英雄たちの抗途歎路~荒街から始まる世界の旅~

月星 星那

終灰炉明

第1話 血染めの王冠

 腐臭と鉄の匂いが混じる路地裏で、少年は今日も生き延びていた。

 地面には人間の死体が転がり、壁際には薬物に溺れた者たちが虚ろな目で座り込んでいる。


 だが、少年は一瞥すらくれない。それは、見飽きた日常の風景だった。いつもと変わらない色のない世界。


「チッ、まだ来るのか……」


 怒鳴り声と荒々しい足音が、路地の奥から迫り、心臓が跳ねた。

 少年は素早く周囲を見渡し、身を隠せる場所を探していく。


 少年は建物の基礎に空いた穴へ滑り込んだ。

 そこは、暗く狭い空間で、息を潜めながら隠れると、誰にも見つかることはない場所だった。

 この街で生きるには、運と暴力と、少しの知恵が必要だ。どれか一つでも欠ければ、奪われて死ぬ。


 だから――奪われる前に奪うしかない。


 足音が近づき、影が目の前をよこぎる。剣を背負った男たちが目の前を通り過ぎた。


「兄貴、あのガキを見つけるなんて無理だ!」

「うるせェ!泣き言を言う暇があったら探せ!」


 怒声が路地に響き、薬物に沈んだ者たちすら顔を上げた。

 少年は穴の奥で息を殺し続ける。面倒だ。どうせ見つからない。

 そう思った瞬間、指先に冷たい空気が触れた。


 奥へ続く暗闇。人工ではない、自然に崩れた空洞。

 この街の下には、誰も知らない“もう一つの街”が眠っている――そんな噂を、少年は思い出した。


 少年はそれを、ただの都市伝説だと思っていた。

 だが今、目の前にあるこの穴は――その噂の入口かもしれない。

 もしそうなら、そこにはどれほどの価値がある物が眠っているのだろうか。


「……よし、行ってみるか」


 呟きながら、少年は身を縮めて奥へ進む。

 狭い通路は徐々に広がり、やがて石造りの階段へと繋がっていた。

 日光が届かないはずなのに、薄暗い光が壁を照らしている。

 そこには、絵があった。


 地面から延びる無数の手。

 十体の獣。

 空を漂う灰。

 海から現れる魚のような人間。

 そして――血に染まった王冠。


 少年は息を呑む。


「……なんだよ、これ」


 指先が壁に触れた瞬間、冷たい石が脈打った。

 心臓が跳ねる。


 その時、階段の奥から風が吹いた。

 湿った空気。鉄と血の匂い。


 扉が開いた音がする。


 少年は反射的に身を縮める。だが、すぐに顔を上げた。

 何かが、彼を呼んでいる。

 ゆっくりと階段を降りると、石造りの扉が半分、口を開けていた。


 その先に広がっていたのは、常識を裏切る光景だった。

 地下であるはずなのに、空間はドーム状に果てしなく広がり、天井は遥か上方、壁は視界の彼方に消えている。少年が降りてきた深さから考えれば、この広さはあり得ない。


 そして、そこにあったのは――巨大な黒い正方形の箱。

 異様なのは、その箱が一点だけで地面に接しているにもかかわらず、微動だにしないことだ。倒れる気配すらない。物理法則を嘲笑う存在だった。

 そして、視界に入った瞬間、少年の足は抗えぬ衝動に突き動かされる。


 一歩、踏み出した瞬間――頭の中に声が響いた。


 無数の人間の苦悶。泣き叫ぶ声、命乞いの声、呻き声。それらが渦を巻き、少年の意識を侵食する。

 スラムで生きてきた彼は苦しみの声に慣れているはずだった。しかし、これは違う。質が異なる。数えきれない魂の絶叫を一点に凝縮したような声だった。


 膝が崩れ、倒れそうになる。逃げたい――だが、箱の誘惑がそれを許さない。

 これは罠だ。近づけば苦しむと分かっている。それでも足は勝手に前へ進む。

 ふと、足元に白いものが目に入った。それは成人男性くらいの白骨死体だった。


 かつて、ここに辿り着いた誰かが、声に耐えられず倒れ、餓死したのだろう。その事実が少年の背筋を凍らせる。

 次は自分かもしれない――そう思った瞬間、足が鉛のように重くなる。


 しかし――


(ふざけるな。こんなくだらない死に方で、死んでたまるかよ!)


 少年は歯を食いしばり、震える膝に力を込めた。声はなおも頭を満たす。泣き叫び、呻き、命を乞う声が意識を塗り潰そうとする。それでも、彼は止まらない。


 生きてきて良かったと思えたことはない。だが、この矮小な命を繋いできた誇りはある。こんな場所で、こんなやり方で捨てるものか。


 一歩。

 また一歩。

 進むたび、声は激しさを増す。空気が震え、地面が軋む。それでも止まらない。

 ――俺は死なない。どんなことがあっても、必ず。

 少年の指が黒い箱に触れた瞬間――


 世界が沈黙した。


 音が消え、色が凍り、時間が止まる。

 次の刹那、箱は消え、血に染まった王冠が舞い降りる。

 

 そして、見た。

 壁画に刻まれた正体。

 荒野を歩く銀灰の髪の女。

 この世の理を逸脱した“何か”。

 見たことのない兵器の群れ。


 理解はできない。だが、確信だけが残る――これは、この大地の過去だ。かつてここで戦いがあり、すべてが滅んだ。

 王冠がゆっくりと落ちる。

 少年は無意識に手を伸ばした。

 理由は分からない。ただ、そうせずにはいられなかった。


 ――そして。


 『――次は、君なのね』


 背後から声がした。少年は反射的に振り返る。そこに立っていたのは、桃色の髪を揺らし、瞳に花の紋様を浮かべた女性だった。柔らかな雰囲気を纏い、敵意を抱くことさえできない存在。


『ごめんね。わたしたちのせいで、君たちまで苦しむことになった』

『しかも、これから待っているのは――想像を超える現実』

『本当なら、わたしたちで止められたはずだった。でも、わたしたちは星を託した』


 女性の声は淡々としているのに、胸の奥を抉るような重みがあった。


『恨んでもいい。できれば、その恨みはわたしだけに向けて。あの子のことは……できるなら、恨まないでほしい。でも、強制はしない』

『それでも、信じている。君が――君たちが、この星を守れると』

『だから、わたしのすべてをあなたに託す』

『未来へ進みなさい。あなた自身の意志で。わたしは、ずっと信じているから』


 次の瞬間、視界が揺れた。気づけば、少年は元の場所に立っていた。過去の風景も、女性の姿も消えている。


 ただ――王冠だけが残っていた。少年の手に握られ、その赤い輝きがゆっくりと体内へと溶け込んでいく。止めようとしても、指一本動かせなかった。


 ――――――――――――――――――――――――――――

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 これからも英雄たちの抗途歎路こうとたんろ、その歩みをどうぞ見届けてください

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