第3話 洗礼前夜

 部屋に通された頃には、日が金色に傾き始めていた。

 廊下には赤い絨毯が敷かれ、壁には絵画や銀の壁飾り。

 どれも、私が足を踏み入れて良い場所とは思えないほど立派だった。


 案内された部屋も同じだった。

 豪奢なカーテンに磨かれた床。

 ベッドに触れれば、沈み込むほど柔らかい。


(すごい……けど)


 なぜだろう。

 その豪華さが、余計に孤独を強めた。


(戻りたい……トールのいる小屋に)


 寒くて、埃っぽくて、風が隙間から入る深夜に震えあって過ごしたあの場所。

 なのに、心は安心できた。


 でも、その願いは口にしてはいけない。


 泣き言を言った瞬間――

 スラムで暮らす子どもたちが、私より先に切り捨てられる。


 私はベッドに腰掛け、深く息を吐いた。


(明日、洗礼……)


 頭がじんじん痛む。


 洗礼とは、神殿の聖水に立ち、神の祝福を受けて魔力を授かる儀式。

 王国中でそう信じられている。


 だが現実には――


 魔法を扱えるのは貴族のみ。

 血筋に宿る素質が必要だとされ、平民には決して宿らない。


(もし魔力が授からなければ……)


「やっぱり平民じゃダメだったのね」


「聖女候補失格よ。滑稽だわ」


 そんな言葉が聞こえる未来が容易に想像できた。


(それでも逃げられない)


 スラムを守るため、王宮に呼ばれた。

 この立場は、私だけの問題じゃない。


 肩に背負ったものが大きすぎて、胸が苦しかった。



 扉が控えめにノックされる。


「イレネス様、夕食をお持ちしました」


「は、はい」


 入ってきた侍女が手際よく銀蓋を外すと、湯気とともに香りが漂った。


 濃厚な肉のソース。

 焼きたてのパン。

 温かい野菜のスープ。


(こんな食事……)


 思い出せないほど前だった。

 スラムで食べるものといえば、捨てられた固いパンか、傷んだ野菜を煮たもの。


「……召し上がらないのですか?」


「あ、食べます。ありがとうございます」


 侍女は無表情だが、視線だけがふっと揺れたように見えた。

 もしかしたら、彼女は噂ほど意地悪ではないのかもしれない。


(でも……気を許しちゃダメ)


 誰が味方で、誰が敵か――分からない場所だ。


 スプーンを口へ運ぶと、温かい味が広がった。


 胸の奥に何かが込み上げそうになり、慌てて俯く。


(泣いちゃだめ……)


 食事を終えると、侍女は淡々と告げた。


「明朝、神殿にて洗礼が行われます。……お休みください」


 扉が閉まり、部屋に再び静けさが戻る。



 窓に歩み寄ると、遠く王都の夜景が見えた。

 光が星のように瞬き、その下には人々の生活がある。


 そのどこかで、トールが眠っている。


(無事でいて……)


 私は祈る相手さえ知らない。

 それでも、願わずにはいられなかった。


 と――廊下から声が聞こえてきた。


「聞いた? 明日が洗礼よ」


「でも、あの子は無理でしょう。魔力なんて無いに決まってる」


「恥をかくだけだわ」


 令嬢たちの笑い声。

 声の主までは分からない。

 けれど、胸の奥がずくりと痛んだ。


(分かってる……)


 私は身分も力も何も持たない。

 ただの平民。

 奇跡なんて起こせるはずがない。


 それでも――


(諦めない)


 誰にも奪わせたくない場所があった。


 暖も食料も乏しいけれど、あの場所で必死に生きる子どもたち。

 その全てを守るため、ここに立った。



 部屋の明かりを落とすと、月光だけが静かに室内を照らす。

 あまりに柔らかいベッドに横たわると、かえって寝付けない。


(朝が来るのが怖い……でも)


 逃げることはもうできない。


 洗礼――

 魔力が授かるかどうかで、今後の全てが決まる。


 貴族の少女たちに囲まれ、平民は私一人。


(でも、それが私に残された道なら)


 私は深夜まで、ベッドで目を閉じたまま、息を殺して朝を待った。

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