転生したらば龍か虎か、はたまた猫か

Rin

プロローグ : 猫を拾えば

碌な大人にはならないだろうとは思っていたが、まさか自分が極道になるなんて思ってもみなかった。夜は長く、酒は濃く、黄昏れながら昔を思い返す。ソファに深く沈むと、腕の中で「ミャ」と愛猫が短く鳴いた。愛らしいその虎柄の額を撫でてやると、彼は気持ち良さそうに目を細める。


周辺では割と有名な進学校に通っていた俺は、とても単調な日々を苦痛に感じて、淡々と過ぎていく日々に何の価値も感じられないと嫌気をさしていた。こうして高校を卒業し、大学に進学して平々凡々に就職する、想像してはあまりにも刺激がなくてゾッとした。かと言って、何かやりたい事があるわけでもないから、ただ流されるままに生きていた。


そんな俺が帰り道の河川敷を歩いていた時、ふと喧嘩を目撃した。治安の悪いこの街で、喧嘩なんて日常茶飯事、珍しい事はひとつもない。いつもなら、あぁ、馬鹿がまた何かやってんな、程度に頭の片隅で一瞬だけ考えて通り過ぎるのだが、その日は違った。工業高校の生徒同士の喧嘩だったのだが、その中のひとりに目を奪われた。黒髪の短髪で、額が見えているのは男らしくて涼しい印象を与えるその男。一文字の凛々しい眉と、目付きが悪いと言われそうな切長の瞳、骨格がしっかりしていて背も高い。男はまるで総合格闘技を習っているような身のこなしだった。ボクサーのように軽く受け流したかと思うと、自分より一回りもデカい男を投げ飛ばし、絞め技をかけて落としてしまう。


男は圧倒的に喧嘩が強かった。あまりにも輝いて見えた。相手を全員ノした後、共に闘っていた不良と呼ばれるような見た目の友人達とハイタッチを決め、相手の財布から札を抜き取って走り去った。暴力に沈めた挙句、金まで奪うとは何とも無慈悲で圧巻だ。


それから俺は、度々河川敷で開かれる連中の喧嘩を眺めるようになった。いや、正確に言えば、その彼の喧嘩を眺めるようになった。爽快に人を殴り、真正面からぶつかるその姿。いつか俺も、あんな風に喧嘩をしてみたい、そう思った。


だから、「なぁに見てンだよ」とその彼に因縁を付けられた時は心底身震いした。殴り合いになって、互いに何処かしらを怪我して血を流すが、どちらかが膝を付くまで殴り合う事が暗黙の了解だったように思う。


だからスッと入れた左ストレートが、男の右眉から目尻にかけて見事に当たった時は、正直勝ったと思った。心の中で歓喜してしまったほどだ。パックリと肉が裂け、血が溢れ、ゆるりと血が滴って頬を伝い、顎から白いシャツへと流れて赤いシミを作る。男は俺を睨み付けた。瞬間、ぞわりと背中が粟立った。妙な感覚が体中に走ったのだ。言語化できないような感覚で、言いようのない興奮、と言うべきか。戸惑った俺の隙をついて、男の拳が躊躇なく鳩尾に入った。胃の中の物を全て吐き出した俺を見下ろして、男は小馬鹿にしたように鼻で笑った。



「きったねぇ」



男は眉から血を流したまま、咳き込む俺を横目に財布から万札だけを奪った。



「貰ってくぜ」



去って行く男の背中を見ながら、空になった財布を手に取った時、自分でも不思議なくらい頬が緩んでいた。俺は、喧嘩で負けた。鼻で笑われて、金も抜かれた。なのに、俺は今が一番楽しいし、興奮してる。


退屈した日々のちょっとした刺激、最初はそう思っていたが、それはあまりにも依存性が強かった。俺にとってはあまりにも眩しい光なんだと気付いた頃には、もう後戻りなんて出来なくて。こんな風に暴力の世界に沈んでいくのは、なかなか最高だと思うようになってしまうほどには、俺は彼に感化されていた。


