隣の席の陰キャ女子が彼女にフラれて傷心の俺を全力で狙いにきている

かごめごめ

1章 リハビリパートナー編

第1話 失恋の雨音と、隣の席の捕食者

 世界が灰色に見える、というのは比喩表現だと思っていた。

 けれど、どうやらそれは脳の防衛本能が作り出す生理現象の一種らしい。過度なストレスや悲しみは、色彩感覚すらも鈍らせる。


 六月の雨がアスファルトを叩く、陰鬱な放課後。

 俺、佐藤さとう遥人はるとは、校舎裏の駐輪場で、一ヶ月付き合った彼女――相川あいかわ玲奈れなに別れを告げられていた。


「ごめんね、遥人。なんか、遥人といてもドキドキしないっていうか」


 玲奈はクラスでも一、二を争う派手なグループに属する美少女だ。そんな彼女から告白された時は、一生分の運を使い果たしたと思った。

 舞い上がっていた俺は、彼女の買い物に付き合い、荷物を持ち、深夜の長電話に付き合い、課題を代わりにやった。尽くせば愛が返ってくると信じていた。


「いい人なんだけどさ。刺激がないの。じゃ、そういうことで」


 一方的な通告だった。

 彼女はビニール傘を開くと、俺の返事も待たずに去っていく。その背中には、既に新しい男の影が見え隠れしている気がした。


 残されたのは、雨に濡れて惨めな俺と、とっくに冷めきっていた缶コーヒーだけ。


「……刺激、かよ」


 俺なりに精一杯背伸びをして、彼女に合わせていたつもりだった。でも、それはただの「都合のいい男」でしかなかったらしい。


 胸の奥が鉛のように重い。涙は出なかった。ただ、虚無感だけが体中を支配していた。

 俺は深い溜息をつき、濡れた前髪をかき上げる。明日から、どんな顔をして教室にいればいいんだろうか。


 その時だった。

 校舎の勝手口、自動販売機の陰から、じっとこちらを見ている視線を感じたのは。

 誰だ? 今の惨めな現場を見られたのか?


