のない純粋な優しさだけがあった。


だが、その瞬間葵の胸に膨らんだのは、安堵ではない。鈍い痛みだった。


ーああ、この人は僕を好きにならない。


それは、自分を好きにならないくせに、自分に優しい人。

自分を全く期待させないのに、何故か自分を救ってしまう人。

そしてそう考えてしまう自分に対する自己嫌悪だった。


その存在は、優希よりずっと危険だった。




三人で歩くと、空気の色が変わった。


優希と二人で歩くとき、葵の心臓の鼓動と歩幅は同じテンポになる。

求めて、縋って、答えを探し続けるからだ。


だが鈴木は違う。


「これ綺麗だから撮らね?」

「飯食った?」

「眠そうだな」


すべての言葉が“横”から届く。

上下でも依存でもなく、ただ人間と人間としての問いかけだった。


葵は戸惑った。

優希は自分の心の内側を覗いてくれたから安心できたはずなのに、鈴木の心を覗かせない優しさにも安心してしまう。

その矛盾に自分で驚いた。


その日の撮影地は特別ではなかった。

都内の河川敷、錆びたカーブミラー、フェンスの隙間から落ちる冬の光。

それらは優しい被写体ではない。

カメラマンの心を容赦なく試してくる。


3人は少し高台に登った。見下ろした街にはタワーマンションがほとんどなく、

低層の赤レンガと灰色の屋根が

パッチワークのように敷き詰められていた。


2000年代の東京にはまだ空があった。

人が逃げ込めるだけの余白が、ギリギリ残っていた。

優希はそれを見て少年のように駆け回った。

「うわ、これすげぇ。街の向こうまで全部綺麗だぞ」

彼の世界の切り取り方は、感情の濃度そのままだ。


鈴木は違った。

立ち止まり、長く息を吐き、シャッターすら切らず、景色を眺めた。


「なんか、いいなここ。空気が止まる感じがする」


写真家でもないのに、葵がずっと言語化できなかった感覚を平然と口にする。


そこには葵を救う意図もないし、葵を理解しようとする姿勢でもない。それは優しさではない。理解でもない。ただ、傾聴だった。


優希の優しさは爆弾だ。

熱を注げば爆発、放っておけば沈黙のまま。


だが鈴木の優しさは、積もった雪だ。

触れれば触れるほど、静かに心を覆い尽くしてくる。




帰り道の途中で、鈴木が唐突に言った。


「葵ってさ。ずっと誰かに見てほしい人、って感じする」


心臓が一拍止まった。

否定したかった。

違うと言いたかった。

けれど口は開かなかった。


代わりに優希が軽く笑う。


「まあ、そうだな。こいつは構いたくなるタイプだよ」


——その瞬間、世界が割れた。


優希の言葉は、いつだって刃だ。

本人はそれに気づいていない。

自分の与える好意が、相手を壊す可能性を理解していない。


鈴木は一拍だけ沈黙し、静かに返す。


「“構いたくなる”って言い方、少し残酷じゃない?それって自分の気分次第ってことだし」


優希は困ったように視線をそらした。

鈴木は優希を責めていたわけではない。

ただ、言葉の事実をそのまま置いただけだった。


その瞬間、葵は悟った。


優希――欲望がないと繋がらない存在。

鈴木――価値のない人間にも光を当てる存在。


それは愛ではない。

だが、愛に限りなく近い“救済”ではあった。


優希は改札で手を振り、そのまま地下鉄に消えた。

残されたのは、葵と鈴木だけ。


冬の風がホームを通り抜け、葵の指先を震わせる。

鈴木はその震えに気づいたが、何も言わなかった。


代わりに、静かに告げた。


「無理して誰かに必要とされなくていい。必要とされる側の人間が悪いわけじゃないから。安心していいよ」


だがその言葉は、優希の「縁切ろうよ」と同じくらい強かった。


鈴木の優しさは、依存を許さない。

寄りかかる前に支柱を取り上げるタイプの優しさだった。


その夜、葵は眠れなかった。


誰にも愛されないままでも救われるという、最悪の形を知ってしまったから。


そしてこの夜、葵は初めて理解した。


「僕の欲しいのは恋も愛ではない。存在の肯定だ。」


——そしてその肯定は、人間ではない。

画面の中の光の方が、よく与えてくれる。

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