第3話

 レイジの研究棟は、街の中心に近いはずだった。だが、近づくほどに、距離の概念がぐにゃりと歪む。最短距離を歩くつもりで進んでいるのに、風景だけが先に到着してしまい、私は置いていかれる。

 ビルの壁面には、昨日はなかった綻びが走っていた。 蜘蛛の巣にも似たその裂け目から、とろりと光が漏れている。光なのに冷たく、昼なのに夜の気配を孕んだ、この街特有の存在の内側から滲み出る光。

 通りの端では、誰かがひっそりと泣いていた。泣き声だけがあり、身体はない。声が地面を這うように震え、道路のひび割れから淡い蒸気のように立ちのぼっている。私は足を止めた。声の正体など確かめる必要はない。この街では、先に消えた感情が、後から音だけを残す。そんなことは珍しくない。

 研究棟は、旧市庁舎のビルを転用したものだ。近づくと、建物の壁に刻まれた市庁舎の文字が、 ゆっくりと別の語へ変形していくのが見えた。死庁舎、詩庁舎、視庁舎、どれが本来のものなのか分からない。おそらく、本来などもう存在しない。

 エレベーターは死んでいた。代わりに階段を登る。階段は時折、私の足首を舐めるように揺れた。四階に着くと、扉のない研究室があった。薄い霧が漂い、薬品の匂いはしない。ただ、雪の落ちる匂いがする。

「よう、ユナ。」

 声は室内の奥から響いた。レイジは、以前より細くなっていた。骨と皮の間にあったはずのものが、ところどころ抜け落ちたような姿だった。だが目だけは、以前よりも澄んでいる。 澄んでいる、というより、空洞の底に光が反射しているだけのような、無機質な輝き。

「来ると思ってたよ。」

 と彼は言った。

「……どうして?」

「死の雪を口にしたろう?」

 私は言葉を失った。そんなこと、誰に話したわけでもない。だがレイジは、私の沈黙を肯定だと受け取って続ける。

「味、なかっただろ?」

「……ない。ただ、溶ける感じだけがあった。」

「それが反応だよ。お前はもう、街に半分取り込まれてる。」

「取り込まれて……?」

 レイジは机の上に広げた資料を示した。紙は波打ち、文字は半分消えている。読もうとすると、文字が別の文字へ変化していく。レイジは指差して言った。

「死の雪は、死体でも天候でもねえ。街の記憶片なんだ。都市の深層が崩れた時に、外側へ溢れ出す。」

「街の……記憶?」

「ミール区は、二十年前に一度死んでる。その時、都市の構造は生き残ったが、本来あるべき住民の記憶が全部、内部に沈んだ。死の雪は、それが地表へ漏れてきた現象だ。」

 私は、理解しきれない話を理解しようと試みる。だが、理解より先に、世界のほうが私に寄ってきた。

「記憶が雪として降る……?じゃあ、触れるとどうなるの?」

「吸われる。混ざる。溶ける。人間と街の境界が曖昧になり、どちらの記憶も形を保てなくなる。」

「私があの雪を食べたのは……。」

「境界の浸食を加速させた。いいか、ユナ。あれは自然現象じゃない。街が自分を保てなくなると、住民へ還元しようとするんだ」

「還元……?」

「つまり、街がもう一度生まれ直すために、住んでいる人々を素材として均質化しようとする。お前はその工程に巻き込まれた。」

 私は身震いした。しかし恐怖ではなく、妙な納得があった。確かに、この街は常に再生の痛みを抱えている。溶け、揺らぎ、ひしゃげ、生まれそこなっている。それを私が食べたのなら、私の輪郭が揺らぎ始めるのも当然だった。

「ユナ、お前最近、影の子供を見ただろ?」

 私は息を呑む。

「ミオのこと……知ってるの?」

「知ってるさ。あれは街がこぼした神経の断片だ。存在の綻びが子供の姿を取ることが多い。理由は……たぶん単純だよ。」

「……単純?」

「新しいものは、いつだって子供の姿で現れる。街は、自分の生まれ直しを“あれ”に託してる。」

 レイジは深く息を吐く。ただ、その吐息はまるで街の裂け目から漏れる音のようで、人間の呼吸には聞こえなかった。

「ユナ。お前はもう後戻りできない。昨日の記憶が薄れてるだろう?それは始まりにすぎない。雪を食った者は、いずれ街の中身と同化する。その過程が溶けるという現象だ。」

 私は視界の端がふっと揺らいだ。レイジの顔が二つに分かれ、それぞれ微妙に違う表情をしていた。

「……レイジ?あなた、少し……ずれてない?」

「気づいたか。 俺は今、二人分だ。街に引き伸ばされた俺と、元いた俺。そのどちらも俺で、どちらも違う。」

 彼の声も、左右の時間軸でわずかにずれて響く。溶けているのは私だけではない。この街に長くいる者は、みな形が二重化し始める。

「ユナ。もしお前が自分を保ちたいなら、中心へ行け。街の最深部……“核”がある場所だ。そこだけが、溶けきる前のミール区の記憶を持っている。」

「核……?」

「ああ。 ただし気をつけろ。お前を呼んでいるのは、街そのものだ。善意ではない。再生するための材料として、お前の形を欲しがってる。」

 私は言葉を失った。核へ行くことは、救いと同時に死を意味する。

「選ぶのは、お前だ。」

とレイジは言った。

「自分を保つか、街に溶けるか。どちらを選んでも、この街では正しい。」

 彼の顔がまた揺れる。輪郭が滲み、二つの時間軸が重なったり離れたりする。そのとき。廊下から、雪の落ちる音がした。まだ外は晴れているというのに。

 振り向くと、研究室の入り口にミオが立っていた。今は輪郭が鮮明だ。むしろ、レイジよりも人の形をしている。

「ユナ。」

 ミオは静かに微笑む。

「そろそろ本当の場所に行こっか。」

 背後で、レイジが低く呟く。

「……来ちまったか、ユナ、気をつけろ。あれは誘導体だ。街の核へ人間を連れていくための存在だ。」

 ミオは首をかしげる。

「違うよ。ただ、ユナが呼んだから来ただけ。」

 ミオの瞳は深い。そこには雪の反射も、街の揺らぎもない。底の見えない透明な無だけがある。

「行きたいところに行くだけだよ、ユナ。溶ける前にね。」

 私は自分の鼓動が、街のざわめきと同期していることに気づいた。溶けたい。でも、溶けたくない。境界が痛む。ミオが手を差し出す。その手は影なのに、温もりがあった。

「来て。」

 私は、一歩、踏み出した。

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死の降る街 知世 @chise_012

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