第6話 生まれ変わるもの

 6


 カーテンの隙間から漏れる朝日に起こされ、目覚めは快適だった。

 思い切り背伸びをし、体をほぐし始めた途端、雷が声を掛けてきた。

「なあ鋼刃。りつこさまと何話してたんだよ?」

「知ってたのか。寝てたくせに」

「俺をばかにするなよ。庭で人の気配がすれば、ぱっと目を覚ますくらい楽勝だぞ」

「まあ、そうだよな」

 とりあえず、さすがは雷といったところか。

「で? なにやらいい雰囲気だったじゃないかよ。りつこさまとどんな話をした? 言ってみろ」

「見てたのかよ。いやらしいやつだな」

 適当にあしらうつもりでいたが、雷はしつこい。

「俺はおまえのお目付け役なんだからな!」

「だからと言って、ずっと見張ってんじゃねえよ」

「大丈夫だ。おまえらがエッチするときは気を利かせてやる」

 小突いてくる肘が鬱陶しく、鋼刃はひとり、さっさと屋敷の外に出た。

 朝もやが霞む山道を、散歩がてら歩いてみることにした。考えたいことがあったからだ。

 りつこ母娘から聞かされたバァル・グイツとの件も気がかりだが、それよりも気になるのは、昨夜突然出現したあの少年のことだ。

 俺は確かにあいつと会ったことがある――。  

 記憶の糸を手繰り寄せてみるものの、思い出すための糸口さえ見つからないのだ。

「ちくしょう。すっきりしないな」

 ふと脇を見ると、木立ちに囲まれた草むらがあった。

 目を凝らすと、キリギリスやコオロギなどが小さく跳ねている。

 カマキリが鎌を振りかざし、獲物を追っていた。

 いや、ちがう。カマキリも逃げているのだ。

 視線を動かした先に、蜥蜴の姿を認めた。

 体表は乾いたようにざらざらとして、背面の鱗が大きい。ニホンカナヘビだ。

 人の気配を察したのか、素早く向きを変える。

 鋼刃と目が合った。途端、足が竦んだ。

(どうしたってんだ?)

 蜥蜴や蛇など、全然平気なはずの鋼刃だったが、これは異常だった。突然、恐怖心が生じたというのか。

(殺られる!) 

 と、ニホンカナヘビが変態を遂げ巨大化した。

 鱗にまみれた体、金剛力士像のような肩や胸、隆起している腹の筋肉。

 反射的に後方に飛び退る。大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

 風がそよぎ、鋼刃の前髪を揺らす。

 気がつくと、ニホンカナヘビは姿をくらましていた。

(幻覚?)

 口が渇く。脈拍が早い。

(ただの蜥蜴にビビってんじゃねえよ)

 努めて自分に発破をかけるものの、突然の恐怖の正体がわからないままでは、この先不安だ。

 トラウマ?

 いつ? そんな記憶はないぞ。

 しかし、今フラッシュバックらしき現象が起きたではないか。 

 だとしたら、正体を探り当て、問題を解決しないといざというとき厄介だ。

 相談できる適任者がそばにいるのは幸いだった。

 鋼刃は踵を返し、りつこに会いに行った。


 ※


「はあ? 出かけた? 俺を置いてか」

 瑠々はにやにやしながら答えた。

「今日は土曜日で、奥様とりつこ様はポールダンスのレッスンなんだよ。間に合わないからって、雷を同行してったわよ」

「雷が一緒だって? あいつはただの俺のお目付けじゃねえか!」

「あら。雷だって護衛くらいしっかりできるよ。だいたい鋼刃さま、今日がレッスン日だって知ってたでしょ」

「聞いてねえぞ」

 なんとなく読めてきた。雷のやつ、知ってて俺に通知しなかったんだな。あいつ、奥様に色目使ってやがったし、りつこにも憧れてるし。帰ったらとっちめてやる!

