死の降る街

知世

第1話

 夜は、もう夜としての形を保てなくなっていた。空はひしゃげ、色も温度も霧散し、ただ死の雪だけが確かな重力のように落ちてくる。 

 私は傘を差さない。差す意味がないことを、とうに理解してしまったからだ。 雪片が髪に触れる。じわり、と視界の端が別の色を滲ませる。赤でも青でも白でもない、かつて記憶と呼ばれていたものの名残のような色。

 ひとつ落ちるたびに、私は少しだけ別の私へと滑っていく。昨日の私と今日の私は、溶け残った境界線で辛うじて接しているだけだ。風が吹けば、簡単に離ればなれになれる。

 街を歩く人々は、もう人々の形をしていない。歩幅がずれ、影が身体から何歩も遅れてついてきている。生の顔と死の顔が層のように重なり、剥がれ落ち、互いに混じりながら。しかし誰も気に留めていない。

 この街では、崩れることが日常であり、保たれることのほうが、むしろ異常なのだ。 私はふと、浮かべるように口を開く。死の雪を受け入れるように舌を差し出す。冷たさはなく、味もない。ただ、輪郭がひとすじ、ほどける。

 境界のゆるむ音がする。きし、きし、と引き伸ばされる世界の皮膚の音。自分なのか雪なのか、区別できない速度で、私は溶け始める。

 街の奥から、腐った果実のような甘い匂いが漂ってくる。建物の角が融けて垂れ、道路の線が海のように波打っている。この街は、死に至る途中の甘さを纏い、ゆっくりと、生前の形を手放していく。

「死ぬんじゃない。」

 私は呟く。これは誰に向けた言葉だったのか、もうわからない。

「……溶けたいだけだ。この世界と同じ速度で。」

 答える者はいない。街は返事を持たない。ただ、ひっそりと降り積もる雪だけが私に触れ、まだ残っている私を静かに侵していく。

 遠く、揺れる影が私を見ていた。人の形のようで、子供のようで、しかし輪郭が曖昧すぎて判断できない。

 そいつは、雪の降る闇の中で、私のほうへ向かって微笑んだ気がした。 世界が崩れ落ちる気配は、もう当たり前になっている。この夜は、その日々の延長にすぎない。はずだった。

 だが、この夜から、私は知ることになる。溶けるという行為が、ただの終わりではないことを。そこに、街の意思とも呼べる深い歪みが潜んでいることを。

 雪が、またひとつ落ちる。私の内側で何かが軋む。

 そして、最初の境界が静かに崩れた。

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