Last Rey/Ancient Fate

蒼山とうま

雪、静かに降る刻

第1話 裂けた領域

 まだ人類が、旧石器時代中期を迎えていた36万年前から存在する冥界。その地に6万年前から生きていた冥王ハデスは、その膨大な力を振るうことで死界を支配し、ゼウスの兄として末弟である彼を支え、その存在は永遠に存在し続けるかのように思われていた。しかし、その死は静かに、だが確実に訪れた。

 暗闇に包まれた冥界の王宮の中で、ハデスはひときわ冷徹な眼差しで、最後の瞬間を迎えようとしていた。

 衰弱した彼の周りには、命を失う者たちの無数の声が響き渡り、冥界の空気は重く圧し掛かるような息を呑んだ静寂に包まれていた。たとえ神であっても、寿命という概念からは逃れることはできないのが運命。命ある者たちの終着点であった。

 死の淵に直面しているハデスは、日を重ねるごとに衰弱し食べ物も水も喉を通らなくなってゆく。召使いが粥を食わせようとしても、戻してしまうほどであった。

 ハデスの脳内では、自分が経験したかつての記憶が色鮮やかに蘇る。クロノスに飲み込まれた時のこと、弟のゼウスやポセイドンとくじ引きで支配する領域を決めた日のこと、隠れ兜を持ち、クロノスと対峙する弟ゼウスを手助けした日のこと。

 知らぬうちに埃をかぶっていた、ハデスが“楽しい”と感じてきた日々の数々が一瞬のうちに舞い戻って来ているのを感じ、ゼウスはふと目を閉じる。

「私は、何のために生きたのか…?」

 自分に自問してみる。

 答えの見つからない6万と少しの命だったが、弟たちと激動の神々の時代を生きられたことを、両親にただただ感謝するが、その胸の内は嬉しさと共に、悲しみやここまで生きてきた意味を見つけ出せなかった自分への怒りの感情もあった。

 彼は息を切らしながら手を震わせ、顔の前に持ってきて、その手のひらを見つめた。周りには、ハデスを支えてきた悪魔や冥霊たちがこぞって彼の姿を見て泣き崩れている。

 特に可愛がってきた腹心たちは、こんなことがあってたまるものか、というやるせない気持ちが顔に現れていた。

「泣くな───それでも、この冥界の秩序を担う、冥霊か?」

 開かない口を、何とかして開けてみる。空気だけが喉を伝り、カスカスに枯れた喉で声を出すハデスは、さながら衰弱して死に絶える人間のようであった。

「この…冥界、の未来を…担うのは…」

 細々と、冥王に相応しくない弱い声を震わせながら無意識に伸ばされた手は、重力に引っ張られるようにとこの脇に落ち、ハデスはついに6万年の生涯を終えた。

「ハデス様!?」

「冥王様ッ!」

 1人の従者が前のめりになりながら反射的に彼の名前を呼ぶ。しかしながら彼がその声に答えることは二度となかった。

 前グレータリア暦697年、西暦にして紀元前12万496年。冥王ハデスはその長すぎる人生───いや、ここはと言うべきだろうか。何れにせよ、その長きに渡る統治と命は静かに幕を下ろしたことだけは、確かであった。

 それが、冥界に衝撃を走らせたことは言うまでもない。彼の心臓が永遠の静寂へと移行するその瞬間、空間がひずみ、着実に彼の築き上げた冥界の法則が崩壊し始めた。生死の均衡が崩れ去る、あの忌忌ゆゆしき戦争の始まりである。

 ハデスは後継者を告げる前に息絶えてしまい、遺言状も見当たらなかった。いや、正確にはたしかにのだが、何者かによって灰燼と化された。それゆえに遺言はない、指名者もいない。無い無い尽しの冥界はトップを決めなければ、この冥界という死の帝国は回ることは無い。

 後継者が決まらないという事態に陥った時、ハデスの後継者と名を挙げた者が一人。彼の名はギルガメッシュである。ウルクの王であり、その死後は冥界神としてハデスの腹心の一角を担っていた男であった。彼ならば、ハデスの跡継ぎに相応しい。冥界の住民たちは誰もがそう考えた───が、そこに待ったをかけた者が現れた。ソロモン72柱の一柱ブエルや偽りを司る神プセウドス、ケルト神話の最高神ダグザ、そして何かとギルガメッシュと同じバビロニア神話における冥界神エレシュキガルなど、実に160を超える冥界の有力者たちである。

