第26話 : 家に帰った瞬間、あやの世界は恋人モードに切り替わる

 翌朝。

 校門をくぐった瞬間、あやの胸はまるで自分の意思とは関係なく暴れだした。

 冬の冷たい空気が頬をかすめても、内側から湧き上がる熱はまったく引かない。


(……だめ……まだ落ち着かない……)


 昨日のことを思い返すだけで、胸の奥がふわりと浮き上がるように熱くなる。

 恋人。

 あの安藤ゆうとと、公式に、確かに、恋人になってしまった。


 嬉しい。

 嬉しいのに──


(顔を見たら……無理……絶対に無理……)


 昇降口へ向かう足取りは不自然に速い。

 視線は常に下向きで、誰かと目が合うことすら怖かった。


 教室が近づくにつれ、鼓動はさらに上がる。

 それは“逃げたい揺れ”ではなく、

 “近づきたいのに近づけない揺れ”だった。


 そして教室前の廊下で、視界の端にゆうとの姿が映った。


 それだけで、あやの体はビクッと反応する。


 黒髪。

 歩くリズム。

 友人と話すときの少し照れたような笑顔。

 一晩経っても、そのひとつひとつが胸の奥をかき乱す。


(近い……無理……でも、でも、恋人……だし……)


 矛盾を抱えたまま立ち止まってしまったあやの目に、ふいにゆうとの視線が触れた。


 彼も気づき、控えめに笑おうとした──その瞬間。


「っ……!」


 あやは反射的に視線をそらし、俯いてしまう。

 頬が一瞬で熱を帯び、呼吸が浅くなる。


(む、無理……! 顔……見られない……!)


 昨日はあんなに勇気を出せたのに、

 恋人になった途端、胸の緊張は倍増していた。


 ゆうとは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに気づいたように表情を和らげた。

 しかしあやは気まずさに耐えられず、そのまま教室に逃げ込むしかなかった。



 午前中の授業。

 あやは教科書を開いているものの、目は文字を追っていなかった。


(どうして……どうしてこんなに……緊張するの……?)


 恋人になれば、昨日より自然に話せると思っていた。

 距離が近くなるはずだった。

 でも現実は逆だった。


 ゆうとと目が合うたび、

 胸が跳ね、視線をそらし、俯き、息が詰まり、

 つい避けるような行動になってしまう。


(だめ……避けちゃ……だめ……)


 心の中で繰り返すのに、体が言うことを聞かない。


 ──休み時間。

 あやが机の端で筆箱を整えていると、柔らかい影がふっと近づいた。


「黒羽さん、大丈夫?」


 ほのかだった。

 優しい声色なのに、表情には明らかな心配が滲んでいる。


「……ほ、ほのかさん……?」


「なんかさ、今日の黒羽さん……距離伸びてない?」


 あやはびくっと肩を震わせた。

 図星すぎて、顔の熱が一気に上がる。


「ち、ちが……その……」


 言い訳を探すが、頭は真っ白でひとつも出てこない。


ほのかはあやの視線の動き、落ち着かない指先、浅い呼吸を見て

 すべてを察したように小さくため息をついた。


「……もしかして、緊張しすぎてる?」


「~~~~っ」


 あやは目をぎゅっと閉じ、両手を胸の前でぎこちなく握った。


「……ち、近いと……無理……です……」


 最後の一文字が消えてしまいそうなほど小さな声だった。

 ほのかは思わず笑いそうになったが、すぐ真剣な表情に戻る。


「そっか……恋人になったからって、いきなり慣れるわけじゃないんだね」


「……はい……ふつうに話したいのに……顔が……見られない……」


 あやの小さな震えを見つめながら、

 ほのかは“黒羽あや”という人間を改めて理解していく。



 午後になっても、あやの様子は変わらなかった。

 ゆうとと廊下ですれ違うたび、あやは一瞬固まり、

 そのあと必ず俯いてしまう。


 ただの恥ずかしさだけではない。

 恋人になったことで、彼の存在が“触れたら壊れてしまいそうなほど大切”になってしまったのだ。


(だって……安藤くん……恋人だし……わたし……)


 自分でも理由はよく分からない。

 ただ、この胸の揺れに耐えきれない。


 授業の休み時間、あやはノートを抱えながら廊下の端に立っていた。

 窓の外では冬の風が枝を揺らし、光が淡く反射している。


 その静けさのなかで、あやは胸に手を当てた。


(近づきたい……話したい……でも、今のままじゃ……目を合わせるだけで息が止まる……)


 自分がどれだけ不器用なのか、痛いほど分かる。


 そのとき──

 ふと廊下の向こうにゆうとの姿が見えた。


 あやは反射的に壁の影へ隠れる。


(む、無理……! でも……隠れたくない……)


 矛盾した感情が胸で暴れ、息がうまく吸えなかった。

 自分でも可笑しいほど混乱していた。


 恋人になったのに、

 昨日より近づけない。


 それは、あやにとって最初の“大きな壁”だった。


 だが──

 その壁を越える方法を、あやはまだ知らなかった。

 ただ、胸の奥で小さく震えながら、それでもゆうとのことを考え続けていた。


(……どうしよう……わたし……好きなのに……近づけない……)


 その震えは、恋人関係の始まりとしてはあまりに不器用で、

 けれど誰よりも純粋な、あやだけの揺れだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る