 鋼刃はふと妄想を浮かべた。

 千景の艶めかしいレオタード姿や挑発的な仕草。りつこの健康的かつ神々しい御姿。

 それを鼻の下を伸ばして見つめる雷。見学禁止でも雷には透身の術がある。たとえ千景にダメ出しを食らおうと、あいつくらいの腕ならなんとかする。

「鋼刃さま?」

「許せねえ!」

「鋼刃さまってば!」

 瑠々の呼びかけに我を取り戻した鋼刃は、ばつが悪そうに取り繕う。

 しかし、こういったケースは常に女の方が上手だ。

 瑠々はシナを作ってすり寄ってきた。

「わたしたち二人きりですよ。楽しみません?」

「何を言ってるんだ、おまえは! どこでそんな色仕掛けを覚えやがった?」

「だってぇ」

 そこに現れたのが鷺坂莉加だ。

「急いで鋼刃さん。車の用意してありますよ。瑠々ちゃん、お留守番頼むわよ」

「はぁい」

 瑠々が渋々と従う。どうやら莉加には頭が上がらないようだ。

「なんだ。最初からそう言えよ」

 鋼刃が軽く頭を小突くと「痛ぁい」と言いながらも、嬉しそうな瑠々だ。

「瑠々ちゃん、鋼刃さんに構ってもらいたくてしょうがないのよね」

「だってぇ」

 莉加と瑠々は大人と子供、母と娘のようである。

「さ、急がないと。りつこ様たち二十分ほど前に出ましたので」

「は、はい」      

 