 彼らは口々に我こそがと名乗りを上げた者たちは、互いに「奴は冥王にふさわしくない!」と叫び、とうとう冥王の地位を手に入れるために相争う寸前まで迫りきていた。

 冥王の死とそれを発端とする後継問題。このふたつの事実を知った冥界の住民たちは、恐れと困惑の表情を浮かべる。無論、それは爆発寸前の火薬庫の蓋の上に座っているからに他ならない。言うなれば、第一次大戦前のバルカン情勢を風刺したかの絵のような状況である。

 各神々や魔人たちはそれぞれ軍を組織し、武力による地位掌握を目指す。それゆえに冥界は無秩序に荒れ狂い、かつての支配者の死がもたらした混乱の兆しが広がっていった。

 冥界の空は暗藍色あんらんしょくから暗い赤黒色へと変わり、摩耗する大地が見られるようになった。そしてついに、その日が来てしまった。

 ギルガメッシュ陣営約30万人と、悪魔ハヴェーロス陣営約28万がコラステイズ盆地にて軍事衝突を起こし、戦いとなったのだ。

 このコラステイズの戦いを機に、各地に点在していた冥界の有力者であるエレシュキガルやソロモン、ブエル、ダグザらが冥王の神座かむくらを巡り冥界における100年、人間界の時間においては1万2500年続く戦争の火蓋が切って落とされた。冥界に住まう者、そしてそれに隣接する領域国家アストラントでは、それを冥界百年戦争と呼称した。

 160を超える陣営の魔神や悪魔、冥霊らは冥界の覇権を勝ち取るためにどんな手段だって選ばない。まさに鬼の所業。夜討ちは当たり前で陣営の大将たちは共々に憎み合い、騙し合い、そして殺し合った。

 ハデスの死から85年後の前グレータリア暦912年、各陣営は吸収を続けて、ついにギルガメッシュ、エレシュキガル、ブエル、パイモン、ソロモン、プセウドス、ベルゼブブ、ダグザ、サタン、バロール、イブリース、天魔、そしてロキの13大陣営まで減った。うちギルガメッシュ、エレシュキガル、ダグザにおいては勢力の拡大が著しく、ハデスの後継者に近い者と言われるようになった。

 いつしか冥界の空は砕け、その地は割れ、不毛の大地となった冥界はいつしか死界と呼ばれるようになり、ハデスの後継者争いも、100年の節目を迎えた年にようやく終わりを迎えた。

 あの者が現れ、時代は変わりだす。

 世界の覇権を握ったかの者により、全ては変わった。変わってしまった。

 死という概念はそのバランスを崩し、崩壊していった。

 

   * * *

 

 冥王ハデスの死とそれに伴う後継者争いは、臨界のアストラントでも衝撃的な出来事であり現実性のない現実として、アストラントの民たちはその話で持ち切りだった。

 「ハデスは冥王の座を狙う何者かに毒殺された」や「ハデスが寿命によって死んだのは嘘で、本当は冥界の火山脈に封印された」などの流言飛語も飛び交う始末であった。しかし、確かなのは冥王ハデスの死と不毛と化した冥界、そして途中参戦した上に、13大陣営をたった3年(冥界時間での)で全滅させ掌握を握った現死界王よる戦争の集結という冥界で起こった一大事の数々。

 それら一連の出来事に危機感を覚えた統制者オーソリティルウィ・アクランドは、直ちに冥界との境界警備の第一人者であり、事実上の軍総司令にあたるタクティクスのイシスケロスと、アストラント内と人間界に守霊を派遣する人事大臣オプティマスのバ・アタイを召集した。

「イシスケロス、ただ今参った」

「バ・アタイこれに」

 ルウィはアストラントが死界に飲まれる可能性があることを彼らに示した。その可能性は半分を超えており、このまま何もしない場合、死界によってアストラントは全ての土地と魔詛まそを失うことになると言う未来を予知した。

 魔詛とは、簡単に言えばアストラントに多く存在する燃料であり、冥霊や守霊、そしてアストラント・冥界の住人らのエネルギーとなる存在。これを保有するアストラントは、言わばアラブの産油国に近い国家であった。

