PARTICLE VIOLENCE OBAMBULATE
緋西 皐
2025/11/28 12:10
高校三年生の文化祭が終わっても、廊下側隅の席は空白のままだった。私は高校に入ってからずっとあの席と同じクラスであるが、それが埋まったのを見たことがない。クラスメイトの誰もあの席を気にしたことも無いだろう。とにかく机と椅子がそこに置いてあって、座られることも無く、ぶつかることもない、そこに置いてあるだけだ。私があれに興味を持ち始めたのも、ついに今更であり、特に意味もない。
あの席が誰かの席のように思えるのはたしかに三年間、机の上に一冊の文庫本のようなものが置いてあったからだ。私は何度か、その中身を捲ってみたが、全てのページが真っ白だった。私がそこにこの席の住人の人生を覗いた気分になったのは、まさしく透明人間を体現したような一冊だったからだ。
きっと明日、あの席が無くなっても私たちは知らないままであろう。無意味という言葉より意味の無い、存在しない現象がそこに起こっただけになるだろう。私はこの数分後、あの席のことを忘れ、いつもの高校生活に戻るだろう。あの席はそういうものなのだ。ただこの瞬間、私は虚無とは違った悲しさを抱いた。どうしてだろうか。
拙い日常が続く。進学校は大学を至上とし、やや推薦に疎いようである。どことなく授業中も、今まで騒いでいた元気な男の子も眠ったふりになって儚げだ。私は彼らを悉く邪険に思っていたが、こうしてみれば単に教師の質が悪かったのだと実感する。教科書朗読劇は外空の色彩に飲み込まれるだけだった。
こういった昼時は空腹も相まって、どこか虚しくなる。この授業に意味がない。されど学歴は未だ健在であるように思われる。ならば人生に何の意味があるのかと、そう自分に投げかけたとき、大概興奮しないようになったところから、まるで意味がないと知れる。大学に行ってもこのような退屈が続くのならば地獄で鬼と戯れたくもなる。最も現代ラノベはその逆を貫く有様なので、どうしようもない。この人気もこの授業のように空虚なのだろうか。
クラスメイトの中には奨学金を払ってまで学歴に夢を見るものもいる。どうせ払うのだからと国立も東京か京都を志しているらしい。大阪は一番嫌だとのことだ。私はもちろん彼の努力を、今も熱心に内職する彼を尊敬するが、一年生のときよりその態度なので好まない。青春を天秤にかけた自爆的な思想はその先に何があるのか、学歴以外何もない人間になるのもまた虚無だと想像してしまう。この前の文化祭は特にそう思えた。
そのような心持ちなので私の進路は適当だった。野望も夢もなく、かといって社会の歯車になる決心もない。とにかくこの虚無の川に流るままである。政治家やロックバンドは夢を持てというが、私にとっては授業中の陽キャのそれと同じに聞こえた。それでいてこの風流たる空景色を容認しない姿勢は人間的によろしくないと悟っていた。
こうなると所詮私もあの席の住人と同じなようだ。およそ平凡な私でさえそうなのだからほとんどそうだろう。かといって人間的によろしくなければというのも、過ぎ去れば空虚だろう。若いうちだけなのだ、そういうのは。人生はつまらないものだと証明されてしまったようだ。
小ウィンドウを開ける。最も親しまれている長方形及び重くも軽い物だ。昼休みは退屈しのぎ、暴れる者、笑う者、勉学に励む者、図書に耽る者、そしてスマホを眺める者、、ほとんど一様である。私もそのごとくスマホを眺めるが、最近は真っ赤なのと黒いのを反復横跳びするくらいで、これもこれで暇である。かといって飽き飽きしたゲームをしても時間が消し飛び疲れるので嫌だった。相対性は甚だファンタジーじみているが、ゲームをすれば音楽をすればすぐに無くなる時間はまさに夢のようにありようがない。たまにこれが仕事だったらと考えると怖くなる。単に虚無である以上に疲れるのだから。