 数分後、鋼刃は莉加の運転するオフロードカーの助手席にいた。

「うわぁ、これはすごいな。戦争にでも行くみたいですね」

「メルセデス・ベンツのウニモグをベースにして、改造してあります。高山や悪路、急坂、砂地など含めて走破できないところはないといってもいいですよ」

 さらっという莉加の横顔を鋼刃は食い入るように見つめるしかない。

「そんなに見つめないでください。照れちゃうじゃないですか」

「す、すみません。莉加さんって何者? って思ったもんですから」

 莉加はくすりと笑った。

「そっかぁ。わたしは鋼刃さんが里に来たのとすれ違いで出たから知らないのも当然ね」

「え? じゃあ、莉加さんも?」

 莉加は頷くと、次のコーナーに切り込んでいく。タイヤのグリップ力限界、滑るか滑らないかギリギリのところをステアリングとアクセルワークで見事にコントロールしている。

「一応、鋼刃さんの先輩になるのよ。わたしはメカの操作や、ITが専門。水神家お抱えになって十年目になるわ」

「へえ。師匠と水神家って、もともと付き合いが濃かったんだなあ」

「濃いなんてもんじゃないわよ。慶蔵師範の奥様は千景様の妹なんだから」

「ええええー」

 鋼刃はシートからずり落ちそうになった。それは初耳だ。いや、しかし自分の無知さ加減が情けなくなる。

「じゃ、じゃあ、千晶さんのお姉さんが千景さんってこと?」

 自分の母のように接してくれた優しい千晶を思い浮かべ、鋼刃はかぶりを振る。

「姉妹なのに、全然違うもんだな」

 これには莉加も笑った。

「姉妹なんてそういうもんよ」

 クールに言い放つ莉加に、大人の女性を感じると同時に、寂しさのような感情が見え隠れした。

「私の本名は三島莉加。三島慶蔵と千晶のひとり娘。私には跡を継ぐ能力がなかった。だから、あなたが選ばれたの。入れ替わりに私は姓を変えて里を出て行くことになった」

「……」

「気にしないで。私は今すごく楽しいし、父や母は私のことを思って、水神家に世話になるよう段取りしてくれたんだから」

 そんなことがあったのか。

 次から次へと知らなかった事実にふれ、鋼刃はあらためて己の不思議な運命に想いを馳せた。   



 初めて三島慶蔵に会ったのは、鋼刃が七歳になったばかりの秋のことだった。

 父が姿を消したあの忌まわしき事件後、すぐに慶蔵に引き取られた。子供だったから、そのときはなんとも思わなかったが、今思うと実にすんなりと事が進んだものだった。

 慶蔵・千晶夫妻は心から歓迎してくれた。師である慶蔵も妻の千晶も傷ついた鋼刃に対し、精一杯の愛情を注いでくれた。

 半年間は――。

 千晶がどこかしらよそよそしくなり、慶蔵が寡黙になったような気がしたのは、里の桜が満開になった頃。

 風呂から出たところ、不意に呼び出しを受けた。

 大事な話があるという。

「私に代わり、おまえに我が一族の使命を受け継いでもらうようお告げがあった」

 今思えばこれはおそらく水神家の指示だったと思われる。

「鋼刃。三島家は代々忍びとして表に出ることなく生きてきた。時の要人の護衛や、場合によっては戦闘に駆り出され、暗殺も行ってきた一族なのだ。おまえの父、剛次もだ」

 そう言われても当時の鋼刃にはぴんと来なかった。むしろ、わくわくしたほどだ。漫画の世界がぐっと近づいた気がしたのだ。

「今日からおまえには、特別な修行を行う。奥義を伝授する。御神の指示だ。拒否することはできぬ」

 特別な修行とはどんなことだ? と質問する機会も与えられなかった。

 ただ、千晶の寂しげな微笑みだけは覚えている。

 突然の睡魔に襲われたからだ――。

 目覚めたとき、鋼刃は狭い空間にいた。明かりもない空間だったので、香りを手掛かりに木製の棺のような物体の中に寝かされていることはわかった。

 起き上がることもできず、蓋を開けようと試みたが鋼刃の力ではびくともしない。

 睡眠薬のせいか、まだ頭がすっきりとしない。とりあえずはじっとしていよう。

 ここでパニックにならなかったのは、慶蔵夫妻が来てくれるだろうと信じ込んでいたことと、里に来る前の事件で精神が麻痺していたこともあった。

 やがて目が慣れてくると裏蓋に張り紙を見つけた。目を近づけ、どうにか読み取ることができた。

「三日間、そこで耐え抜け」

とだけ、記されていた。

 これは遊びなのか? まずはそう考えた。

 いや、違う。

 慶蔵はこう言った。はっきりと覚えている。

「今日からおまえには、特別な修行を行う。奥義を伝授する。御神の指示だ。拒否することはできぬ」 これは修行の一環なのだ。だったら、受け入れよう。

 鋼刃は覚悟を決めた。

 が、しかし、そこはまだ七歳の子供。一時間もすると、このままずっと迎えに来てくれないのでは? という不安が生じた。闇と無音の世界は希望が見えない。

 どうしようもない寂しさに耐えられなくなった。

 幸せだった幼い日々の思い出が溢れんばかりに押し寄せ、涙が出てきた。ついに感情の制御ができなくなり、声を上げておいおいと泣き叫んだ。

 泣き疲れたせいか、いつの間にか寝てしまったが、ここからが本番だった。

 相変わらずの暗闇は、今が朝なのか昼なのかもわからない。もう一日は過ぎたろうか?

