浮気相手が実は俺の上司だったので、合法的に人生を終わらせることにした

@flameflame

第一話 証拠を集めながら、普段通りを演じるのは意外と簡単だった

金曜日の午後三時。クライアントとのアポイントが急遽キャンセルになり、俺は予定より早く帰宅することになった。営業企画部で働き始めて五年。こんな風に早く帰れる日なんて、年に数回あるかないかだ。


璃音に連絡しようかと思ったが、やめた。サプライズで早く帰って、一緒に夕飯でも作ろう。最近は仕事が忙しくて、ちゃんと二人の時間が取れていなかったから。


マンションのエレベーターに乗り、七階のボタンを押す。半年前から璃音と一緒に住み始めたこの部屋。交際三年目にして、ようやく同棲を始めた。璃音は最初、少し不安そうだったけど、今では「帰ってきたら蒼汰がいるの、嬉しい」なんて言ってくれる。


エレベーターが七階に着く。廊下を歩いて、部屋の前に立つ。鍵を取り出してドアノブに差し込もうとした、その時だった。


ドアの向こうから、璃音の声が聞こえてきた。


「ねえ、もう少しゆっくりしていきなよ」


誰かと話している。来客か。でも、璃音は今日、誰か来るなんて言ってなかったはずだ。


そして、次に聞こえてきたのは、男の声だった。


「そうだな。まだ時間はあるし」


その声に、俺の手が止まる。聞き覚えがある。いや、毎日のように聞いている声だ。


神崎課長。


俺の直属の上司、神崎壮一郎の声だった。


なんで、神崎課長が俺の家にいるんだ。


頭が真っ白になる。理解が追いつかない。いや、理解したくない。


リビングから、璃音の笑い声が聞こえる。いつもより少し甘えた声。俺に向ける声とは、明らかに違う。


「ねえ、次はいつ会える?」


「来週の水曜はどうだ?」


「水曜...蒼汰、その日は遅いって言ってたから大丈夫かも」


俺の名前が出た瞬間、全身が凍りついた。


手が震える。鍵を持つ手が、小刻みに震えている。


このままドアを開けたら、何が起こる。璃音と神崎課長が、リビングで二人きりでいるところを見ることになる。


そして、何もかもが終わる。


俺は、そっと鍵をポケットにしまう。踵を返して、静かに廊下を歩く。エレベーターに乗り、一階まで降りる。


外に出ると、初夏の日差しが眩しかった。


足が勝手に動いて、近くのコンビニに入る。冷蔵庫から缶コーヒーを取り出し、レジで会計を済ませる。店員の「ありがとうございました」という声が、遠くから聞こえる気がした。


