灰の嵐を渡る者
嵗
第1話 「運動の絶対法則」
カイは、自分がなぜ、どのようにして、この灰色の虚空に放り出されたのかを知らない。最後に覚えているのは、元の世界での息苦しい現実から目を逸らし続け、遂には病室の冷たい白い天井の下で「すべてをやり直したい」と、安易で身勝手な願いを吐き出したことだけだ。
その願いは、この世界で最も過酷な皮肉となって実現した。ここは、再出発を許さない。ただ、永遠の逃避だけを強いる場所だった。
彼の視界に広がるのは、上下の区別さえ曖昧な、絶え間なく蠢く灰の嵐(ハイラン)だ。粒子は粘度を帯び、冷たい砂のように肌に張り付く。光は薄い鉄板のように遮られ、全てが腐敗したモノトーンに沈んでいる。
そして、彼は、この世界の絶対法則を瞬時に理解させられた。
目の前で、一人の男が足をもつれさせ、空中の一点に停止した。それはほんの一秒にも満たない静止だった。男の顔に浮かんだのは、疲れ果てた者だけが知る一瞬の安堵。その安堵こそが、灰の招待状だった。
周囲の粒子が、まるで獰猛な餓鬼のように男の体へと集中し始める。皮膚、衣服、体毛、その構成物質の全てが、分子間の結合を無視され、内側から崩壊していく。痛みや叫び声はなかった。ただ、有機的な存在が、最も基本的な粒子へと静かに還元される、恐ろしい消滅の過程だけがあった。男は塵一つ残さず、空気と区別がつかなくなった。その場にあったのは、男がいたという記憶と、冷たい恐怖だけだ。
「止まるな。動け。静止は、死だ」
この単純な命令は、カイの脳裏に焼き付いた。思考よりも早く、身体が動きを求めた。肺は鉛のように重いが、動かさなければならない。一歩でも、一掻きでも、運動を継続しなければ、自分もまた、あの無名の男と同じ結末を迎える。この世界における生の定義は、「運動の継続」以外に何もなかった。
体力の限界が迫ったとき、彼は偶然、浮遊する硬質な皮とロープの塊、「滑空具(カッツェ)」を掴んだ。それを全身に固定すると、体は気流を捉え、わずかに浮揚した。それは奇跡ではなく、生存者が作り出した、死への抵抗の結晶だった。
滑空具に命を預け、数時間、流れに身を任せた末、彼は巨大な影を見た。
それは「浮遊獣(フュール・ティエ)」と呼ばれる、空の海を漂う生命体だった。巨大な背中は、灰に強い硬質な体毛で覆われ、人々はそれを足場とし、ロープと簡単なテントで、移動する集落を形成していた。集落全体が常に、風と獣の意思に従って、緩やかに、しかし確実に動き続けている。
カイは滑空具を使い、ロープにしがみつきながら、その集落の縁へとたどり着いた。
「新参者か。ラッキーだったな、俺たちの流れに乗れた」
そう声をかけてきたのは、細身だが鋼のように引き締まった女性、リナだった。彼女の視線は、決してカイの顔には留まらない。常に周囲の灰の渦とロープの振動を読み取り、次に体が取るべき最適な運動を計算している。彼女の目は、感情ではなく、純粋な計算のために存在しているようだった。
「ここは安住の地ではない。お前が望む『休息』も、この世界にはない。理解しろ」リナは簡潔に言った。「動くためのエネルギー、食料を確保しろ。それができなければ、我々はお前を切り捨てる」
この集落の生活は、想像を絶するものだった。
食料源は、浮遊獣の体毛に付着する、灰耐性を持つ昆虫「ハーダー」を狩ること。ハーダーは硬い甲殻を持つため、素手では砕けない。彼らは原始的な骨のナイフや石を使ってそれを叩き割る。しかし、ハーダーの絶対量は少なく、狩りは常に集落内のグループ間の熾烈な競争となる。
「競争で負けることは、緩やかな死だ」とリナは教えた。
彼女のグループは、流れを読む技術に優れていた。リナは、カイにロープの結び方、気流の読み方、そして何よりも「無駄な運動」を排除する方法を叩き込んだ。
「情けをかけるな。感情は体重を増やし、判断を鈍らせる。鈍りは、お前の運動を停滞させる。情けとは、灰への招待状だ。それをお前は学んだはずだ」
リナの冷酷さは、彼女自身の極度の恐怖の裏返しだとカイは直感した。彼女は、灰に飲まれるよりも、立ち止まること、つまり安堵や諦めといった人間的な感情に支配されることを恐れている。その恐怖が、彼女を冷徹な生存機械に変えていた。
最も恐ろしいのは、「睡眠」だった。
夜も昼もない灰嵐の中、人々は滑空具に体を預け、立ったまま、あるいはロープに吊られたまま、浅い微睡みに入る。それは脳が許す限界の休息であり、一秒でも深く眠れば、意識が運動の制御を放棄し、体は静止に向かい始める。
カイは何度も、眠気の波に襲われた。体が重力に従って弛緩しそうになるたび、彼は自らの皮膚をナイフで浅く切りつけ、その痛覚で意識を取り戻した。