 もともと楽天的だった鋼刃は、ずっと寝ていれば楽勝かも? などと名案を閃いたように思うが、現実はまったく甘くなかった。

 次に襲ってきたのは飢えと渇きだったが、体を動かしていたわけではないため、なんとか凌ぐ。一日くらいならどうってことはない。

 暗順応がさらに進み、かなり目が利くようになってきたとき、鋼刃は異様なものに気がついた。

 棺の中いっぱいに奇妙な模様が描かれているのだ。

 後に曼荼羅と知るわけだが、悪趣味に感じ吐き気すら覚えた。

 そんなとき、慶蔵の声が聞こえた。気がつかなかったが、どこかに小さなスピーカーが隠されていたらしい。

「鋼刃聞こえるか? 眼帯があるはずだ。それで左目を隠せ。必ずだ」

「師匠! ここから出してください! 後どれくらいで出られるんですか?」

 返事はなく、一方的に切られた。  

「師匠!」

 鋼刃は再び絶叫した。人恋しさが一気に爆発した反動で、小一時間も泣いたろうか。泣いていても腹が減るだけだと諦め、鋼刃は眼帯で左目を隠す。

「これがなんだってんだよぉ」

 ぼんやりと曼荼羅を眺めながら、時は過ぎていく。

 腹の虫が鳴る。唾も出なくなってきた。

 寝てしまえば楽勝と思ったが、雑念が次から次へと湧いてきて目が冴えてしまい、眠ることすら困難になってきた。

 仕方がないので、曼荼羅にある点の数を数えることにした。同じ模様がいくつあるか、同じ色の模様はいくつあるかなどを追っていたら、恐怖が和らいできたことに気づき、穏やかさに包まれていた。

 やがて呼吸することすら忘れた。

 すると意識が全ての方向に向かって解き放たれていく感覚を覚えた。

 同時に、正体不明の何かが目の前にビジョンとなって次から次へと流れてくる。

 時には父と母が語りかけてくる。

 時には慶蔵と千晶が。

 そして今はまだ会ったこともない誰かが。(この中にりつこもいたはず)

 これは鋼刃にとって極めて刺激的で、ずっとこのままでいたいと思った。

「鋼刃、蓋を開けるぞ。目を閉じておけ」

 不意に聞こえた慶蔵の声で、鋼刃は現実に引き戻された。

 終わったのか。 

 不思議な感覚を得てからはあっという間だった。 

 気分はすっきりしている。早く出たい。すぐ体を動かしたい。

 俺は生まれ変わった――。



「それはそうと、りつこ様、あなたにぞっこんみたいよ。瑠々ちゃんもだし、鋼刃さん、モテるわね」

 莉加に言われて、はっとした。

「そ、そんなことないっすよ」

「なんだろうね? 不思議な魅力があるんだよね」

「何言ってんですか」

「私も鋼刃さんに惚れちゃいそうなんだ」

 鋼刃はぎくりとした。これはモテ期到来ってやつなのか? 今はそれどころじゃないはずなんだけどな。

 すると、莉加は愉快そうに笑い声をあげた。  

「安心して。私はしっかりとわきまえてます。鋼刃さんとりつこ様の邪魔は致しません。なんなら瑠々ちゃんにもしっかりと言い聞かせておきますから」

「はあ……」

 ウニモグは山道を抜け出ると、市街へ向けてさらに加速する。道行く人が目を見張り、寸詰まりな巨体を指さしている。

「ところで、あのぉ、莉加さんって何歳?」

「二十六歳よ。鋼刃さんよりずっとお姉さんね」

 ずいぶん大人びているとは思ったが、そんなに離れているのか。莉加の横顔をしげしげと見つめてしまう。

「え? なに? 鋼刃さん、私に靡いちゃった?」

 からかわれて悪い気がしないのは、それだけ莉加が魅力的だからかもしれない。

「莉加さん、俺のこと鋼刃さんって呼ぶのやめてください。なんかむず痒くて」

「だめだめ。だって鋼刃さんは私の大切な方々のボディーガードなんだから。けじめはつけないと、ね?」

 ううん。ってことは、莉加さんは冗談で気がある素振りしてるに過ぎないってことか。ちょっとがっかり。

「あ。じゃあ、こうしよう。鋼刃さんがりつこ様に振られたら、私があなたの恋人に立候補する。そうしたら鋼刃って呼ぶわ。それで、どう?」  

 それって、俺がりつこに振られる前提なわけな。

 悲しいような嬉しいような。

 鋼刃は思い切りかぶりを振った。

 ええい。何考えてんだ俺! 浮かれてんじゃねえぞ。

 さらに公道を走る。百メートル先の交差点手前に、深町の運転するセンチュリーの後姿が見えた。

「追いついたわ」

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