第3話

 そういう訳で俺は壁を越えた。尾行はなさそうだった。

 俺が勤める第四十四管区下水処理場は六つの地域の中央にあり、当該地域は下水処理場の南西に位置していた。もちろんそれぞれの地域は壁で区切られており行き来はできない。管理しやすいよう知能指数によって住む地域が指定され、当該地域は最も知能指数が低い地域だった。そういう地域はCRIは高く出る傾向にある。先を予見する知能がないから反乱分子が多いのだ。そして手遅れになってはじめて自分たちの愚かさを知る。

 壁を超えて十分くらい歩いたところで俺は胃の中の酒をぜんぶ吐いた。

 鼻腔の奥を突き刺すひどい臭いだった。ちょうど季節が梅雨であったため、暑さによって糞便が発酵しそれを雨が薄く延ばして周囲は異臭を放つ巨大なビーフシチューの海のようだった。数歩歩いただけで靴が茶色く滲んだ。下水処理場もたいがい臭ったがそれとは比較にもならなかった。歩くごとに蝿がまとわりついてうざったいことこの上なかった。

 だが不思議なものでもう二十分もすると慣れてきて、ハンカチで口の辺りを覆っておけば一応は酒を流し込めるくらいには胃は落ち着いた。

 目指していたのは壁の最も近くにある下水道マンホールで、勤労者バスを待っても良かったが別段歩けない距離ではなかった。

 頭上では監視ドローンが俺を発見しついてきていた。中央に動画データを送っているのだろう。壁を超えて視察を行う旨は届け出ていたが、こう注目されるとさすがに怪しまれているのではないかと気が気でない。

 当該マンホールの前に男がしゃがみこんでいた。自由外出時間であったため拘束対象ではないはずだが、タイミングがタイミングなだけに明らかに怪しかった。上空でドローンが俺の行動を監視している。声をかけない訳にはいかない。

「おい」

 声をかけると男は肩を震わせた。四十代くらい。おそらく武器は持っていない。

「なんだ、驚かすな」動揺を隠すように言う。男は上空に目をやったのを見逃さない。ドローンによる撮影を気にしているのだ。

「貴様そこで何をしていた」俺は問うた。

「下水処理場から来ている。ただの下水管調査だ」

 笑っちゃうような嘘だった。それらしき作業服は着ていたが当然俺の目はごまかせない。なぜなら俺が本物だから。

「何がおかしい」

 実際に笑っちゃってたらしい。

「別に。それより中に入るなら早くしたらどうだ。撮影されると都合が悪いんじゃないか。俺も中に用事があるんだ」

 男は無言だった。自分のことを怪しんでいる体制側であろう人間が、どうして自分を泳がすか考えている。

「言われなくてもそうする」男は答えるとマンホールの蓋を開けて中へ降りていった。俺もあとに続いた。マンホール型の丸い空の向こうで監視ドローンが去っていくのが見えた。

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