マンションの近くに小さな公園がある。そこのベンチに座り込んで、缶コーヒーのプルタブを開ける。


「なんで...なんで神崎課長なんだよ...」


声が震えている。目頭が熱い。


神崎壮一郎。三十五歳。俺の三つ上の直属の上司。営業企画部の課長で、社内では優秀だと評価されている。結婚していて、確か子供もいたはず。


そんな男が、俺の恋人と。


怒りが込み上げてくる。今すぐ部屋に戻って、ドアを蹴破って、神崎の顔面を殴りつけてやりたい。璃音を問い詰めて、全部吐かせてやりたい。


でも、それで何が変わる。


神崎は謝罪して、会社を辞めるかもしれない。璃音は泣いて謝って、許しを乞うだろう。


それで終わりか。


それだけで、俺の気が済むのか。


缶コーヒーを一気に飲み干す。苦い。喉が焼けるように熱い。


深呼吸をする。一回、二回、三回。


少しずつ、頭が冷静になっていく。


感情的に動いても意味がない。今、部屋に戻って修羅場を起こしても、璃音と神崎が一時的に困るだけだ。そんなんじゃ足りない。


徹底的に、完膚なきまでに、人生を終わらせてやる。


二人とも、地獄を見ればいい。


俺は立ち上がり、空き缶をゴミ箱に捨てる。そしてマンションに戻る。


エレベーターで七階に上がり、部屋の前に立つ。もう一度、耳を澄ませる。


中は静かだ。もう神崎は帰ったのかもしれない。


鍵を開けて、ドアを開ける。


「ただいま」


いつも通りの声で言う。


「あ、おかえり!早いね、今日」


璃音がリビングから顔を出す。いつもの笑顔。何事もなかったような、普通の笑顔。


「アポイントがキャンセルになってさ」


「そうなんだ。じゃあ、早めに夕飯作ろうか」


「うん、ありがとう」


俺も笑顔を作る。いつも通りの、何でもない笑顔。


璃音はキッチンに向かう。俺はリビングに入り、ソファに座る。


部屋の中を見回す。テーブルの上に、コーヒーカップが二つ。


璃音は紅茶派だ。コーヒーは飲まない。


ということは、このカップの片方は、神崎のものだ。


俺はスマホを取り出し、時計を確認する。三時二十分。あの時、部屋の前で聞いた会話から、まだ二十分しか経っていない。


たった二十分で、俺の世界は変わった。


その夜、俺は眠れなかった。


璃音は隣で、気持ちよさそうに寝息を立てている。


布団の中で、涙が止まらなくなる。声を出さないように、必死に堪える。枕を濡らしながら、ただ泣き続けた。


なんで。どうして。俺の何がいけなかった。


璃音を大切にしてきたつもりだった。仕事が忙しくても、できるだけ時間を作って、一緒に過ごすようにしていた。


それでも足りなかったのか。


それとも、俺じゃダメだったのか。


答えは出ない。ただ、涙だけが溢れ続ける。


朝になって、トイレで鏡を見る。目が赤く腫れている。


水で顔を洗う。冷たい水が、腫れた目に沁みる。


もう一度、鏡を見る。


「...泣くのは今日までだ」


自分に言い聞かせる。


もう泣かない。感情に流されない。


冷静に、計画的に、完璧に。


二人を地獄に叩き落とす。


月曜日。いつも通り出勤する。


神崎課長は、いつも通り部下たちに指示を出している。俺を見ると、にこやかに笑いかけてくる。


「柊、おはよう。週末はゆっくりできたか?」


「おはようございます。はい、ゆっくりできました」


俺も笑顔で返す。内心は怒りで煮えたぎっているが、表面上はいつもの部下を演じる。


この二重生活が、これから始まる。


昼休み、俺はスマホでAmazonを開く。小型カメラを検索する。できるだけ小さくて、目立たないもの。Wi-Fi接続で、外から映像を確認できるタイプ。


三つ注文する。リビング、寝室、玄関。これで十分だろう。


さらに、ボイスレコーダーも注文する。


次に、探偵事務所のサイトをいくつか見る。でも、料金が高い。浮気調査で五十万円から百万円。今の俺の貯金では厳しい。


それに、探偵に頼んだら証拠は手に入るが、それだけだ。


俺がやりたいのは、ただ浮気の証拠を掴むことじゃない。


神崎を、社会的に抹殺することだ。


だったら、自分でやるしかない。


翌日、注文した機材が届く。璃音が仕事に出かけた後、俺は有給を取って家に残る。


小型カメラを設置する。リビングの本棚の隙間、寝室のクローゼットの上、玄関の靴箱の上。どれも目立たない場所に、慎重に設置していく。


スマホのアプリで接続を確認する。問題なく映像が映る。


これで、璃音と神崎の行動を全て記録できる。


さらに、璃音のスマホの位置情報を確認する方法を調べる。Googleのファミリーリンクを使えば、お互いの位置情報を共有できる。


その夜、璃音に提案する。


「ねえ、璃音。お互いの位置情報、共有しない?」


「え、なんで?」


「いや、何かあった時に便利かなと思って。地震とかあったら、すぐに確認できるし」


璃音は少し考えて、頷いた。


「そうだね。じゃあ、設定しよっか」


璃音は何の疑いもなく、位置情報の共有を許可してくれた。


これで、璃音がどこにいるのか、いつでも確認できる。


水曜日。璃音が「今日は飲み会だから遅くなる」と言って出かけた。


俺はスマホで璃音の位置情報を確認する。


璃音がいるのは、彼女の会社ではなく、都内のホテル街だった。


カメラの映像を確認する。午後六時、璃音が帰宅して着替えている。いつもよりちょっと派手な服。


そして午後七時、玄関のチャイムが鳴る。


神崎が映る。


璃音は笑顔で神崎を迎え入れる。二人はすぐに出かけていく。


俺は、その映像を全て保存する。


日付、時刻、場所。全てをスプレッドシートに記録していく。


これが証拠になる。


会社では、神崎の行動を観察し始める。


神崎は昼休みによくスマホをいじっている。恐らく、璃音とLINEをしているのだろう。


時々、誰かと電話で話している。声を潜めて、何か相談しているような口調だ。