私が人気というものを拒むのはあの陽キャが痛々しいからだ。彼らは今日も今日とて派手に走り回るが、それが必死に演じているようにしか映らない。彼らはきっとドラマ俳優に向いているのだろう、橋本環奈と結婚したいというが、それも夢ではないだろう。しかし彼らが一人きりになった瞬間をまちまちに見ると、これほど面白いものもない。ギャップが人を魅力的にするというが、舞台裏の平凡な男ほど心擽られるものもない。彼らが一番嫌う姿がそこにあって、決して逃れられないのは、彼らの掲げるふざけた精神論がいかに軟弱であるかを証明している。そこに人間の本質が映るに思える。彼らは間違ったことをしている実感があり、抜け出せず、悔いている。およそ嫌われている。それでもなお劣等感の為に高揚して誤魔化す様は、まさしく人生の正体を露わにしているようだった。私はさらにそれを知らず、暴れまわる彼らを嫌う姿、そのエセ賢者を見ると、お前とそいつは同じだぞと言うのだ。エセ賢者は彼らを馬鹿だと笑い、それで高揚し、陰では彼らと同じく劣等感を抱えているのだから。むしろ劣等感ゆえに凶器じみて批判する様は、彼らより強がって見えて、、悦である。エセ賢者ほど差別するなと善人ぶるが、この有様だ。
私はたまに昼休みに職員室に行く。そこにはもちろん担任がいるわけだが、およそ人間じみていた。教師は古く、崇拝の対象じみていた。年上を敬えと傲慢な態度をとっていたが、忙しそうにプリントの採点をしながら安い弁当を食うので、格好がつかない。仲にはそれを崇高と忙しさを誇る大人もいるが、では実際に私たちが求める崇高さはそこにあるかといえば、その期待に沿っているかといえば、違うと思われる。我慢強い爺はいるだろうが、大半の教師は爺が説教するとき、時代遅れと顔に出ていた。
学校というのはもはや勉強以上に意味を無くし、それ以上に意味を無くている。勉強にしても技能はそこになく、教師にしても経験がない。私はそこにいる大人を見ると、とても敬えない。平等の精神ゆえか、過労ゆえか、彼らはもう胸を張らず、夢も校訓ほど語らない。私は幼き頃、教師を万物を知る賢者と敬っていたが(大人は大概、神のごとく怒鳴っていたため)、中学生のときに担任が奥さんに逃げられ、その次の担任は生徒からの期待に泣いたとき、私はもう大人が単に都合よいだけだとわかった。およそ教師は自分が万能であるように見せていたが、か弱い、大人であるからか、余計にか弱い人種に見えた。彼らが唱える正論は、常識論でしかなく、都合の話でしかない。これにいち早く気付いた子供が、常識に弾圧されていた夢を蘇生して、大人に抗うのである。だから彼らは授業を嫌うし、教師の悪口を言う。しかしそうすればするほどに教師が崇高であるべきと言っているように見えて、それこそ、、夢ではなかろうか。人間は大した生き物ではないのだ、結局は。
私たちは美しいものを妬み、好む。かといって醜いものがその逆とは限らない。美しいものとは先ほどの理想的な教師像や、それの唱える将来、あるいはSNSの有名人の日常、夢、などだ。そのほとんどが嘘であり、だからこそ話題になるは先ほどの通りである。ならばその逆はどうか。これも裏切られた美においては、先ほどの通りである。しかし排他された者、いじめとなると少し理解が異なる。そこから消え去ってほしい存在はより純粋に歪み好まれている。
劣等感の象徴とは貧相で孤独な人間だ。人間は社交性を重視する生命なので、孤独を嫌い、貧相は資本主義の大敵なだけでなく、その精神が貧弱であるように演出する。集団がこれを肯定すると、集団自殺になりかねない、本能的な恐怖が刺激してあれを排除しようとする。されど、されど、私はその現象に興奮する。どうして排除したい存在があれほど目立つのか、美しさの逆は醜さにしても、あれほど人気ならば単に逆ではない。醜さのイデアとはまさしく美のイデアに含まれる。とさえ、私はああいうのを見て思う、すると少し羨ましくもなる。彼らは見方によっては夢の象徴なのだ。美しさが生の夢ならば、醜さは死の夢、あるいはより生命的な夢だ。
ああそうである。あの席である。あの透明の席の住人はまさしく醜い。不登校とは学校社会の一つのバッドエンドだ。学校にいながら、いないが、学校を糾弾する存在だ。私も、陽キャも、教師でさえ、その存在を忌む、恐れる。なぜなら透明の住人こそが、我々の存在意義を否定しているのだ。学校に来なくてもいい、一つの社会が不要であると。こう考えれば、これほどに濃い透明があろうか。それでいて私たちは透明人間に太刀打ちできない。存在しないものをどう攻撃するというのか。
