「アレス……」

　奥の部屋にいる母――ソフィアから弱弱しく名前を呼ばれ、父から水を飲ませろと言われていたことを思い出す。アレスは、キッチンへ向かい、水を汲んだコップを手に、急ぎ足で母のもとへと向かった。

「遅くなって、ごめん。水持ってきたよ」

　日を追うごとに、木の枝のように細くなっていく母がベッドに横たわったまま、顔だけアレスに向けていた。アレスは、サイドテーブルにコップを置いて、母の背とベッドの間にアレスは手を差し入れて、起き上がらせる。それだけで、母の息は上がってしまう。そのくらい、体力は限界だった。骨ばかりになった背を支えながら、コップを口元へ持っていくと、母は二口程コクリと喉を鳴らしていた。背中を支え、ゆっくりとまた体を横にさせる。

「ありがとう」

　表情をつけるのも辛いだろうに、無理やり笑顔を作ってくれる母に、やはり生きてほしいとアレスは思う。宮殿は、ここから歩いて数分だ。たった数分歩いただけで、母の病を治す薬があるかもしれないのに。どうして、手にできないのだろうか。アイザックの怒りが、アレスにはよくわかる。怒りで支配されそうになったところに「アレス」と、ソフィアの優しい声に救い上げられて、ハッとした。

「苦労ばっかりかけて、ごめんね。お母さん、アレスが、大好きよ」

「急に、何言ってんだよ。やめてよ」

　まるで、別れの言葉のようにそういうソフィアにアレスは、怒った顔をする。

　苦労だなんて思ったことはなかった。母のためならば、何だってできるし、大変だなんて思うことはない。家族とはそういうものなのだと思う。助けを求められたら、理由もなく動き、何だってできる。

　同世代の仲間たちは、貧しい生活を紛らわせるように、遊ぶ時間に充てているが、自分にはそんな必要はなかった。

　ただ、母がいて、父がいてくれれば、それが幸せなのだ。本当にささやかなことかもしれないけれど。

　

「伝えられるときに、ちゃんと伝えておかないと」

　ソフィアの息が急に浅く、早くなった。優しく弧を描いていた瞳が、ゆっくり閉じていく。

　それに呼応するように、アレスの心臓が早打ちしていた。「母さん？」と呼ぶが、ソフィアは目を閉じたまま、反応しない。紫色になっていく唇が、最後の力を振り絞るように戦慄いていた。

「お母さんはね、お父さんと、アレスがいてくれて……本当に幸せだった。……アレス、ありがとう」

　閉じたままの双眸から涙が零れ落ち、苦し気に上下していた胸が浅くなっていく。アレスの全身から血の気が引いていく。

「母さん？」

　アレスが、呼べば必ず応えてくれるはずの母がピクリとも動かない。

　ささやかな幸せの灯が消えていく。焦りが募り、アレスは走った。みんなが集まっている酒場のドアを乱暴に開け放つと、メンバーが目を丸くしていた。その中から、ジャンの姿を探す。しかし、どこにもいない。父がいつも座る椅子は、空だった。

「父さんは？」

「早速、宮殿に行ってくるってさ。日暮れだし、せめて明日にしろって止めたけど、行っちまった。まぁ、今の時間は宮殿の門は締まってるし、あきらめて帰ってくるだろう。で、何かあったのか？」