 統制者オーソリティの宮殿の王座の間で3人で話している最中、一人の門兵が飛び入って着た。

「報告!ただ今、死界の使者を名乗る者が城門に!如何なさいますか?」

「直ちに追い返せ!」

 イシスケロスは激しく高揚しながら門兵に怒鳴りつける。それに対し、ルウィは静かに「分かった。通せ、くれぐれも失礼のないように」と言い放つ。驚きを隠しきれないイシスケロスはルウィの方を見つめる。

「しかし統制者オーソリティ…!」

 イシスケロスは言葉を詰まらせる。死界の者をここに通せばどうなるか。彼の頭の中では死界に服従するよう迫る内容の文書を寄越したと考えて、猛烈なる反対を試みる。対するバ・アタイはルウィの決断に賛成。

「統制者オーソリティの判断に全てを委ねます」

 と付け加えた。

 門兵はさっさと王座の間を出ていくと、黒いローヴに身を包んだ使者が靴音を立てて王座の間へ複数のアストラントの兵士に連れられて歩いてやって来た。背中に黒い天使に近い悪魔の翼を付けている、文字通りの悪魔だ。

「私がアストラント統制者オーソリティ、ルウィ・アクランドだ。して、死界からの使者というのは君のことかな?」

「はい。いかにも私のことにございます」

 フードを深く被り、見えるのは鼻先から下だけ。顔全体は見えず声も性別を特定するには難しい声であった。

 無論イシスケロスがこれに黙っている訳でもなく、フードを深く被ったその姿に「無礼千万であろう!そのフードを今すぐ外せ!」と怒鳴りつけた。ルウィはイシスケロスを咎めた上で、そのままでいいと使者に言葉をかけた。

「回りくどい話はなしにしよう。して、要件は何かな?」

 ルウィは、単刀直入にいきなり死界の者がこのアストラントに現れたのかを使者に問う。冥界が朽ち果てた土地が死界となったことは既に知っており、仮に冥界を復興させるならば、このような事に時間と労力を割いている暇などないと彼は考えていた。

 使者はひと呼吸おいてから返答した。

「我が主、死界の王であるシャレット・オクタビアスはアストラントの統制者オーソリティであられるルウィ・アクランド様と協力関係を築きたいと申されております。今後の死界とアストラント、両界における貿易や政治的な繋がりは互いに大きな利益になり得ます。アストラントにも死界にも秩序を守る霊がおりましょう?彼らの力の源は魔詛まそ。その魔詛の供給源の多くはアストラントです、我々にはそれが必要なのです」

 ルウィは使者の言葉に「ふむ…」と喉から固唾が詰まったような奇妙な声をもらす。

 やはり魔詛が目的か。かの冥王ハデスともかつては魔詛をめぐって争ったが、最終的には魔詛と冥界における物資の交換という条件で提供するとしていた。今回の冥界百年戦争による被害は余程のものなのだろう。それほどの被害が出たと言うならば、アストラントが保有する魔詛のうちおよそ30%は軽く持っていかれる。そうなれば、およそ3兆6871億もの人口を抱えるこの国は運営が難しくなり、破綻してしまうだろう。

 ルウィは決断を迫られた。このまま死界と友好関係を築く代わりに魔詛を持って行かせるか、それとも魔詛を手放さない代わりに侵略を受けるか。そのふたつにひとつしかない選択肢が、背中に重くのしかかる。

「そちらの要件は分かった。後日、追って使者を遣わし此方の考えをまとめる時間が欲しい」

 ルウィは暫く時間を稼ぐこととした。そうでもしなければ、仮に侵攻を受けた時に組織的な反抗はできない。何しろ、死界はハデス統治時代より軍事大国だ。真っ向勝負となれば確実にこちらが不利であろう。だからこその時間稼ぎであった。

 重々しい空気が玉座の間を漂う。今すぐ返答が欲しいという死界向こうさんと時間を稼ぎたいアストラントこちら側の思惑が、見えないところで激しく衝突し合い、力の壁を築き上げていた。

