第15章:卒業式にて

桜の蕾が膨らみ始めた卒業式の朝、

松岡は早めに登校し、顧問室を訪れた。


扉をノックすると、愛瀬の声が聞こえてくる。

「松岡か、入れ」


部屋に入ると、愛瀬は嬉しそうに微笑んだ。

「希望通りの一般入試での大学合格、おめでとう。

本校始まって以来の筑波大学合格だ」

「高校選手権の予選は県内ベスト4で、本戦には届かなかったが、

これも過去最高成績だ」

「両方とも職員、生徒で大変な話題だった。先生も嬉しかったぞ」


松岡は深々とお辞儀をした。

「ありがとうございます。愛瀬先生には3年間、

サッカーだけでなく、人生のことも教えていただきました。

心より感謝しています」


愛瀬は松岡の肩をポンと叩いた。

「胸を張って次のステージに進むんだ。お前なら大丈夫だ」

「ただ、卒業式は今日の午後だが、気が早いな」


「多分、先生も僕も時間が取れないと思い、朝早く伺いました。

本当にありがとうございました」


松岡が部屋を出ると、入れ替わるように小林が待っていた。

「しっちゃんも愛瀬先生に挨拶に来ていたんだ。

私も由紀江先生と愛瀬先生に挨拶に来たの」


小林は松岡に微笑みかけた。

「ちょっと待っていてくれる? しっちゃんと話がしたいの」


「うん、わかったよ」


しばらくして、小林が部屋から出てきた。

「お待たせ。裏のベンチで少し話さない?」


二人は校舎裏のベンチに向かった。

座ると、小林が真っ直ぐに松岡を見つめる。

「しっちゃん、大学合格おめでとう。私は来週から

東京のビジネススクールに通うことになるの。

しばらく会えなくなるね」


松岡は明るく答える。

「ミッチも入学おめでとう。お互い、次のステージで頑張ろうな」


急に小林は姿勢を正し、まっすぐ松岡を見つめて言った。

「松岡くん。長い間、私を支えてくれて、本当にありがとう」

「陰になり日向になり、いつも助けてくれてすごく嬉しかった」

「中学から支えてくれた、あなたが卒業後には、そばにいない」

「あなたがいなくても、もう心配いらないよ、一人で大丈夫だから」


彼女は少し言葉を区切り

「初めてで、照れちゃうけど」


「今日、高校を卒業します。あなたのおかげでシュートからも

卒業できました」

そして

「私はあなたからも卒業します。…長い間、ありがとう」


松岡は不思議そうに、

「僕からの卒業って?」

と尋ねた。


小林はいつもの口調に戻し、笑いながら答える。

「もう、しっちゃん。言わせないでよ。

私ね、実は最近のしっちゃんが『大好き』だったの。

気づかなかったでしょ。でも、しっちゃんの心の中には、

もう沢井さんがいるって気づいていた。

だから、諦めるの。卒業するの!」


そして、真剣な眼差しで

「しっちゃんは、人に対して優しすぎるのがいいところ。

でも、自分のこともっと大事にして。お願い」


そう言い残し、

「じゃあ、卒業式でね」

と、小走りに去っていった。

小林の爽やかな香りが、そこにそっと残されていた。


一方、沢井は卒業式までの時間を惜しむように、

校庭を散策していた。

松岡との思い出が多い資料室の前で立ち止まり、

寂しげに部屋に入った。


突然、ドアが開き、西村が険しい表情で入ってくる。

沢井が声をかける前に、西村はきっぱりと言い放った。

「松岡くんが約束を守ったから、私も約束を守る」

「あなたのことはどうでもいいだけど、高校卒業まであなたと親しくしない

前提で、いじめをやめるって約束だったから」

そう言い残し、足早に去っていった。


西村の言葉に、沢井の胸は締め付けられる。

(松岡くんが、私のために……!)

沢井は、今すぐにでも松岡に会って、

自分の気持ちを伝えたいと強く思った。


体育館での卒業式が終わり、生徒たちの会話が校庭に広がった。

松岡の周りには、いつものように人だかりができていた。


沢井は少し離れた場所からその様子を見ていた。

両親の都合で、卒業式後すぐにアメリカへ発つことになっていた。

このままでは、松岡と二人きりで話す機会はないかもしれない。


彼女はそっと、下駄箱にメモを残した。

“いつもの資料室で待っています”


その頃、松岡は人に囲まれながらも、心ここにあらずだった。

西村を見かけ、静かに尋ねた。

「…もう、行っていいよな?」


西村は目もみずに答えた。

「あんな約束守っていたんだ。馬鹿みたい。早く行ってよ」


その言葉に背を押されるように、

松岡は人混みをかき分けて沢井を探し始めた。

教室も、廊下も、校庭も――どこにも沢井の姿は見つからなかった。


焦りながら下駄箱に視線を落とすと、

そこに見慣れた手書きのメモが置かれていた。

“いつもの資料室で待っています”


急いで資料室へ駆け込むが、沢井の姿はもうなかった。


机の上には、丁寧に整理されたアルバムと、

その横に手作りのラッピングがされた小さなプレゼントが

置かれているだけだった。

アルバムを開くと、中には一枚の写真が挟まれていた。

それは、以前沢井が「小林さんの写真があるから、私のはいいよ」

と言って載せなかった、彼女自身の写真だった。

なぜ、この写真をおいていったのか。手に取ると、裏にはこう書かれていた。


「いつか、また会えたら

…その時は “沢井さん”じゃなくて、名前で呼んでね」


時間切れだった。すれ違ったのは、ほんの数分の差。

それでも、その数分が、二人の距離を遠く離すことになることを、

松岡はまだ知らなかった。


沢井が下駄箱に置いたメモは、一度、小林の手にあった。


愛瀬に挨拶にいったとき、

「卒業生は『部活の靴』をよく持って帰るのを忘れるんだ。

後で手間になるから、見ておいてくれ」

と頼まれていたのだ。


サッカー部の下駄箱を見に行った時、

春の風でバタバタと開閉する下駄箱のそばに、

小さな紙切れを見つけた。

その紙片に目を通した小林は、何も言わずそっと元の場所に戻していた。

「あの二人がどうなるかは…運命の神様が決めること。

私にはもう、どうすることもできない。

しっちゃん、神様を逃さないで」

小林は心の中でそう呟いていた。


西村は卒業式には出なかった。

「私が悪いんじゃない」

と呟きながら、

一人校舎を去る彼女の後ろに、桜の吹雪が舞い降りていた。

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