第19話 銀の爪と濡れた騒動

 ブラッドベリー家のダイニングルームは、戦場と化していた。

 といっても、魔法や剣が飛び交っているわけではない。

 飛び交っているのは、肉と骨、そして凄まじい咀嚼音だ。


「ガツガツ! ムシャムシャ! ……うめぇ! これもうめぇ!」


 テーブルの上には、山盛りの骨付き肉、パン、果物が積み上げられていたが、それらはブラックホールに吸い込まれるように、銀髪の少女の胃袋へと消えていく。


「……よく食べますね」

「ああ。見ていて気持ちいいくらいだ」


 俺とレイラは、その光景を呆然と眺めていた。

 少女の正体は、鑑定の結果**『獣人(狼種) / Beastkin (Wolf Type)』**であることが判明した。

 遠き『ティル=アラン大陸』に多い種族だが、なぜこんなノクス・ドメインの奥地にいるのかは不明だ。


 先ほど、泥だらけだった彼女を風呂に入れる際、一悶着あった。

 獣人は水を嫌う個体が多い。彼女も例に漏れず大暴れし、レイラが全身ずぶ濡れになって取り押さえたのだ。


 ふと、俺の視線が隣のレイラに向く。

 彼女のメイド服は、風呂場での激闘で湿り気を帯び、白い肌に張り付いている。

 薄い布地越しに透ける下着のラインや、豊満な胸の膨らみが、呼吸をするたびに上下し、その形を露わにしている。

 さらに、風呂上がり特有の蒸気と、レイラ自身の甘い香水の匂いが混じり合い、鼻腔をくすぐる。


「……アルス様? どうかされましたか? 顔が赤いですけれど」


 レイラが不思議そうに顔を覗き込んでくる。

 無防備な距離。首筋を伝う水滴が、鎖骨の窪みへと吸い込まれていく。


「……いや、なんでもない。湯あたりしただけだ」


 俺は慌てて視線を逸らし、冷たい水を煽った。

 精神はアラサーのゲーマーだが、肉体は成長期(8歳、外見12歳相当)の吸血鬼だ。

 最近、ふとした瞬間に身体が熱くなったり、朝起きると下半身が元気だったりすることが増えてきた。

 吸血鬼の性欲と繁殖本能は強いと聞く。理性で抑えてはいるが、レイラのような献身的で美しい女性が近くにいる環境は、少々毒かもしれん。


「ぷはーっ! 食った食った!」


 少女が満足げに腹をさすり、俺の思考を現実に引き戻した。

 さっぱりした彼女の容姿は、驚くほど整っていた。

 月光のような銀髪、健康的な小麦色の肌、そして頭頂部でピコピコと動く三角形の獣耳。

 今はブカブカのシャツ一枚(俺のお古だ)を着ているだけで、隙間から鎖骨や太腿がチラチラと見えているが、本人に羞恥心という概念はないらしい。


「さて。腹も満ちたことだし、少し話を聞かせてもらおうか」


 俺が問いかけると、少女は金色の瞳を細め、鼻を鳴らした。


「……お前、いい匂いがする。だから話してやる」

「いい匂い?」

「強くて、美味そうな匂いだ。あと、こっちの女は……石鹸臭い」


 少女はレイラを見て「フンッ」と顔を背ける。


「名前は?」

「……ない」

「ない?」

「ずっと一人だった。呼ぶ奴もいなかった」


 少女は事もなげに言う。

 親も、仲間もいない。荒野でただ生き延びてきた野生児。


「じゃあ、ここへはどうやって入った? この屋敷には強力な結界が張ってあるはずだ」


 レイラが鋭く尋ねる。少女は首を傾げ、尻尾を揺らした。


「ケッカイ? 分かんない。美味そうな匂いがしたから、隙間を通ってきただけ」

「隙間……ですって?」


 レイラが絶句する。

 完璧な結界の、一瞬の魔力の揺らぎ。それを本能的に感じ取り、すり抜けたというのか。

 とんでもない「野生の勘」だ。


「名前がないのは不便だ。僕がつけてもいいか?」

「……美味い名前か?」

「響きは悪くないはずだ。……『フェル』。どうだ?」


 彼女の銀色の毛並みと、底知れぬポテンシャルには相応しい。


「フェル……フェル……」


 少女は何度か口の中で転がし、ニカっと笑った。


「いいぞ! あたしはフェルだ! お前は?」

「アルスだ。こっちはレイラ」

「アルス! 肉をくれたアルスはいい奴だ! レイラは……身体を洗うから嫌いだ!」


 単純明快だな。

 その時、重々しい足音と共に、父ヴァルガスがダイニングに入ってきた。


「……騒がしいな。何事だ」


 父の姿を見た瞬間、フェルの全身の毛が逆立った。

 彼女は椅子から飛び退き、四つん這いの姿勢で低く唸る。