俺はその日から男を見つける度に喧嘩を吹っかけた。ある日、互いに鼻血を流し、男は手の甲で血を拭いながら言う。



「お前、そこの進学校の生徒だろ…? なんで喧嘩なんかしてンだよ。しかも強ぇし。なんなの、お前」



俺は制服の土埃を払い、少し離れた所に置いていたジャケットを羽織りながら答えた。



「なんでだろうな。刺激が欲しいから、だろうか」



「なんだそれ」



「あんたもそうなんじゃないのか。刺激が欲しいから喧嘩を続ける。勝った時の快楽を得る為に、相手を殴り続ける。違う?」



男は少し考えるように首を傾けると、「ま、そうかも」と鼻血を流しながらあっけらかんと肯定した。



「喧嘩してる時だけは、すげぇ生きてるって感じするよな。きっと俺は昔のコロッセオ? とか言うところの戦士の生まれ変わりなんだよ」



男からコロッセオというワードが出てくる事にも驚いたが、何より、生まれ変わりなんだ、と真面目に言うあたりがとても意外だった。輪廻転生を信じているのだろうか。極楽も地獄も信じておらず、死に対する恐怖すら無さそうなのに。



「だから、戦いが好きだと、そういう事?」



「そ」



男は頷く。俺は少し想像した。



「コロッセオの剣闘士が現代に男子高校生として転生したら、あんたみたいな荒くれなんだろうか」



「そりゃそうだろ!」



男はケタケタと白い歯を剥き出して笑った。彼と話す度に、色々と新しい発見があった。彼は案外、お喋りだという事、転生だののファンタジーが好きだという事、よく笑う事、そして笑うとやけに甘い顔になる事。彼と喧嘩して、喧嘩の後の静かな時間をふたりで過ごし、互いに他愛もない事を話す、そんな時間だけが何だか心底落ち着く事ができて、心地良くて好きだった。


でも男はほどなくして姿を見せなくなった。毎日がまためっきりつまらなくなって、俺は学校をサボって街をふらつくようになっていた。連絡先なんて交換するような関係じゃなかったけど、会えなくなるなら交換しておけば良かったな。毎日、ひたすら同じ後悔を繰り返す日々を送っていた。


そうして数ヶ月が過ぎたある日、男を繁華街で見つけた。男は真っ黒なジャージ姿だった。隣を歩いていたのはこの街の極道だった。その極道はどうやら橙虎組のようで、彼はパシリのように扱われていた。見るからに末端のペーペーだ。でも、なんだか全てを覚悟したような表情は、とても格好良く見えたのだ。彼のいる世界は、俺にとってはどうやら、ギラギラと心を奪われるほど輝いて見えてしまうらしい。


俺はその時、思っていた。男とまた視線を交わせる。話せる。近付ける。刺激的な世界に、俺はまた沈める。


俺は、何の躊躇いもなく一線を超えた。


だから久々に男と再会した時、同じ世界でまた拳を交える事ができると、俺は心底興奮していた。そんな俺とは裏腹、男は俺を見るなりギョッとしたように目を見開き、『何でお前が』と口に出さなくても伝わるほど、顔に出していた。



「うちのシノギ、邪魔してんのはあんらだろ。良い加減、汚い真似はやめてくれないか」



「何の事か分かりませんなぁ」



この街にはふたつの極道組織がある。ひとつは、男が盃を交わした橙虎組。そしてもうひとつは俺が盃を交わした龍桜会。両組織共に、この街を仕切る一本独鈷の極道組織である。長年の敵対関係で、顔を合わせればバチバチと火花が飛ぶのが常なのだ。互いの兄貴分が言い争っている中、男は眉根を寄せて俺をじっと見ていた。俺もまた眼鏡越しに、男の瞳をじっと見つめていた。久しぶり、そう心の中で呟いて口角を上げると、男の眉間の皺が更に深くなる。


何度か男とは街で顔を合わせるようになり、男がケツモチしているバーの近くを何度かウロつくようになった。ウロつくという表現は良くないか。そのバーの隣にあるビルは龍桜会の所有で、建設コンサルタントのフロント企業が入っている。だから俺はたまに顔を出していた、というのが真相。でも男はそんな事など知らないから、俺と目が合う度に「もう来るな」と吐き捨てるのだ。


俺はそれに軽く笑みを落としながら無視していたが、ある日、そのバーとビルの前で若いのが殴り合いの喧嘩になった。龍桜会の若いのが2人、橙虎組の若いのが3人。俺は咄嗟になって間に入るが、勢いは止まらず、そのうち男もその喧嘩を見つけて入ってくる。仲裁に入ってくれるのかと思ったら、男は何の躊躇いもなく俺の顔を殴りやがった。それには俺もとんでもなく腹が立った。そうなりゃぁもう大乱闘。俺も男もまだまだガキで、血気盛んだった。先に喧嘩してたやつらを若いなんて言ったが、歳はそれほど変わらない。