「ああ、眠りたい。ただ、五分、足を止めていたい」
その願いは、元の世界での「逃避」の願いと全く同じ、甘い毒だった。彼は、逃避の果てに、永遠に逃げ続ける地獄を見つけたのだ。
集落の中にも、絶望は蔓延していた。時折、極度の疲労に耐えかねた者が、自らロープを解き、灰嵐の中へと身を投げる。彼らの顔は、苦痛ではなく、まるで長く続く責務から解放されたかのような、安堵に満ちていた。その表情こそが、カイに最も強い恐怖を与えた。それは、死が「休息」として誘惑してくる光景だったからだ。
ある時、リナのグループの一員が、狩りで負傷し、足を滑らせた。彼はロープにしがみついていたが、その動きは明らかに鈍重だった。
「リナ、助けてくれ!傷が、傷が動かない…」
リナは無表情で、その男のロープが獣の毛皮に結び付けられている結び目を、骨のナイフでゆっくりと切り裂いた。
「無駄だ。お前のエネルギーは、もうグループの重荷にしかならない」
男は、リナを恨むことも、命乞いをすることもせず、ただ「ああ…」と静かに息を吐き出し、灰嵐の中に消えた。リナは振り返り、ナイフについた獣の油を拭き取った。
「覚悟しろ。これが、この世界の共存の定義だ」
その出来事は、カイの倫理観を、根底から崩壊させた。彼はもう、善悪で物事を判断しなくなった。「動くか、灰になるか」。その二択しか存在しない世界で、倫理は無意味なノイズでしかなかった。
そして、試練の灰嵐、周期的な「灰の猛威」がやってきた。
嵐の粒子は普段の何倍もの速度で吹き荒れ、巨大な浮遊獣の背中さえも、脆い泥のように引き裂き始めた。獣の体毛が裂け、集落は分断された。人々はパニックに陥り、隣の安全な部位へと、命綱一本での綱渡りを始めた。
混乱の中で、ヴォルクという大柄な男が、その通路を塞いだ。彼は力と残虐さで知られるグループのリーダーだった。
「動けぬ者は、動く者の燃料だ。そこをどけ!貴様ら二人のハーダーは、全て俺が頂く」ヴォルクは、獲物を狙う獣のように貪欲な目をしていた。彼にとって、食料は権力であり、運動の絶対的な正義だった。
「ヴォルク、ここは皆の通路だ!」カイは叫んだが、ヴォルクは嘲笑した。
「通路だと?この世界にそんな概念はない!あるのは、運動と停止、そして生存だ!」
その時、後方から、一人の女が必死の形相で這い上がってきた。彼女は飢餓と疲労で限界を超えており、ヴォルクの足元にしがみつこうとした。
「助けて、水を、食料を…」
ヴォルクは、その女を一瞥し、そしてカイを見た。
「新参者、お前の倫理はもう灰になったはずだ。証明してみろ。この女を生かせば、貴様とリナの生存確率は下がる。貴様は、まだ、優しさという名の静止を選ぶのか?」
カイの心臓が、麻痺したように停止した。元の世界で逃げたかった選択の重圧が、今、再び彼の前に突きつけられている。だが、今度の選択は、彼自身の命と、共に動くリナの命がかかっている。優しさとは、裏切りだ。正義とは、死だ。
リナはカイの耳元で囁いた。「迷うな。ヴォルクに食料を奪われるよりも、お前の手で排除しろ。お前が動くためのエネルギーを、無駄な命に使うな」
カイは震える手で、リナが渡した骨のナイフを強く握りしめた。彼の脳裏には、老人の安堵の顔と、リナの冷徹な計算が交錯する。
「ごめん…」彼は、誰にも聞こえない声で、元の世界への別れを告げた。
カイはナイフを振り上げ、女が掴んでいたロープの、わずかな緩みに正確に突き立てた。ロープは硬く、切るのに一瞬の抵抗があったが、すぐに切断された。
女の瞳は、最後までカイを捉えていた。その目に宿っていたのは、恨みでも、怒りでもなく、やはり安堵と諦めだった。彼女は、もはや動き続ける地獄から解放されたのだ。
女は静かに灰嵐の中へ消えた。
ヴォルクは、満足げに笑い、通路を開けた。「合格だ。お前は、この世界の住人になった」
カイの全身を、強烈な吐き気と冷たい麻痺が襲った。彼は、食料を奪うどころか、人を殺した。だが、皮肉なことに、彼の心臓は強く脈打ち、体が運動を求めている。
彼は、自分の倫理観が完全に灰に飲まれたことを悟った。彼はもう、逃避者ではない。彼は、動き続ける地獄の、冷徹な住人となってしまったのだ。
この世界に希望などない。あるのは、次の瞬間も動き続けるための、残酷な選択と、そして果てしない疲労だけだ。
カイはリナに追従し、崩壊する集落から、次の浮遊獣へと飛び移った。ロープを握る手に、女のロープを切った時の感覚が、いつまでも残っていた。その感覚こそが、彼がまだ人間であったことの、最後の、そして最も恐ろしい証拠だった。
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