【桐生陽菜の恋の唄】旋律のない恋の唄シリーズ
金子ダイスケ
第1話 自然の恵み
朝の鴨屋駅界隈は、まだシャッターの降りた店が多くて、静かな空気が漂っていた。
高校2年生の高瀬優真は、団地の三階から階段を降り、裏手の狭い小道を抜けてアーケード商店街へ出る。
青果店と肉屋の間を通り抜けると、甘いフルーツの匂いが鼻をくすぐった。
その青果店『きりゅう青果』の前で、水を撒いていたポニーテールが「あ……お、おはよう、優真先輩!」と、パッと顔を上げた。
制服の上にエプロンを付けてホースを握り、少し水が足元にかかっても全く気にすることもなく駆け寄ってくる。
優真
「あ、おはよう。陽菜」
桐生陽菜。きりゅう青果の一人娘で、優真とは幼馴染みの間柄。
陽菜(靴が濡れてることに慌てながら)
「ちょ、ちょっと待って! 一緒に……って、べ、別に優真先輩のこと、待ってたわけじゃないんだからね!?」
駅へ向う優真の背中に元気な声を投げかける頬は少し赤く、ポニーテールにした黒髪は朝陽にきらめいていた。
── ── ──
ホースの水を止め、エプロンを店の中に放り込み、優真の前に躍り出た陽菜に優真は相変わらず元気だなと肩をすくめた。
優真
「陸上部の朝練、今朝はなかったんだな?」
昔から陽菜ってこんな感じだよなぁ、と思いながら、優真は唇を尖らせる赤い耳を見て苦笑い。
陽菜
「う、うん、まぁね。
だから、こうして……。
って、べ、別に優真先輩と一緒に行きたいとか思ってないんだからね!?
たまたまなんだから……!」
信号が青になると、陽菜は少し早足で歩き出す。でも歩幅はちゃんと優真に合わせて。
彼の半歩前を歩きながら、時々チラチラと見ながら。
鴨屋駅へ向かう道の途中で、彼女は急に小さな声で呟いた。
陽菜
「……ねえ、優真先輩。
最近、なんか……私、変かな?」
立ち止まって、カーディガンの裾をぎゅっと握りしめている。さっきより耳が赤い。
優真はつい、いつもの調子で口を開いた。
「最近? 陽菜は昔から変――」
言いかけて、睨む陽菜の目にたじろぐ。
視線が泳ぎ、ついカーディガンの起伏に吸い寄せられてしまう。
「へ、変じゃないよ。全然。
むしろ自然?
自然の恵みをいっぱいに受けた、
みたいな?
うん。だから変じゃないと思うぞ?」
瞬間、陽菜の顔の赤さが爆発した。
両手でカーディガンの前を強く押さえ、身体を半歩後ろに引く。
陽菜
「なっ?!自然の恵みって……!
優真先輩、最低!!
どこ見て言ってるの!?
変態!
エロ優真!!」
その目は涙で潤んでいる。
陽菜
「べ、別に……
そんなに見られたって嬉しくないし!
全然気にしてないし!
……ううっ……」
最後は声が震え、肩を小刻みに上下させていた。
優真は慌てて駆け寄る。
陽菜
「あんまり気にするなよな」
膨れながら薄っすら涙を浮かべる陽菜に、そっと呟いた。
陽菜
「昔っから気にしてること『気にしてない』って陽菜が言うの、僕は知ってるからさ」
陽菜の肩がびくっと震えた。
陽菜
「……うるさいよ、優真先輩……!
知ってるって、なに……?
昔のことなんて、
もう関係ないし……!」
でも、もう逃げようとはしない。
陽菜
「……だって、胸が……
急に大きくなっちゃって……」
ほとんど吐息のような声だった。
陽菜
「走ると揺れるの、痛いし……
みんな見てくるし……
中学までは県大会出られたのに、
今は全然記録伸びなくて……
スポーツブラ何枚重ねてもダメで……
もう、陸上やめたいって
思う日もある……」
涙がぽろぽろとこぼれる。
陽菜
「……優真先輩に……
こんなこと、言いたくなかったのに……
バカみたい……」
涙目で優真を見上げた。
陽菜
「べ、別に……慰めてほしいとかじゃないからね……!」
でもその瞳は、はっきり「そばにいて」と訴えていた。
そして真っ直ぐ前を見て歩き出す。
陽菜を妹みたいだと思っているからなのか。優真には何が正解なのか分からなかったから。
── ── ──
石南駅から学校までの道。
気まずい沈黙の後、陽菜がぽつりと呟いた。
陽菜
「……優真先輩って、
本当に鈍感だよね」
校門が見えてきたところで、陽菜は立ち止まった。
陽菜(小さな声で)
「私……陸上、やめたくないの。
……優真先輩なら、
ちゃんと見てくれる……よね?
私のこと、ちゃんと……」
優真は昔から気付いてはいた。
陽菜からの好意を。
でも、自分の中では、彼女は幼なじみで、ひとつ年下の、妹みたいな存在。
だから、つい、悪ノリで言ってしまった。
優真(努めて明るく)
「……僕にとっては昔から陽菜は……陽菜だよ」
そう言ってから、「今のよく育った胸も含めてね」と。
背後で、陽菜の声が凍りついた。
陽菜(わなわなと肩を震わせながら)
「今の……よく、育った
胸も含めて……?
……うそ、でしょ……?」
そして――
陽菜(大きく息を吸い込んでから)
「優真先輩のバカぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
泣き叫ぶ声が朝の校庭に響いた。
振り返ると、陽菜は両手で顔を覆ってしゃがみ込んでいる。周りの生徒たちが驚いて振り返る。優真が立ち尽くすうちに、涙でぐちゃぐちゃの顔を隠して女子棟へ全力で逃げていった。
チャイムが鳴る。優真は溜息をついた「最悪だ……僕は……」と。
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