接ぎ木の魂、百まで

武良嶺峰

第1話

 見返した日記には、一ページだけ意味の分からない箇所がある。兄はそう言って部屋の入り口で固く腕を組み不機嫌そうに立っていた。兄は日記を開き私の方に向け、何か落書きをしていないかと私を咎めた。兄は毎日欠かさず日記を書いているが、昨日書いた行の下に意味の分からない一文が追加されていると言っている。差し出されたページには私には理解できない文が書いてあった。

【De stamboom ontwaakt door de entboom te versliden】

落書きの身に覚えがなかったので、濡れ衣だと日記を突き返したが、兄は依然として疑っており、それなら誰が書いたんだと恨めしそうに私を睨みつけた。ただ私が表情を崩さず無言を貫くと、渋々自室へと帰って行った。物思いついた時から、父のしつけで兄は日々の出来事を一行日記として書いており、十年以上続けている。十八歳にもなって従順に父の教えを守っているのは父への恐怖か、それとも自我の欠如なのか知らないが、そんな兄の行動は受け受け入れ難いものだった。ただ、私は父から何の指示も受けたことはなかったので、それはむしろありがたかった。かつて小学校に入学したばかりの頃兄に手を握られ、通学していた。屋敷を出る時は仰々しく私の手を握っていた兄の手が小学校近くに来るとじっとりと湿っていたことを覚えている。兄は高学年になると休みがちになり、中学生になると入学式に出席したものの、一週間もすると登校しなくなり、屋敷の自室に閉じ籠った。不登校は一年程続いたが、中学三年生の四月になった途端、兄は再び登校し始めた。その時に兄の雰囲気が何やら変わったことを不思議に思い、私はそれ以来、私はこっそりと兄の行動を観察し続け、それは私の日課になっている。

                  ✥

 自室にいると兄がまた言いがかりをつけてくるかもしれないと思い、私は屋敷に隣接する畑の様子を見に行った。畑は父が所有し、畑は女中が管理しており、数アールばかりだが、自分達で食べる野菜は十分に育てられた。畑には鬱蒼と茂ったナスの区画で女中のハツが長いホースに苦戦しながら水やりをしていた。ハツは畑の入り口に立つ私に気が付いたようで深くお辞儀をしてから、水やり作業に戻った。

「兄さんは面倒くさいだろう?」

 私が声をかけると、ハツは滅相もございませんと小声で返した。兄がいつも言い寄っているみたいだけれど無視した方がよいよと言うと、ハツは小柄な体をさらに縮めた。兄がハツに好意を持っているのは明らかで、言い寄ってくる兄に対してハツの興味がないことも明らかで、それに気が付いていないのは兄くらいだった。ただそのことを誰も口にすることはなかった。

「中学三年生になった頃から、兄さんの雰囲気が変わったと思わないかい?僕にはどうしてもそう思うんだ。」

 ハツは作業の手を止め、なんとなくわかります、お屋敷にお世話になり始めた時と現在ではお兄様の印象はかなり変わったように思いますと言った。

「そうなんだよ。かつての兄は精神的弱者そのものに見えた。ただ、現在の兄の振舞は精神的弱者のそれとは明らかに異なる。他者とまともに会話できるようになったのだから。最近では私にも横柄な態度をとってくるのは本当に腹立たしいが、屋敷の嫡男となる兄の言うことは聞かなければいけないのは苦しい限りだ。しまいには君にも言い寄り、露骨な好意を示している。弟としてとても心苦しい。」

そう言って頭を下げると、滅相もございませんとハツは繰り返した。

「ところで父とトメの関係については知っているかい?」

ハツとこんなにも長く会話をしたことはなかったので、気を大きくしてしまったのかもしれない。私はとっておきの秘話を明かすことにした。今になっては余計な事を言ったと後悔しているのだが、後の祭りだった。何のことでしょうか?とハツは何も知らないようだった。それならば今の話は無視してくれと言えばよかったのだが、私は自慢げに父とトメが不倫関係にあることを打ち明けた。はっと驚いた顔をしたハツを見るにつけ、そのことは知らなかったようで、私は冷めた表情をして、女中と主人の不倫関係なんてよくある話さと冷ややかに話した。兄さんは知らないみたいだけどねと付け加えた。ハツは、はあ、そうだったんですね、全然知りませんでしたと、何度も頷くばかりだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る