 その拍子にシャツの裾がめくれ上がり、健康的なお尻のラインが丸見えになったが、本人は気にする様子もない。

 ……目のやり場に困るのは俺だけか。


「グルルルッ……! こいつ、ヤバい! アルス、逃げろ!」


 野生の勘が、父の実力を正確に測ったらしい。

 父はフェルを一瞥し、興味深そうに眉を上げた。


「ほう。屋敷に迷い込んだ鼠かと思ったが……獣人か。しかも、ただの獣人ではないな」

「父上、彼女はフェル。僕が拾いました」


 父はフェルに近づく。フェルは飛びかかろうとするが、父の威圧感に押されて動けない。


「アルスよ。この獣、どうするつもりだ?」

「飼います。……いえ、僕の『パーティー』に入れます」


 俺は即答した。

 前衛(タンク)兼アタッカー。

 本能で動くタイプは、俺のような理詰めタイプと相性がいい。


「ペットにするというのか? 躾(しつけ)が必要だぞ」

「ええ。ですので、これから地下の修練場で『お手』を教えようかと」


 俺の言葉に、父はニヤリと笑った。


「よかろう。許可する。ただし、首輪をつけるのはお前の役目だ。噛み殺されても文句は言うなよ」


 ***


 食後の運動。

 地下修練場にて、俺とフェルは対峙していた。


「いいか、フェル。この屋敷に居たいなら、僕の言うことを聞くんだ」

「やだ! あたしは誰の指図も受けない! でも肉は食う!」

「なら、力比べだ。僕に勝てたら、好きなだけ肉をやる。負けたら、僕の部下になれ」


 フェルの耳がピクリと動く。


「勝ったら肉! やる!」


 合図もなしに、フェルが地面を蹴った。

 速い。純粋な身体能力だけの突進。

 だが、その速度は『アッシュ・ウルフ』を遥かに凌駕している。


(Lv30……いや、身体能力だけならLv40相当か?)


 俺は『魔力感知』で軌道を読む。

 直線的だ。だが、重い。


「『シャドウウィーブ』!」


 俺は影の盾を展開し、フェルのタックルを受け止める。

 ドゴォッ!

 衝撃が骨に響く。影の盾が一撃で粉砕された。


「捕まえた!」


 フェルが俺の腕を掴もうとする。

 俺は反射的に身を捻ったが、彼女の手が俺の服を掴み、勢い余って二人でもつれ合うように地面に転がった。


 ドサッ。


 俺の上に、フェルが馬乗りになる形になった。

 至近距離にある金色の瞳。

 そして、重なる体温。

 彼女の着ているシャツが乱れ、柔らかい肌の感触と、獣特有の熱い体温がダイレクトに伝わってくる。

 汗と、微かな獣の匂い。


「とったぞ! あたしの勝ちだ!」


 フェルは無邪気に笑っているが、俺の方は心臓が早鐘を打っていた。

 太腿に当たる彼女の脚の感触が生々しい。

 これは、まずい。

 身体的な接触(グラップリング)が、戦闘とは別のスイッチを入れそうになる。


「……甘いな」


 俺は動揺を隠し、冷静さを装って彼女の足元に影のロープを絡ませた。


「うわっ!?」


 バランスを崩したフェルが、ゴロンと転がる。

 形勢逆転。今度は俺が上だ。

 俺は彼女の手首を影で地面に縫い付け、動きを封じた。


「……魔法だ。力だけじゃ勝てないぞ」


 俺は荒い息を吐きながら、彼女を見下ろした。

 フェルは悔しそうに唸り、それから観念したように力を抜いた。


「……負けた。アルス、強いな」

「フェルもな。磨けばもっと強くなる」


 俺が拘束を解くと、フェルは起き上がり、俺の手を握った。


「約束だ。部下になってやる。……でも、肉はもっと食わせろよ?」

「ああ、約束する。君が強くなればなるほど、倒せる獲物も増える。そうすれば、もっと美味い肉が食えるぞ」


 俺の言葉に、フェルの目が輝いた。

 どうやら、俺たちの利害は完全に一致したようだ。


【Party Member Added】


Name: フェル (Fer)


Race: 獣人(狼種)/ Beastkin (Wolf Type)


Level: 推定 28


Class: 野生児 (Wildling)


Role: 近接格闘 / 嗅覚探知


 こうして、俺の攻略パーティーに、頼もしくも手のかかりそうな「番犬」が加わった。

 そして俺は、この屋敷での生活が、今まで以上に騒がしく、そして理性を試されるものになることを予感していた。


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