無の実存ほど恐ろしいものは無い。しかしこうなると恐怖や醜さはあっても、神秘は失われたように思える。あの席が意味を持つというのは、あの席自身の否定なのだ。色がついてしまいかねない。私はそれを嫌う。あの席はつねに透明でなくてはならない。完全な透明を肯定しなければならず、濃厚な人生を否定してもいけない。触れてはならないのだ。水が色に触れたとき、吸ってしまうように、あの神秘は人生に触れてはならない。人生に意味がないという象徴でなければならない。私はどこかそういう気持ちになった。
今日、現代文の教師が三島を扱った。彼は人間精神を崇高だと訴えたそうだ。それに比べてと、太宰を批判した。堕落など許されないと。爺らしい。
私はそれで興味が出て太宰に触れた。太宰はライトノベルだと思った。不思議な感覚だ。
彼らはどちらも虚無を扱っているように思う。虚無を越えるのか、塗り替えるのか。よく人は太宰は虚無を肯定しているというが、ここで塗り替えると云ったのは、欲望で虚無を凌ごうとしていると私は読んだからだ。虚無に耐えられないから堕落へ向かう。いや、もっと感覚的なものと言っていい、あの席の透明が虚無と言うのであれば、堕落は同様ではない。それは精神を存在と定義したときの批判であっても、色があるから虚無ではない。そういう感覚だ。
ここに至って私はあの虚無こそが人の本質なのではないかと信じ始めた。というのはどの説教も何かを批判し、批判も文化と時代が異なれば別の形になるように、変わりゆく。人の論に普遍性がないのであれば、人の感情であるだけで善悪が定義できない。無意味が発生する。それをどうにか否定したり、塗り替えたりする。少年漫画は悉く前者であり、現代ラノベは悉く後者である。されどそれは虚無の肯定ではない。なぜ私たちは虚無を肯定できないのかといえば、それが私たち自身の否定だからだ。意味無き死の肯定だからだ。しかしあの席はどうだ。肯定も否定もしない。あるがままの姿をしている。あそこには何もない。机と椅子だけがある。あるだけで、私たちはそれに感想を持つが、それは個の認識であって、社会の認識であって、自然はそれに意味をつけない。あれはまさしく教室のあるがままなのだ。自然は認識に寄らず、そこに必ずある。認識に、人の論に、依存しない。普遍なのだ。私たちはあの席にどういった認識を持とうが、あの席はそこにあり、それがゆえにそこにない。まるで鏡のように、あるいはプリズムのように、私たちの認識という光を集め、それを返してくる。混ざり合った肯定否定は相殺し、何色でもない虚無を返してきている。そのような現象だ。
人間は虚無に浸るべきだ。虚無こそが存在だからだ。私たちはどう足掻いても虚無を消し去れない。消し去れなかった。夢を追っても恋を追っても高揚するだけで、過ぎればまたやってくる。野心は虚無から逃れられないのだ。ああ、だから私は虚無でいいのだ。あの空白の小説のように。誰にも見られないあの席の住人のように。
であるはずなのに、ここに来て私は穏やかなものに邪魔されている。虚無は冷たい。あの席のように、あの陰のように、冷たい。しかしどうだ、窓際の日光は温かい。その奥にある田園は和む。平和過ぎている。虚無は自然ではないというように。
愛。よくそれは情欲と言われるが、それとは違う、自然たる愛だ。あの席の逆というのか。虚無の対義語は愛なのか。それでいて愛も虚無と同様に存在じみている気がしている。誰がどう足掻いてもこの温かさは否定できない、普遍だ。
私はそこに真の虚無が見えた。愛か虚無かと天秤にかけて、どちらも取るべきではない、その状態が人の正体ではないか。
やめにしよう。つまらない話だ。私は愛を信じていない。ただ愛が現れたとき、虚無の寒さに凍えてしまって、かといって愛の薬物的な妖艶に染まるのも気に入らないとなって、その間を望もうとしただけだ。こんなことを思考しても、およそ私の未来も、この教室の風景も変わらない。
そうして私は虚無になった。
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