第20話 時計塔
四日かけてガルシア侯爵邸までやってきたフレデリックであったが、翌日、御者に無理に頼んで三日で伯爵邸に戻った。気持ちは焦るばかりでその足取りは重く、嫌な予感が消えることはなかった。
屋敷に戻ると、案の定、バルケル伯爵に休む間もなく書斎に呼ばれた。フレデリックが屋敷に戻るよりも早く、ガルシア侯爵家から早馬で事の次第の報告が届いていたのだ。
「このばか者! 侯爵殿は、たいそうご立腹だ。娘に恥をかかせたと怒り狂っておる。新事業に出資をしてくれる予定だったが、それも白紙に戻すと言われたぞ! ガルシア侯爵家に睨まれたら、これからどうすれば良いのだ。もう王都へは行けないし、わしの他の事業だってどうなることか・・・、すべてお前のせいだ。いや、違うな。すべてはモルフィーの娘のせいだ。何が心に決めた女性がいる、だ。お前はまだあの娘と付き合っていたのだな。許せん。」
バルケル伯爵の怒鳴り声は屋敷中に響いた。
バルケル伯爵の怒りは相当なもので、周りで見ている者は、伯爵がいったい何をしでかすかわからないと恐れをなすほどである。
ジェシカのことが心配になったフレデリックは、すぐにモルフィー家へと急いだ。しかし、すでに遅かった。
「お父様に絶対にあなたに会ってはいけないと言われました。あなたが来ても追い返せと・・・。それから、別の男性に嫁ぐように言われました。」
「ジェシー、そんなことはさせない。他の男に嫁ぐなんて絶対にダメだ。」
「嫁がなければ、借金を今すぐ返さないといけないのです。それに、もう、お相手は決まっているのです。隣の領地に住んでいる子爵様です。」
ジェシカは涙を流しながら諦めたように言う。
「どうしてそんなことが・・・。」
「バルケル伯爵様が以前から懇意にしていた子爵様で、お歳は五十歳、十年前に奥様を亡くしていらっしゃるそうです。」
「父が裏で手を回したのだな。だが、ジェシーが犠牲になることはない。」
ジェシカは涙を拭うこともせず、首を横に振る。
「お父様は、バルケル伯爵様からお金を受け取ってしまいました。結婚の支度金だと言って無理やりに渡されたそうです。もう、私は嫁ぐしかないのです。」
ぼろぼろと、とめどなく流れる涙でぐしょぐしょのジェシカを、フレデリックは力強く抱きしめた。
「だめだ、絶対に行かせない。ジェシー、逃げよう。僕と一緒にこの地を離れよう。」
「だめです。それはできません。あなたは領主様の後継者、将来は立派な領主様になるお方です。あなたが領主にならなければ、民が苦しむことになるのです。だから、逃げようなんて言わないで・・・。」
二人の言い争いは平行線のままであったが、ジェシカの父親の声が聞こえてきた。
ジェシカを呼んでいる。
「ああ、お父様が私を呼んでいるわ。あなたと会っていることがばれたら大変なことになります。だから、もう、行ってください。さようなら、フレディー」
ジェシカは背を向けて父親のもとに駆けて行った。
フレデリックは頭を抱えるしかなかった。
どうすれば良い?
どうすればジェシーを守れる?
ジェシーはああ言うけれど、もう逃げるしかないのではないか?
怒りに任せたバルケル伯爵の行動は早かった。フレッドとジェシカが会ったその二日後には結婚相手の子爵がジェシカを迎えに来るように仕向けた。
フレデリックにはゆっくり考える余裕などなかった。荷物を最小限にまとめ、ジェシカと一緒に逃げることしか考えられなかった。
今、会いに行けば、怪しまれるかもしれないと思ったフレデリックは、翌日、信頼できる侍従に頼んでジェシカに手紙を届けさせた。
『子爵が来るのは明日の昼になるはずだ。夜明けとともに迎えに行く。できるだけ遠くに逃げよう。』
手紙を受け取ったジェシカは涙を流した。
あれだけだめだと言ったのに・・・。
夜が明けるとフレディーが迎えに来る。
それならば、私ができることはただ一つだけ・・・。
夜が明ける前にジェシカは家を出た。見上げれば視線の先に、町に時間を知らせる時計塔がほの暗い空にそびえたっている。
ジェシカの父の稼業の一つに、時計塔の修理の仕事がある。
時計塔に向かうジェシカの手には時計塔の入り口のカギが握られている。足取りは重く、それでも一歩一歩と時計塔へと足を運ぶ。
持ってきた鍵で塔の入り口を開け、長い螺旋階段を上へ上へと昇って行く。
幼い頃、フレデリックと一緒に上ったときは、期待を胸にあんなに楽しく足取りが軽かったのに、今はもう、何も考えたくなかった。
ジェシカが最上階に着き外に出たときには、太陽が昇り始めていた。まぶしい夜明けの光が時計塔を照らしているが、まだ肌に刺す風は冷たい。
「夜明けだわ。もうすぐフレディーが迎えに来る・・・。ごめんなさい。私にはもうこれしかないの。私はフレディーの足かせになんて、なりなくない。あなたの未来を閉じたくないの・・・。フレディー、愛しているわ。今まで私のことを愛してくれて、ありがとう・・・。」
ジェシカは下に誰もいないのを確認すると、まだ冷たい宙に身を投じた・・・。
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