収拾つかなくなって互いの兄貴分が登場し、なんとかその場は収まったが、俺も男も興奮したまま引き剥がされた。俺は病院で軽く治療してもらい、その帰りに、あの河川敷に足を運んでいた。理由なんて特にない。気付いたら、あの河川敷にいたのだ。芝生の生えた斜面に腰を下ろして、黄昏れるようにぼうっとしていた。優しい風の音と共に、静かに近付いてくる足音が聞こえてふと振り向く。同じような怪我を負った男が立っていた。怒りも興奮も遠に消えていて、俺はひらりと手を振ると、男は開口一番、「お前は極道に向いてない」と隣に腰を下ろす。



「何故?」



「お前みたいな頭の良いやつは、とっとと極道なんか辞めて都会に行っちまえば良いんだよ。わざわざ短命なこの世界に居座る必要ねぇだろ」



俺はじっと男を見つめた。「心外だな」そう呟いて、男の方に体を向けると、男は怪訝に眉を顰めて少し体を後ろに倒す。少し近付きすぎたろうかと寂しい気持ちになったが、俺は構わず更に近付いて、シャツのボタンに手を掛けた。



「な、なんだよ…」



どぎまぎと動揺する男の前で、シャツのボタンをひとつ、ひとつと外して胸元を見せる。男の視線はゆるりと胸元に移り、ソレを捉えると、目付きの悪い切長の瞳がこれでもかと言うほどに開かれる。あまりにも驚いて、言葉を失ったらしい。だから俺は首を傾けながら口を開いた。



「墨、入れたんだ」



「…い、色まで入ってンじゃねぇかよ」



「俺はこの世界で死ぬつもり。あんたがこの世界で死ぬ覚悟なら、俺もそうしたいと思ったんだ」



「意味が分からねぇ。…俺のせいみたいに言ってンじゃねぇぞ」



「せい、とは言ってないだろ。あんたのお陰で刺激的な良い毎日を送れてるって言ってんだよ。だから感謝してんだ」



男は複雑そうに顔を顰めた後、俺から視線を外して、川の方へと視線を移した。



「………背中にも入れてンのか」



「あぁ。とは言え、まだ筋彫りだけど」



「何を入れてんの」



「内緒。でも、いつか見せてやるよ。だからその時までは教えない」



「…あ、そ」



男は再び俺と視線を交わすと、ふっと鼻で笑う。揶揄うような、乾いた軽い笑みだった。少し伸びた黒髪が風で揺れ、男はまた川へと視線を移した。その切長の瞳も、形の良い鼻筋も、少し厚みのある唇も、男を形取る全てが全て輝いて見えた。凛とした横顔を見て、俺は何と刺激的な世界に落ちたのだろうと思った。男にとって俺は敵となる組織の人間ではあるが、この狭い街のイチ極道同士、殴り合うだけじゃなく、たまにはこうして肩を並べるのも良いだろう。



「いつか、俺達は殺し合うのだろうか」



ぽつりと漏れた言葉に、男は淡々と涼しげに答えた。



「お前が龍桜会でいる限りは、そうなんじゃねぇの。いつかその時が来たら、俺は組の為に動く。相手がお前であっても変わらねぇよ」



「そりゃそうか。当たり前の事を聞いたな」



キラキラと夕日が川の水面に反射する。男はそっと俺の方に顔を向けた。



「だから、それまでには見せろよ」



「…え?」



「背中の墨」



男と視線が交わると、じわりと心の奥底が温かくなる。ゆるりと口角が自然に上がっていた。



「…あぁ、そうだな」



ボタンをひとつひとつと留めていく。あんたの背中には一体、何が入るのだろうか。それもまた、殺し合うまでには見せてくれるのだろうか。そうだと良いな…。


あの日、俺は温かい風に吹かれ、静かな川を眺め、男の隣でうんと伸びをして、覚悟を決めた。この男と共に、この街の極道として骨を埋めよう。



「ミャーン」



腕の中で欠伸をした愛猫とカチリと視線が合う。彼の喉を撫でながら、つい頬が緩んでいた。この愛らしい猫を拾ったのは、男が血を流して倒れたあの路地裏だった。コンクリートにこびりついた血は、その夜の大雨で全て流れたらしいが、猫にはまるでその血痕が見えているようだった。真っ白な前足でちょん、ちょんと何度も触っては、訝しげに顔を傾げていた。まるで、自分はここで倒れたはずなんだが、と言うように。


俺は少し期待してしまうのだ。この世に、転生があるのなら、この猫はあの日に刺されて倒れた彼なんじゃないか、と……。


いつからそんな夢想家になったろうか。鼻で笑ってしまう。ウィスキーのストレートで喉を焼き、俺は愛猫を抱えたまま潰れるように眠りについた。


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