 沈黙が続いたのち、使者の方がこれを破る。そして、不満が感じ取れるようなトーンのまま一言。

「承知致しました。吉報をお待ちしておりますよ」

 使者は一礼するとルウィに背を向け、ゆったりとした足取りで宮殿を後にした。

 イシスケロスはルウィに「よかったのか」と不服そうに問い詰めると、向こうは「その間に対策する」と返ってきた。

 数日後、ルウィの指示の下にイシスケロスは死界への警戒を通常から厳戒態勢に切り替え、バ・アタイも各地に点在する魔詛の泉の周辺にある大規模な守霊育成所を総動員し、人間界への守霊派遣とアストラント国民の徴兵を活発化させた。

 

   * * *

 

「馬鹿な者ほどよく動くもの…。そんなに我が死界と剣を交えるのが怖いか、ルウィ・アクラント」

 神聖さ全開のアストラントと場所は打って変わって死界へと移る。かつてのハデスが統治した冥界の成れの果てであり、その王宮であったディヴァイアスは名をルグラフィアに改められていた。

 そのルグラフィアに君臨するのはハデスの後継者争い冥界百年戦争に突如として乱入し、これを鎮圧した男───名をシャレット・オクタビアスと言い、この死界を統べる王である。

「アスタロト。返事はいつまでに届くと?」

 彼のその冷たい視線を出す瞳は、数日前にアストラントに使者として出向いたフードの使者───地獄の大公爵、アスタロトの方へと確かに向けられている。

「は、ルウィは『直ぐには決められないため、数日待って欲しい。後日使者を派遣しアストラントとしての声明を公表する』との事でした」

 アスタロトの言うところには、数日待てというのはあくまでも返答を考える時間。表向きならそうだろう、だがシャレットは裏事情も知っていた。彼らは兵士の育成、守霊の部隊指揮訓練、そして大量の食料の貯蔵。明らかにこちらが攻め入るのを警戒している。

 本来ならば、ここは穏便に仲良しこよしで済ませるべきであろう。しかし、こちらとて時間が無いのは明白であった。

「その、既に経っているな?」

「と仰られますと?」

 アスタロトが首をかしげ、不思議そうな目でこちらを見ている。納得はしたが理解していない、そんな風な雰囲気を漂わせていた。

「声明がこのままでないのは歯がゆいだろう!者ども、アストラントに攻め込み早々に魔詛を我が手中に収めようではないか!」

 その場にいた死界の諸将たちは、一斉に歓喜の声を上げる。それもそのはずだろう。むざむざ返答を待ち続け、彼らの命の糧である魔詛をイタズラに消費するだけのみならず、魔詛不足で増えつつある餓死者を減らさねばならなかったのだから。

 ここ最近のアストラントの動き、未だに来ないアストラントからの使者。これらに対し、シャレットは死界に存在する兵を総動員してかの地へ駒を進めた。

 

   * * *

 

 死界とアストラントとの境界、アストラント最西端に位置するウィッケルという、大変のどかな地方。平原は青々しい草で溢れて、いかにもヨーロッパの平原のような風景である。

 平原の周りに建物はなく、広がるのは真っ平でだだっ広いだけ。遮蔽物になるようなものはなく、ただ死界の方に小高い丘があるだけであった。

 草、草、草。文字通りの大草原である。

 ウィッケルに存在するアストラントの境界警備隊は、いつもと同じく死界からやって来る者の検問と監視を任務とし、数ヶ月前から同地に砦を建築し駐屯していた。

 兵士の武装は槍や剣、弓と言った古代から中世を彷彿とさせるような簡素なもので、汎用性や即応性に優れる反面、威力や生存性は著しく低いものである。

 それに加えて今日はタクティクス、イシスケロスが視察のために来訪し、境界警備隊への激励や説明を受け、対策を警備隊長らと協議していた。

 そんな日の昼下がりである。

「ん?おい、なんだありゃ?」

 遠くに見える黒紫色の雲の下───死界の方からゾロゾロと何か、黒い布を引きこちらに向かってくる一団の姿が見える。

 丘の向こう側から頭部、肩、胴、そして足の順に姿を顕にするが、その数は見えるだけでも既に1000は優に超えている。というよりも、明らかにその10倍以上の数が居た。

「死界からの避難民か?」

「にしたら数が多いだろ。向こうで何かあったわけでもあるまいしよ」

 兵士たちの目の先には何者か分からない黒点の集団。難民だと思いこみ、数人の兵士が報告に、その他の兵士も大したことは無いとただその集団をぼーっと見ていた。

 砦と一団の距離が3キロ程度しか無くなった次の瞬間、兵士の一人が矢で眉間を射抜かれてその場に倒れた。続いてもう一人、今度はえ《・》に首を絞められているかのように苦しみだし、最後には蝋人形のように動かなくなった。持っていた槍は見張り台の木製床にコトリと落として、腕からは力が抜けてだらり。

