袋小路の鷹
砂張 悟
戸口の猫
第1話
よく働き、よく食べ、よく寝る。生活の良好さゆえに男の顔色は良く、また、所作には品があった。それは彼が投資で”一山”当てて悠々と暮らしていることとはさほど関係がなく、単に生来の気質であった。
男は齢三十となった去年に、地元である南関東の静かな地域の平屋を買って、広い庭に小さな畑を作り野菜と果物を育て、柴犬を飼った。定職には就かず、彼はそこを自宅としながら、また、職場としながら生活を送っていた。
秋の朝。まだ新しいダイニングテーブルに置いてあったマナーモードのスマートフォンが震えたことに気付いたのは、柴犬の『カン』だった。カンがそれを知らせるように吠えてみると、飼い主の男は畑に水をやることを中断し、サンダルを縁側で脱いで、リビングに戻ってその電話に出ることができた。
「はい。鍛代興信所です」
男は、名を
「まだ見つからないのか?」
「ええ。現在捜索中ではありますが……」
「困るよ! 今日中に進展がなかったら、依頼は打ち切らせてもらうぞ!」
「かしこまりました。尽力いたします」
鍛代が言葉を述べ切る前に電話は切れていたようで、リビングに小さな溜息が漏れた。カンは飼い主の曇った顔を見つめて尾を振っていたが、慰めではなくただの空腹であった。
(猫一匹見つけるって、簡単じゃないな)
犬のドライフードをキッチンスケールで計り、皿に盛りながら鍛代は考えた。以前にも同じような依頼を受けて簡単に解決したことで、迷い猫探しを甘く見ていたか。成功報酬の契約とはいえ、元より無理な話を請け負ってしまったのではないか。
飼い犬の定量の食事を盛った皿を定位置に置く定刻。カンはそれをいつものように食べ始めるが、そのように容易に実現されるプロセスと本件の差異を感じるとまた溜息が出る。
当然、彼は彼で何もしていないわけではなく、依頼を受けた一週間前から足を棒にして探し回っており、事態の「幅」も想定して、保険所が回収した猫の遺体も漏れなくチェックしていた。まず、飼い猫がそう遠くに行くはずがない。この小さくて平たい町でそれを見つけることは容易いであろうとタカを括っていた。その結果が二週間で収穫ゼロの現在である。
飼い犬が空腹を満たすのを眺めている間に自身の空腹を知覚した鍛代は、朝食を喫茶店で摂ろうと考え、その辺りに出る用の服に着替えた。玄関を出てスマートキーで車のロックを解除しながら、ふと、何にも困っていないはずの自分が、何故こんな仕事をしているのだろうかと考えてしまう。
しかし、彼の彼らしさ、彼が彼である所以は、そこで落胆や物思いに耽るに至らないことであった。地域の人たちの笑顔が見たいという、たったそれだけの結論で気を引き締め直すと、彼は車のエンジンをかけ、走り出した。彼は、ただの善人であった。
国道の大通りから、それよりも少し細い道へ曲がる。視界に入るのはすぐ近くのガソリンスタンド、遠くの歩道橋、そしてその間にある小さな【喫茶 紅葉】という看板。鍛代はその小さな看板を曲がって広い駐車場に車を停めた。辺りの静かな風景に足並みを合わせるような、その主張の強すぎないレトロモダンな外観の建物が彼の行きつけの喫茶店であったが、彼はそれを「もみじ」と読むのか「こうよう」と読むのかについて考えたことがなかった。
入り口のドアを開けると、カランカランとベルが鳴り、濃い目のコーヒーの香りが鍛代を包んだ。地域住民に愛されているこの喫茶店は、本日も朝より繁盛しているといったところで、席は八割ほど埋まっていた。
おひとり様ということで、鍛代はいつものように窓際のカウンター席に通される。そしていつものようにホットコーヒーのモーニングセット付きを頼み、持参した仕事用のノートパソコンを開いた。
鍛代は、捜索を進めていく中で猫の習性を見つめていた。たとえば野良猫は、そこかしこに居るように見えてそうではない。食べ物にありつけて、他にも野良猫がいるような場所にいる。捜索対象である逃げ出した飼い猫が、辺りの野良猫たちと一緒にいるのではないかと予想した彼は、近隣の『野良猫スポット』を把握して日夜チェックし続けている。そうして今日もパソコンで野良猫スポットにピンを立てた地図を見ながら眉間に皺を寄せていると、コーヒーが運ばれてきたわけではないというのに、彼に話しかける声があった。
「猫を探しているのか。カジ」
声の主は左隣の席に座っていた男だった。男の正体について、鍛代は席についたときに気が付かず、また、声を聞いただけでも気が付かなかっただろうが、その呼び名で気が付くのであった。彼をカジと呼ぶのは、この世でただ一人であったからだ。
「──三尋木君?」
「高校以来か。帰ってきているなら、連絡をくれてもいいのに」
「久しぶりだね! いや、変わったね、見た目が!」
「君は変わらなさすぎだ」
思わぬ再会に鍛代のテンションは高揚した。その黒の長髪の男、
「ごめんごめん、地元の友達には全然連絡してなくてさ。それに、三尋木君は忙しいかなって」
「忙しいもんか。毎日退屈で、怖いくらいだ。積もる話はさておき、どうなんだ? 盗み見たつもりはないが、そのパソコンの地図が見えてしまった」
「ああ、そうなんだよ。君の言うとおりだ。でもなんでわかったんだ?」
「ピンの立っているポイント、公園だの駐車場だのが多いだろう。それが僕の脳内にあるこの町の野良猫マップと一致しただけだ」
「脳内の野良猫マップって」
三尋木は推測が的中したことに満足したのか、鋭かった目つきを変えて目の前の甘くしたコーