第4話:共犯

宿を出て、三日が経った。


俺たちは、街道を外れて森の中を歩いていた。


「なんで街道を外れるんだ?」


「追われてるかもしれないから」


リリアが、あっさりと答えた。


「あの宿の主人、絶対気づいてたよ」


「……気づいてた?」


「死体のこと」


リリアが、振り返った。


「血痕、完全には消せなかったし」


俺の背筋が、冷たくなった。


「なんで、早く言わない」


「だって、タクミ、聞かなかったじゃん」


リリアが、笑った。


「まあ、大丈夫だよ。たぶん」


たぶん、じゃない。


「もし追われたら──」


「その時は、その時」


リリアが、前を向いた。


「私たち、もう慣れてるでしょ?」


慣れてる。


そうだ。


俺たちは、もう慣れている。


人を殺すことに。


死体を隠すことに。


逃げることに。


いつから、こうなった。


---


夕方、森の中で野宿の準備をしていた時。


足音が聞こえた。


「タクミ」


リリアが、小声で言った。


「誰か来る」


体が、硬直した。


「隠れるか──」


「遅い」


男が、茂みから現れた。


中年の男だ。


そして──


あの宿の主人だった。


「やあ」


主人が、手を振った。


「探したよ、二人とも」


俺は、動けなかった。


「逃げなくていい」


主人が、両手を上げた。


「敵じゃない」


「……何の用だ」


「話がしたい」


主人が、焚き火の準備をしている俺たちに近づいてきた。


「ちょっと、時間もらえるか?」


リリアが、俺を見た。


俺は──


頷いた。


逃げても、無駄だ。


この男は、俺たちを追ってきた。


なら──


話を聞くしかない。


---


主人は、焚き火の前に座った。


「まず、自己紹介させてくれ」


「俺の名前は、ケイジ。この宿を、十年やってる」


「そして──」


ケイジが、俺たちを見た。


「転生者だ」


リリアが、息を呑んだ。


「転生者……」


「ああ。お前たちと同じだ」


ケイジが、自分の手を見た。


「俺のスキルは《記憶読取》。触れた相手の記憶を読める」


「あの夜、お前が部屋の鍵を受け取った時──」


ケイジが、俺を見た。


「触れただろ? 一瞬だけ」


「その時、読んだ。お前の記憶を」


俺の手が、震えた。


「全部、見た。お前が殺してきた人々を」


「森に埋めた死体も」


「そして──」


ケイジが、リリアを見た。


「お前を、何度も殺したことも」


リリアが、黙り込んだ。


「でも、ギルドには通報しなかった」


ケイジが、焚き火を見た。


「なぜか、分かるか?」


「……なぜだ」


「俺も、同じだったからだ」


---


ケイジが、語り始めた。


「俺が転生したのは、十五年前だ」


「最初は、スキルが便利だと思った」


「相手の記憶を読める。嘘を見抜ける」


「でも──」


ケイジの目が、遠くなった。


「読みたくない記憶も、読んでしまう」


「相手に触れた瞬間、流れ込んでくる」


「そいつの、全てが」


「痛み、苦しみ、憎しみ、絶望」


「全部、俺の中に入ってきやがるんだ」


ケイジが、自分の頭を押さえた。


「最初は、耐えられた」


「でも、人に触れるたびに、記憶が増えていく」


「他人の人生が、俺の中に積み重なっていく」


「いつしか──」


ケイジが、俺たちを見た。


「俺が誰なのか、分からなくなっちまった」


沈黙。


焚き火の音だけが、響く。


「だから、逃げた」


「人のいない場所へと」


「それだけじゃ、ダメだった」


「時々、人が来る」


「触れちまう」


「また、記憶が増える」


ケイジが、笑った。


「今じゃ、何百人分の記憶が、俺の中にあるんだ」


「全員の人生を、俺は生きている」


「俺は、もう俺じゃない」


---


「そんでよ。ある日、俺は祭壇のことを知った」


ケイジが、続けた。


「《スキル破棄の祭壇》」


「そこでスキルを捨てられるって」


「すぐに、向かった」


「何ヶ月もかけて、北へ」


「そして──」


ケイジが、息を吐いた。


「着いた」


「祭壇は、本当にあった」


「巨大な石の祭壇が、雪の中に立っていた」


「そして──」


ケイジが、俯いた。


「声が聞こえた」


「『スキルを捨てるには、代償が必要だ』」


「『お前が最も大切にしているものを、差し出せ』」


リリアが、息を呑んだ。


「最も大切なもの……?」


「ああ」


ケイジが、頷いた。


「俺にとって、それは──」


ケイジが、遠くを見た。


「自分自身だった」


「何百人分の記憶を抱えた、この自分」


「これが、俺の全てだった」


「祭壇は言った」


「『その記憶を、全て捨てろ』」


「『他人の記憶も、自分の記憶も』」


「『全てを失い、空っぽになれ』」


ケイジが、俺たちを見た。


「俺は──」


「できなかった」


---


「記憶を全て失うってことは、死ぬってことと同じだ」


ケイジが、静かに言った。


「俺は、生き延びてきた」


「何百人分の苦しみを抱えながら」


「それを全部捨てるってことは──」


「今まで生きてきた意味を、否定することだ」


ケイジが、立ち上がった。


「だから、捨てられなかった」


「祭壇を後にして、戻ってきた」


「そして、宿を始めた」


「今は──」


ケイジが、笑った。


「なるべく人に触れないようにしてる」


「それだけだ」


沈黙が、続いた。


リリアが、口を開いた。


「なんで、その話を私たちに?」


「忠告だ」


ケイジが、真剣な顔で言った。


「お前たちも、祭壇に向かってるんだろ?」


「……どうして」


「読んだからだ。お前の記憶を」


ケイジが、俺を見た。


「お前は、スキルを捨てたいと思ってる」


「でも──」


ケイジが、リリアを見た。


「この子を、失いたくないとも思ってる」


図星だった。


「祭壇は、容赦しない」


ケイジが、警告するように言った。


「お前が最も大切なものを要求する」


「それは──」


ケイジが、二人を交互に見た。


「お互いかもしれない」


---


ケイジが、去っていった。


「気をつけろ」


そう言い残して。


焚き火の前に、俺とリリアだけが残った。


沈黙が、重くのしかかる。


「ねぇ、タクミ」


リリアが、小さな声で言った。


「本当に、祭壇に行くの?」


「……分からない」


「もし、祭壇が──」


リリアが、俯いた。


「『リリアを殺せ』って言ったら──」


「どうする?」


俺は、答えられなかった。


「殺せる?」


リリアが、俺を見た。


その目は──


期待と、恐怖が混ざっていた。


「……分からない」


「そっか」


リリアが、笑った。


でも、その笑顔は寂しかった。


「私ね」


「ん?」


「もし祭壇が『タクミを殺せ』って言ったら──」


リリアが、自分の手を見た。


「できないと思う」


「リリア──」


「だって、タクミがいなくなったら──」


リリアの声が、震えた。


「私、また一人になるから」


---


翌朝。


俺たちは、また歩き始めた。


でも、北には向かわなかった。


東へ。


街道に沿って。


「どこに行くんだ?」


「分かんない」


リリアが、答えた。


「でも、北じゃない」


「……そうか」


「それで、いい?」


「ああ」


俺は、頷いた。


「今はそれでいい」


リリアが、笑った。


「じゃあ、旅を続けよう」


「目的地のない旅を」


---


三日後。


俺たちは、小さな町に着いた。


市場が開かれていた。


「何か買おう」


リリアが、嬉しそうに言った。


「食料とか」


「ああ」


俺たちは、市場に入った。


人が多い。


俺の心臓が、早くなる。


「大丈夫?」


リリアが、俺の手を握った。


「……大丈夫」


嘘だった。


でも、リリアの手が温かかった。


それだけで、少しだけ落ち着いた。


市場を歩く。


野菜、果物、肉、魚。


色んなものが売られている。


「これ、美味しそう」


リリアが、りんごを手に取った。


「買う?」


「ああ」


商人に金を払う。


リンゴを二つ買った。


「はい、タクミの分」


リリアが、一つ渡してくれた。


「ありがとう」


二人で、リンゴをかじりながら歩く。


甘い。


久しぶりに、普通のことをしている気がした。


でも──


その時だった。


---


誰かが、リリアにぶつかった。


中年の女だった。


「あら、ごめんなさい」


女が、謝った。


「大丈夫です」


リリアが、笑顔で答えた。


女が、去っていく。


その時──


リリアの顔が、変わった。


「タクミ」


「ん?」


「あの女の人──」


リリアが、女の背中を見た。


「私の財布、盗った」


「え?」


「スリだ」


リリアの目が、冷たくなった。


「追いかけよう」


「待て──」


でも、リリアはもう走り出していた。


俺も、追いかける。


女は、人混みの中を逃げていく。


路地裏に入った。


俺たちも、追う。


女が、振り返った。


「何よ、あんたたち!」


「財布、返して」


リリアが、手を出した。


「はあ? 何言ってんの」


女が、とぼけた。


「私、何も盗ってないわよ」


「嘘」


リリアが、一歩近づいた。


「私、見てた」


「証拠は? 証拠あんの?」


女が、開き直った。


「ないなら、さっさと帰りな」


リリアが、黙った。


そして──


笑った。


「そっか。証拠、ないんだ」


「当たり前でしょ」


女が、勝ち誇ったように言った。


「じゃあ、もう行くから──」


「でもさ」


リリアが、女に近づいた。


「タクミは、証拠なんていらないんだ」


「は?」


女が、怪訝な顔をした。


その時──


リリアが、俺を振り返った。


その目が──


何かを期待していた。


「タクミ、この人──」


リリアが、笑った。


「ムカつくよね」


心臓が、止まりそうになった。


リリアが、何を言っているのか。