そして、経費の申請書類を見る機会があった。


神崎の経費申請。飲食費が異様に多い。しかも、参加者の名前が曖昧なものがいくつかある。


これは使える。


金曜日の昼休み、同僚の早瀬が話しかけてきた。


「なあ柊、聞いたか?神崎課長、また経費で変なことしてるらしいぜ」


俺は弁当を食べながら、何気ない顔で聞き返す。


「え、どういうことですか?」


「いや、詳しくは知らないけど、経理の人がぼやいてたんだよ。課長の経費申請、明らかに私的な飲食が混ざってるって」


「そうなんですか」


「まあ、上の人間ってそういうもんだろ。俺たちには関係ないけどさ」


早瀬はそう言って笑うが、俺の頭の中では、計画が形になり始めていた。


不正経費。これは、神崎を潰す材料になる。


その日の午後、俺は人事部の田所に声をかけた。田所とは入社同期で、時々飲みに行く仲だ。


「田所、ちょっといいか?」


「おう、どうした柊。珍しいな」


俺たちは給湯室に移動する。誰もいないことを確認してから、俺は切り出した。


「内部通報制度って、具体的にどういう手続きなんだ?」


田所は少し驚いた顔をした。


「内部通報?急にどうした?」


「いや、ちょっと気になることがあってさ。もし不正を見つけたら、どう報告すればいいのかなと思って」


田所は真面目な顔になって、説明してくれた。


「内部通報は、専用のメールアドレスか、人事部に直接連絡する形だな。匿名でも受け付けてる。通報があったら、必ず調査が入る。証拠があれば、確実にな」


「匿名でも大丈夫なのか?」


「ああ。通報者の情報は厳重に保護される。報復人事も禁止されてる。だから、安心して通報できるぞ」


「なるほど。ありがとう」


「おい、まさか何か見つけたのか?」


田所が心配そうに聞いてくる。


「いや、まだ何も。ただ、もしもの時のために知っておきたかっただけだ」


「そうか。まあ、何かあったら相談してくれよ」


「ああ、ありがとう」


俺は田所と別れて、自分のデスクに戻る。


内部通報制度。匿名で通報できて、証拠があれば必ず調査される。


完璧だ。


それから二週間、俺は証拠を集め続けた。


璃音のスマホを、寝ている間にチェックする。パスコードは、俺の誕生日だ。璃音は、まさか俺がスマホを見ているとは思っていない。


神崎とのLINEのやり取り。スクリーンショットを撮って、自分のスマホに送る。


『今日も綺麗だったよ』


『また会いたいな』


『次はいつ会える?』


璃音の返信も保存する。


『ありがとう。私も会いたい』


『来週の金曜日は?』


『蒼汰には内緒だよ』


一つ一つ、丁寧に保存していく。


カメラの映像も、全て保存する。神崎が家に来た日時、二人が出かけた時刻、帰ってきた時刻。


璃音の位置情報の履歴も、スクリーンショットで保存する。


そして、会社では神崎の不正経費の証拠を集める。


経理部の知り合いに、さりげなく神崎の経費申請書類のコピーを見せてもらう。


「これ、明らかにおかしいですよね」


「そうなんだよ。でも、課長だからさ、誰も指摘できないんだよな」


「匿名で通報したら、調査されますかね?」


「証拠があれば、絶対にな」


俺は経費申請書類の写真を撮る。日付、金額、用途、全て記録する。


神崎が会社の経費で、璃音とホテルに行っている記録も見つけた。領収書の日付と、璃音の位置情報の日付が一致している。


完璧だ。


さらに、社内の女性社員に話を聞く。神崎の評判を探るためだ。


「神崎課長って、どんな人ですか?」


「ああ...まあ、仕事はできるけど、ちょっとね...」


「ちょっと?」


「女性社員への接し方が、ちょっと...気持ち悪いっていうか」


「具体的には?」


「距離が近いんだよね。肩とか触ってくるし。あと、飲み会で二人きりになろうとしてくる」


これも記録する。セクハラ、パワハラ。全部、神崎を潰す材料になる。


ある夜、璃音が寝た後、俺は一人でリビングに座る。


スマホの中には、璃音と神崎の証拠が大量に保存されている。


写真、動画、LINE、位置情報、経費の記録。


全てが揃った。


俺は静かに笑う。悲しみと怒りが混ざった、複雑な笑いだ。


「もう少しだ。もう少しで、全部終わらせられる」


璃音は隣の部屋で、安らかに眠っている。


何も知らずに。


俺がこれから何をするのか、まだ気づいていない。


でも、もうすぐだ。


もうすぐ、全てが崩れ落ちる。


月曜日。会社で、俺は神崎に普通に接する。


「おはようございます、課長」


「おう、柊。今日の会議資料、もう準備できてるか?」


「はい、もう完成してます」


「さすがだな。頼りにしてるぞ」


神崎は俺の肩を叩いて、笑う。


俺も笑顔で返す。


内心では、神崎の顔面を殴りつけたい衝動を必死に抑えている。


トイレに行って、個室に入る。壁に手をつく。


深呼吸をする。


怒りが込み上げてくる。壁を殴りたい。叫びたい。


でも、それは我慢する。


感情的になったら、全てが台無しになる。


冷静に。計画的に。完璧に。


俺は個室から出て、鏡の前に立つ。顔を洗って、髪を整える。


鏡の中の自分は、いつもの柊蒼汰だ。


誰も、俺の内側で何が起きているのか、気づかない。


その夜、璃音が「明日、ちょっと遅くなる」と言った。


「また飲み会?」


「うん、久しぶりに同期で集まるの」


嘘だ。


璃音の会社の同期は、三人しかいない。そして、そのうち二人は既に退職している。


璃音は、明日も神崎と会うつもりだ。


「そうなんだ。気をつけてね」


「うん、ありがとう」


璃音は笑顔で頷く。


俺も笑顔で返す。


もう、カウントダウンは始まっている。


全てが、もうすぐ終わる。

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