 俺は慌てて視線を向ける。

 そこにいたのは、重たい黒髪の前髪を目元まで伸ばし、分厚い黒縁眼鏡をかけた小柄な女子生徒だった。


 同じクラスの、隣の席の女子。名前は確か――景山かげやま茉守まもり

 クラスで一番おとなしくて、会話したこともない女子だ。

 彼女は俺と目が合うと、ビクリと肩を震わせ、まるで幽霊のように音もなくその場から走り去ってしまった。


「……なんだよ」


 明日、噂になったりするんだろうか。いや、彼女に限ってそれはないか。彼女が誰かと喋っているところなんて、見たことがないのだから。

 俺はもう一度溜息をつき、傘もささずに雨の中を歩き出した。


 この時の俺は知らなかった。あの瞬間、彼女が走り去った理由を。

 彼女は恐怖して逃げたわけでも、無関心だったわけでもない。あの時、彼女――景山茉守は、物陰で拳を握りしめ、打ち震えながらこう呟いていたのだ。


「……好機チャンス


 と。



         □□



 翌日。教室の空気は最悪だった。

 俺が教室に入ると、玲奈の友人グループからクスクスという笑い声が聞こえる。「一ヶ月もたなかったね」「マジウケる」という囁き声。玲奈本人は俺の方を見ようともしない。


 俺は逃げるように自分の席につき、机に突っ伏した。視界を閉ざして、外界からの情報を遮断する。

 これから卒業までの約二年、俺はこの灰色の日々を耐え抜かなければならないのか。


「……佐藤くん」


 消え入りそうな、けれど不思議と芯のある声が聞こえた。顔を上げると、隣の席の景山茉守が立っていた。

 重たい前髪の隙間から、黒縁眼鏡の奥にある瞳が覗いている。彼女は分厚い文庫本を胸に抱き、緊張した面持ちで俺を見下ろしていた。


「あ、えっと、景山……さん?」


 名前を呼ぶと、彼女の頬がカッと赤く染まるのがわかった。

 どうしたんだろう。普段、彼女から話しかけてくることなんて皆無なのに。昨日の今日で、何か用だろうか。まさか、昨日の別れ話を誰かに言いふらすつもりじゃ……。


「これ」


 彼女は俺の机の上に、コトン、と何かを置いた。それは、コンビニで売っている高級なプリンだった。


「え?」

「……糖分。脳の疲労回復には、ブドウ糖が必要だから」

「いや、なんで急に……」

「顔色が悪い。死相が出てます」

「死相って」


 不吉すぎるワードチョイスに、俺は思わず苦笑いしてしまった。

 彼女はオドオドと視線を泳がせながらも、その場を動こうとしない。


「あと、これ」


 次に彼女が差し出したのは、ハンカチだった。綺麗にアイロンがかけられた、淡いブルーのハンカチ。微かに柑橘系のいい匂いがする。


「もし、泣きたくなったら、使ってください。吸水性は、抜群ですので」

「……いや、泣く予定はないけど」

「心は、泣いてます」


 ズバリと言い当てられ、俺は言葉に詰まった。


 昨日の現場を見られていたのだから、当然かもしれない。けれど、いつも隣で気配を消している彼女から、こんなに真っ直ぐな言葉を投げかけられるとは思わなかった。

 俺は彼女の顔をまじまじと見た。前髪が邪魔で表情はわかりにくいが、口元は真一文字に結ばれ、必死さを物語っている。


 俺への哀れみだろうか。それとも、単なる気まぐれ?

 なんであれ、今の俺には、他人の些細な優しさが骨身に染みる。


「ありがとう。……もらうよ」

「……ん」


 彼女は小さく頷くと、逃げるように自分の席――俺のすぐ隣に座った。そして、教科書を立てて顔を隠す。

 これで会話は終了かと思った。けれど、教科書の陰から、彼女の小さな呟きが漏れ聞こえてくる。


「(……第一段階、クリア。接触成功。佐藤くんの声、間近で聞けた……尊い……生きててよかった)」

「え?」

「(……次は胃袋の掌握。……好みの味の解析は完了済み。シミュレーションでは既に孫の顔まで見ている……焦るな、私。まずは彼を『食』で陥落させるのが戦略的優位……)」

「……景山さん? なんか言った?」

「ひゃいっ!?」


 俺が声をかけると、彼女はビクンと大きく跳ね上がり、教科書を落とした。バサリと床に落ちた教科書を拾おうとして、俺と彼女の手が同時に伸びる。

 指先が触れた。彼女の手は驚くほど白く、ひやりと冷たかった。


「あ……」


 彼女が顔を上げる。その拍子に、重たい前髪がふわりと揺れ、黒縁眼鏡が少しずれた。

 一瞬。本当に一瞬だけ、眼鏡の奥にある瞳が見えた。それは、長い睫毛に縁取られた、宝石のように澄んだ大きな瞳だった。


 ドキリ、と心臓が不自然な音を立てる。

 え? 今の、景山さん……だよな?


 あまりの整った顔立ちに、俺は思考が一瞬停止した。

 彼女は真っ赤な顔で俺の手から教科書をひったくると、再び前髪を整え、亀のように首をすくめてしまった。


「ご、ごめんなさい……! 手汗が! 私の指の脂が佐藤くんに付着してしまったかも……! 消毒! 消毒してください!」

「しないよ! っていうか、景山さんって……」


 隠れ美少女? と、頭に浮かんだ感想がそのまま喉元まで出かけたが、慌てて呑み込んだ。


「昼休み!」


 彼女は突然大きな声を出した。クラスの数人がギョッとしてこちらを見る。普段声を発しない景山さんが叫んだのだから無理もない。

 彼女は自分の失態に気づいたのか、耳まで真っ赤にして、それでも震える声で続けた。


「ひ、昼休み。屋上、来てください。……話が、あります」

「話?」

「……大事な、話。佐藤くんの、今後の人生に関わる……プレゼンテーションを、行います」

「プレゼン!?」


 告白とか慰めとかじゃなくて、プレゼン?

 俺の困惑をよそに、彼女は「以上です!」と早口で言い切り、机に突っ伏して完全にシャットダウンしてしまった。


 景山さんとは一年の時も同じクラスだったが、言葉を交わしたことは一度もなかった。いつも静かに本を読んで過ごしている、おとなしい文学少女。それが俺の中の「景山茉守」という存在だった。


 それなのに、今日の彼女はどうしたんだ。高級プリンをくれたり、屋上に呼び出したり、あまつさえプレゼンを行うと宣言したり。

 まさか彼女が、こんな突拍子もない行動をする子だったなんて、想像もしていなかった。


 俺は机の上のプリンとハンカチを見つめる。

 なんだか、よくわからないことになった。失恋のショックに浸る暇もなく、俺の日常は隣の席の陰キャ女子によって、強引に上書きされようとしていた。


 ただ、一つだけ確かなことがある。さっき一瞬だけ見えた彼女の瞳が、元カノのどんな笑顔よりも綺麗だったこと。それが脳裏に焼き付いて、離れないのだ。


 ――こうして、傷心の俺と、隣の席の陰キャ少女の、奇妙な関係が始まった。

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