分かった。


「リリア、やめろ──」


「だって」


リリアが、女を見た。


「この人、私たちを馬鹿にしてるよ」


「殺したいと思わない?」


---


女の顔が、青ざめた。


「な、何言ってんのあんた──」


「ほら」


リリアが、女に近づいた。


「怖がってる」


「やめろ、リリア!」


俺が、叫んだ。


でも、リリアは止まらない。


「この人、今──」


リリアが、女の顔を覗き込んだ。


「タクミに、殺意向けたよ」


「違う──」


「向けたよ。私、分かる」


リリアが、俺を見た。


「タクミも、感じたでしょ?」


感じた。


背筋を走る、あの感覚。


スキルが、反応しかけている。


「やめろ──」


「なんで?」


リリアが、首を傾げた。


「この人、悪い人だよ」


「スリだよ」


「私たちから盗んだんだよ」


「それでも──」


「それでも、殺しちゃダメ?」


リリアの目が──


俺を試していた。


「この人が死んでも──」


「誰も困らないよ」


女が、叫んだ。


「助けて──!」


でも、路地裏には誰もいない。


そして──


女の目に、完全な殺意が浮かんだ。


この二人は、危険だ。


殺さなければ──


その瞬間。


ゾクリ、と背筋を何かが走った。


---


視界が、暗転した。


でも──


今回は、違った。


意識が、残っている。


自分の体が動くのが、分かる。


手が、女の首に伸びる。


掴む。


締める。


女が、苦しそうに喘ぐ。


やめろ。


やめろ。


でも、手が止まらない。


女の顔が、紫色になっていく。


目が裏返り、白目がむき出しになった。


そして──


何かが折れる音。


女の体が、ぐったりとなる。


意識が、完全に戻った。


---


俺は、立っていた。


女の死体を見下ろして。


手が、震えていた。


「タクミ」


リリアの声。


振り返った。


リリアが、笑っていた。


「やったね」


その言葉が──


俺の心臓を鋭く突き刺した。


「なんで──」


声が、震えた。


「なんで、そんなことを──」


「だって」


リリアが、女の死体を見た。


「この人、悪い人だったから」


「そういう問題じゃない!」


俺は、叫んだ。


「お前、わざと──」


「わざと、殺意を向けさせただろ!」


リリアが、黙った。


数秒の沈黙。


それから──


頷いた。


「うん」


「なんで──」


「試したかったから」


リリアが、俺を見た。


「タクミが、本当に──」


「私のために、殺せるか」


---


俺は、言葉を失った。狂ってる。


「お前──」


「ごめん」


リリアが、謝った。


でも、その目に後悔はなかった。


「でも、嬉しかった」


「嬉しい?」


「うん」


リリアが、笑った。


「タクミ、殺したでしょ」


「私のために」


「違う──」


「違わないよ」


リリアが、首を振った。


「タクミは、私のために──」


「あの女を、殺した」


「スキルのせいじゃない」


「私のせいだ」


リリアが、自分の胸を叩いた。


「私が、タクミを殺人者にした」


「だから──」


リリアの目が、潤んだ。


「私たち、もう離れられないよ」


その言葉が──


恐ろしいほど、真実だった。


俺は──


リリアのために、人を殺した。


スキルのせいじゃない。


リリアが望んだから。


俺は──


殺した。


「タクミ」


リリアが、俺の手を握った。


「一緒に、逃げよう」


俺は──


頷いた。もう何が何だかわからない。


---


その日、俺たちは町を出た。


二度と戻らないつもりで。


森の中を歩きながら、リリアが言った。


「ねえ、タクミ」


「何だ」


「私たち──」


リリアが、立ち止まった。


「もう、普通には戻れないね」


「……ああ」


「祭壇にも、行けないね」


「……ああ」


「じゃあ」


リリアが、俺を見た。


「これから、どうする?」


俺は──


答えを、持っていなかった。


ただ──


一つだけ、分かることがあった。


「お前と、一緒にいる」


「それだけだ」


リリアが──


泣いた。


初めて見る、リリアの涙。


「ありがとう、タクミ」


二人で、抱き合った。


森の中で。


誰もいない場所で。


---


その夜、焚き火の前で。


リリアが、言った。


「私たち、共犯だね」


「……ああ」


「もう、誰も信じられない」


「お互いしか」


リリアが、俺の肩に頭を預けた。


「でも、それでいい」


「私、タクミがいれば──」


「他に何もいらない」


俺は──


リリアの頭を、撫でるしかなかった。


「ああ」


「俺も、同じだ」


俺は噓をついた。


炎が、揺れていた。


二人の影が、一つに重なっていた。


---


【第4話 完】

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