京都に来てから、オレは山登りを始めた。

　関東からの引越しで懐具合が寂しくなったが、山歩きなら大した元手も必要なく、かつ健康にもいいのでは、と思い立って登り始めたのだ。

　最初は、街歩き用ワンショルダーザックを肩に引っ掛けて大文字山など、近くの山に行くだけだった。けど、ちょっと長く山の中を歩くようになると、昼飯のカップ麺に、お湯を沸かすクッカー、日暮れに備えたヘッドライトなども必要になったのと、何よりもワンショルダーだと、背中で右に左に動くのが煩わしく、ついに専用のザックを買った。オスプレイの２４リットル。日帰りには丁度いいサイズだ。左腰部分が、刀のようにストックを差せる仕組みなのがいい。いちいちザックを下ろさずストックの抜き差しができる。

　千種忠顕卿の碑は比叡山ケーブルカー山頂駅の手前、１５分くらいのところにある。

　６月の土曜日。天気もいいし、今日も自転車で登山口まで来て、比叡山を目指す。

　雲母坂（きららざか）から延々と登ってくると、かつて最澄も腰を下ろして休んだといわれる岩があって、そこからすぐの左手に、碑の在処を示す標が立っている。それに従って登ると、しっかりとした石垣の土台を持った小高い丘の上に出る。

　丘といっても眺望はなく、腰掛けて一休みするのにちょうどいい高さに据え付けられた鉄製のパイプにぐるりと囲まれているだけの場所だ。その真ん中に立派な石碑が立っている。それが千種忠顕卿の碑だ。比叡山に登るときにはいつもここで一休みする。

　時間を見たら９時４５分。一服できるな、といつものようにパイプに腰を下ろした瞬間、腐食していたのか、バキンッといきなりパイプが折れ、まるでバックドロップのような形で後ろの斜面に落ちて、一瞬目の前が真っ暗になった。

「…痛ってぇ。マジかよ…」　

ザックを背負ったままだったのが幸いしたのか、ケガもなく大事には至らなかったようだ。首を擦りながら登り返すと、すぐにさっきまでと景色が違うことに気付いた。

　丘の石垣がない。

さっきまで座っていたパイプもないし、第一石碑がない。足元に置いたはずの飲みかけのペットボトルもない。でもケーブルカー駅方面に続く起伏や木々の間に見える登山道などの山容は間違いなくいつもの比叡山だ。

「え、どういうこと…」

　現在地を確認しようとしたらＧＰＳ信号がなかった。よく見れば電波もない。

「え、ここいつも電波あるのに？」

　時間は１０時ちょうど。時計は大丈夫だ。これはどういうことだろう。事情が飲み込めず、しばし呆気に取られていたが、とりあえず下山することにした。街に近づけば電波も戻ってくるだろうし、他の誰かとすれ違うかもしれない。すれ違ったらどうなるわけでもないが「ここはどこ」状態の解決には誰かが必要なのでは、と思ったのだ。

　登山道は、ついさっきオレが登ってきたものとは明らかに違っていた。いや多分ルートは同じなのだ。ただ周りの木々や地面の踏みしめられた感が全く違う。違和感を覚えながらも下山を続けていると、おもむろに人の気配がした。下山道からではない。右手の林の中からだ。

　鹿だろうかと、音のした方向に目を向けてオレはぎょっとした。そこにいたのは人。しかも三人。でもそれはオレが待ち望んでいた山歩きの人ではなく、時代劇とかで見る、足軽のような装備に身を包んだ侍だった。

「アシカガカ」　

　先頭の若者が発した言葉は、オレは最初何語かすらわからなかった。

その若者は一歩踏み出し、オレの出で立ちを上から下まで見た後で、

「アシカガノモノカ」

と続けた。ここでようやくオレは、それが「足利の者か」であることを理解した。