第17章:母の願い
まだ雪が残る、ボストンの高級病院。
静寂に包まれた病室の扉を開け、晶子は中に入った。
母は、いつものように穏やかな顔で、
ゆっくりと椅子に腰掛けていた。
「晶子、そこに座ってくれる?今からあなたに、
大切な話があるの」
晶子は、母の横にそっと腰を下ろした。
母は優しい声で言った。
「晶子、今までありがとう。もうすぐ、私はお父さんの
ところへ行くと思うの」
晶子は思わず声を上げた。
「お母さん、そんなこと言わないで……!」
母は静かに微笑んだ。
「いいのよ。私はわかっているから。
最後に、あなたにお願いがあるの」
沢井はうなずいた。
晶子は母の目をじっと見つめた。
その瞳の奥には、母親としての深い愛情と、
何かを伝えようとする強い意志が宿っていた。
「あなたは、ずっと私とお父さんに付き添って、
色々なことを手伝ってくれたわね。
本当に幸せだった。あなたのような優しい娘に恵まれて…」
「でもね、私…ずっと胸の奥に引っかかっていたの。
私たちのせいで、あなたの人生を邪魔して
しまったんじゃないかって」
「そんなことないよ、お母さん。私は、
二人のそばにいたくて、手伝いたくて
…だからアメリカに来たんだよ」
母は頷いた。
「それもわかっている。でも…あなたの本当の人生、
ちゃんと歩めているのか、私はずっと気になっていたの」
「あなた、高校最後の年、とても楽しそうだった。
日を追うごとに綺麗になっていって、私の娘が大人に
なっていくのを見ているのが嬉しかった」
「いつか、あなたが彼を連れてきて、
『この人が私の恋人なの』
って紹介してくれるのかなって楽しみにしていた」
「でも…その後、どうしてか、あなたは私たちと
一緒にアメリカに来るって言ってくれた」
母は、少し寂しそうに目を伏せた。
お父さんは喜んでいた。
でも私は、少しだけ胸が痛かった。
「あなたがこっちに来てからは、毎日私たちの
仕事を手伝って、自分の時間なんてほとんど
とらなかった。何かを忘れるように」
「あなたは私たちを心配させないように
してくれていたけど、ずっと、何かを待っている、
そんな気がしていた」
「アメリカの男性には見向きもせず、ずっと一人でいたのは、
高校時代の人を忘れられなかったからなのでしょう?」
母は、晶子の胸元に視線を向け、ふっと微笑んだ。
「あなたの胸に、今も下がっている、その小さな
ペンダント。高校の終わりから、ずっと大事に
していること、私は知っているの」
「恋愛も、夢も、日本に置き忘れてきたのね」
母は、最後の力を振り絞るようにして言った。
「私の最後の願いはね…あなたが、あなたの人生を、
自分らしく、まっすぐに歩いていくこと」
「誰のためでもなく、自分のために生きるって、約束して」
「その人、多分高校時代の同級生、が今どうなっているか、
私にもわからない。知るのが怖いのもわかる」
「でも、新たなあなたの人生を始めるには、
置きわすれてきた恋愛や夢に決着をつける必要があるの」
「私の大事な晶子。
きっと大丈夫。私とお父さんが、ずっとで見守っているから」
そう言って、母は静かに椅子を立ち、ベッドへと戻った。
布団をかけ、横になった母は、静かに目を閉じた。
数日後、春一番がボストンに吹く頃、晶子の母は
眠るように天に召された。
母親の葬儀と会社の引き継ぎでしばらく忙しくしていたが、
遺影をベッドに飾っている時、
「頑張って日本に行ってらっしゃい」
と語りかけられた気がした。
晶子は日本に一時帰国することを心に決めた。
松岡が今どこにいるのか、調べる手立てもない。
何か手掛かりはないかと宝塚高校のホーム
ページを開くと、
「祝 宝塚高校創立七十年記念 合同大同窓会」の
文字が目に飛び込んできた。
あと数日で、その大同窓会が開かれるようだ。
「私、これにかけてみる」
晶子はそう決心し、すぐに宝塚ホテルの
予約を取り、飛行機のチケットを手配した。
「お母さん、行ってくるね」
と、ボストンを後にしたのは、まだ春浅い、
同窓会の二日前であった。
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