「な、なんだ!?」

「敵襲だ!敵襲──」

 残った兵士は力の限り叫び、襲撃を知らせる鐘をならそうとした。が、その鐘を鳴らすためハンマーを手に取った瞬間、腹に激痛と熱が走る。腹を見ると槍が一突き。その一撃でその兵士の動きを完封していた。

「おっと悪ぃな。お前のような雑魚にはちと名誉すぎたか?この新田義貞の槍は」

 突かれた兵士は力が抜けそのまま倒れ込む。自分を刺し倒した将と思われる者の足が見える。明らかにアストラントのではない赤や金の鎧で身を包んだそのヤツは、槍を振るって仲間を次々に斬り伏せ刺し殺していき、無数の骸骨兵スケルトンや蘇死者ゾンビ、それ以外にも死界に住まう突然変異種ミュータントらがそれに続く。

 騒ぎを耳にしたイシスケロスは、本部から出てきた。

 まさかと思っていたアストラントの境界警備隊は尽く惨敗し、砦のの中域まで押し込まれる形となった。この襲撃でアストラントの境界警備隊の死者は、既に1000人の警備隊員のうちの8割を上回るという惨敗。

 同じ頃、ルウィは直ちに存亡緊急事態を宣言しアストラント軍に戦闘の許可を下ろす。魔詛の泉と故郷を守るためにとアストラントの住民たちは挙って兵役に志願していたため士気は高かった。多くの志願兵がアストラント軍に編入されて戦場に送られたは良いものの、所詮は民間人の出。乱雑で乱暴な攻撃を仕掛けてくる死界軍に尽く討たれ、アストラントの兵士は各地で敗北を重ねていった。そしてついにはアストラントに存在するうちの半数の魔詛の泉すらも死界の手中に落ちそうになっていた。

 ウィッケル砦の視察に来ていたタクティクスのイシスケロスは剣を抜き、鎧を着て死界の軍勢に対して明らかな反抗の意志を示した。

「アストラントを蹂躙するのはここまでだ!死界の者どもよ、我が故郷から即刻立ち去れ!このイシスケロスが相手する、死ぬ準備が出来た奴からかかってこい!」

 自ら先陣に立って手勢を鼓舞。死界の兵たちはアストラント軍の実質的な総大将、タクティクスの地位にいるイシスケロスが目の前にいることで、その首を取ろうと競いイシスケロスに飛びかかった。

 イシスケロスの体が右から左へと移動するその残像。その残像がもつ棍棒のような大剣から斬撃が繰り出され、飛びかかってきた数十の敵は声を上げる間も無く倒れ込む。

「な、なんだあのバケモン…。数十の兵が一瞬で…!」

 死界軍のある中隊指揮官が冷や汗をかき、阿鼻叫喚しそうになる。

「狼狽えるな。あのデカブツなんざ、ただデカイだけだろう?この新田義貞が首を討ち取って見せよう!」

 腰に帯びた日本刀を抜き、イシスケロスの前に仁王立ち。

「骨のある奴がようやくお出ましか。その兜…。貫前大鍬形ぬきさきおおくわがたとは……ほう。新田義貞にったよしさだ、待っていたぞ?命の駆け引き、1対1サシと行こうか?」

「保証は完璧とは言えぬが、それで良いなれば相手しよう」

 イシスケロスは刃先が下に向いた構え、新田義貞は上段に刀を構える。互いの軍がぶつかり合うとほぼ同時、アストラントの豪傑イシスケロスと死界の新田義貞が刃を交えるべく、地面を蹴って勢いよく突進。

 刃がぶつかるその瞬間に重々しく冷たい鋼の音が戦場に響き、同時に衝撃波が生じて双方の足軽はチリのように吹き飛んでいく。

 拮抗する刃に散る火花。重々しく戦場に響く音は、魔詛の泉の水面を揺らして、その水面に生まれた赤ん坊の姿を映し出す。

 身軽に剣を避ける新田と、重々しい斬撃をひきりなしに繰り出して、新田を一切寄せつけないイシスケロス。彼に接近できたとしても、斬ろうとする時にはその大剣で防がれて拮抗状態に戻ってしまう。何とかスキを作らなければこちらが負ける。そう思うと、自然に焦るようになった。しかしながら幸いなことに、新田の剣筋は水の流れのように変幻自在。刀を振るたびに、その軌道がまるで幻のように揺らぐのだ。

「一撃、重いな…?」

「貴様も中々やるではないか」

 新田の声に対してイシスケロスが応じる。刃を挟んで競り合い、一向に動かない両者は、苦笑いを浮かべながら押し合うも、埒が明かない。新田は一瞬脱力し身を引く。勢いに任せてイシスケロスはその大剣を振りかざすと、その剣は僅かに空を斬った。

 新田は思わず、取った、と胸の内で叫ぶ。そして下から突き上げるような形で刀を振り上げ、それに対してイシスケロスはそのまま身を捻って一回転。大剣を力の限り早く振り回してアストラントのタクティクスとしての威厳を見せる。

 新田とイシスケロスの剣の刃が触れそうになったその瞬間、片方の剣がピタリと止まった。

 イシスケロスの方だった。

「一番槍はぁ貰ったぜ?義貞」

「成政か…。いい時だったのによ」

 イシスケロスにとって衝撃的だった。1対1サシでの斬り合いであったはずが、横槍によって均衡していた斬り合いは敗北に転じた。

1対1サシだと言っただろう…。なぜに───」

 歯を食いしばるイシスケロスの声に対して新田は可笑しそうに笑いながら返答。

「保証はできない、丁寧にそう言っただろうが。ちゃんと人の話を聞いた方がいいぜ?アストラントの総大将さんよ」

 そう言い終えると、佐々成政の突きの痛みに耐えるイシスケロスの首を、そいよ、と掛け声を言いながらためらいなく斬り落とした。ドスッと鈍く重々しい音を立てて落ちる首と、直立した後に前方に倒れる胴体。その切り口からは血が吹き出していく。

「敵将イシスケロス!この新田義貞が討ち取ったぞ!」

 あまりにもあっけないタクティクスの最期に、アストラント軍は戦慄し死界の軍勢は戦意が一気に跳ね上がった。アストラント随一の豪傑、イシスケロスが死んだということの重大さはイアストラントの崩壊に繋がる程度には重大過ぎるもの。

「イシスケロス様が殺られた…!も、もうダメだ…」

 アストラントの兵士たちは口々にそう言うと死界の兵士たちに背を向けて剣を捨て、涙ながらに逃げ出した。誰もが、心の奥で理解していた。アストラントは終わったのだと──。

 その一部始終を見ていた死界の王シャレットは、無情にも義貞らに対して追い討ちをかけるように殲滅戦を展開するように指示を出す。

 アストラントの緑の布地に白く麦を加えた飛ぶ鳥が描かれた旗は泥に塗れ、その上からさらに敗走するアストラントの兵士たちの返り血で赤黒く塗りたくられた。

 かくしてアストラントは、万全の準備を期したのにも関わらず、死界の宣戦布告無しの攻撃という自体に不意をつかれ、初戦で最高司令官を失うという事態に陥る。勢いを得た死界軍は侵攻前の領土の9割と魔詛の泉をアストラントから奪い取った上に、アストラントのさらに奥の領域である生界(人間界)と死界の勢力圏が接してしまうという、最悪な事態が発生した。これを新たな勢域拡大の好機と見たシャレットは、人間界にも死界軍ネクロ・レギュラを差し向けようと計画した。目的は、無論魔詛である。

 このアストラントのような危機が、人間界にも伸びる事を察した一部の守霊たちは、アストラントの戦いから戦線を離脱。死界が接する人間界との境界に密かに近づき越境し、アストラントでの戦闘が大方決着が着いた頃にバ・アタイの命令にて人間界へ渡る守霊もいた。

 アストラントから人間界へと渡り、姿を人間へと変装した上で必ず来る死界との戦いに備えるため、契約者コヴェナントを探し彼らと契約を結び始めるために人口5万7000人の地方都市・若浦市へと降り立った。

 

─────狂気の歯車は、確かにその歯を回し始めていた。

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