　何も答えないアレスの様子で「ソフィアがどうかしたか？」というファミルの質問に変わる。

　それを無視して、アレスは外へと飛び出した。

　宵闇のまれる直前の空は、目が慣れていないせいか一層暗く見えた。

　宮殿への道は右に曲がって、真っすぐ行けばいい。考える必要もなかった。ただ身体を必死に動かせばいいだけだった。

　アレスは風のように走った。生まれ持った運動能力は高い。生まれて間もなく、医者から太鼓判を押されている。

　十四歳になり、体はずっと大きくなった。レジスタンスの訓練は受けられずとも、自分のやり方で密かに訓練を重ねてもいる。

　体全体の筋肉も、バランスよくついてきた。特に足には、自信がある。比べたことはないが、父よりもずっと速くなったと思う。

　だから、全速力で走っていれば、父が宮殿にたどり着く前に、追いつけるはずだ。

　今はただ、母の傍にいてあげてほしい。

　命の灯が消えるその瞬間は、せめて見届けてほしい。

　息が切れ、心臓が破けそうなほどに、アレスは必死に走った。

　宮殿を隠すように生い茂る木々、その中央に門が見え始める。

　その目の手前で、後ろ姿を見つけた。すぐにそれは、父だと分かった。城門の手前だ。

　風は穏やかで、木々がゆっくりと揺れた。

　何とか間に合ったようだ。速さは緩めず、父のもとへ向かおうとした。

　その時、城門の格子戸から、人影が踵を返すのが見えた。

　一人ではなく、数名いる。

　宮殿制服を身にまとい、マントを付けた身分が高そうな人間が二人。その真ん中に高級そうなドレスを纏った、小柄な背があった。それが、ちらりとこちらへ振り返った。

　整った顔立ち、華奢な身体。赤の女王だ。すぐに理解した。トレードマークの目の赤は、夜に染まりつつある闇に飲まれて、よく見えなかった。ただ、その手に持っている一輪の花の色だけはやけに鮮明に見えた。誰かの血をすべて吸い取ったかのような、燃え盛るような赤だった。

　その匂いを嗅ぐように、口元を隠すように持っていく。そして、俺に視線を送り無表情のまま、アレスだけへ合図を送るように人差し指をピンと立てて口に当てていた。

　静かにしろ。そう訴えているように見えた。アレスは固唾をのんで、足を緩めると自然と気配を殺すような形になっていた。間近に迫った父もまた、沈黙を守っている。

　女王は、そっとまた前へと顔を戻し、アレスに背を向けて、宮殿の入口へと姿を消していた。

　金縛りにあったように、動かなくなっていた身体が、緩む。

　ふうっと息を吐いて、あと数歩あった父との距離を詰めた。

　父は、まだアレスの気配に気づいていないのか前を向いたまじっとしている。アレスは、その肩に手を伸ばした。

「父さん」と声をかけ、軽く肩に触れた直後。アレスの視界からガクンと父が消えた。

　え？

　声が出た瞬間。倒れる音がした。

　父がいた場所の下を見る。そこに、倒れた父の背中。白かったシャツが、真っ赤な鮮血に染め上げられていた。

「父さん！！」

　混乱する頭をどうにかして、父を仰向けにさせた。息をしていないことは明白だった。そこに自分が見知っている父はいなかった。顔面も血で染まり、見開いた瞳だけが、白かった。

　恐怖と絶望がアレスの体を貫いた。

　溢れそうになる涙を抑えつけてアレスは、ジャンの大きな亡骸を抱きかかえた。

　自分の服が血で染まる。

　構わず、アレスは歩き続けた。

　やっとの思いで、酒場に着きドアを開いた。アレスの背に乗っている変わり果てた姿を見たメンバーは、絶句していた。

　一刻置いて、正気を取り戻したメンバーは口々に父の名を呼び、泣き叫んでいた。

　アレスの背に乗っていたジャンを、みんなの手でゆっくりと抱きかかえられ、床に寝かされた。

　開きっぱなしだった瞼を、アイザックの手でゆっくり下げられる。他の者たちは、涙を流しながらきれいなハンカチで、血に染まった父の顔を丁寧に拭ってやっていた。苦しみしか見えなかったジャンの表情が、ただ眠っているだけのように見えた。

　アレスは、胸に焼き付けるようにじっと見つめていた。

　部屋の奥にいたらしいファミルが戻ってくる。その状況にただ見開いていた。

　しばらくそうした後、アレスの横に立ったファミルは、慰めるようにアレスの背中に手を置いた。

「ソフィアも……今、空へ旅だったよ」

　事実だけが、淡々と空気を震わせていた。

　アレスは、ただ、そこに佇んでいた。

　涙は零れなかった。

　ただ宮殿への憎しみだけが、全身から湧き上がるだけだった。

　そして、その熱にあぶりだされるかのように、鮮明な映像となって甦った。

　真っ赤な赤い花のよく似合う、あの女。あの忌々しいほど、綺麗な顔。

　俺は、絶対あの女を殺してやる。

　アレスの心臓は、真っ赤に染め上げられていた。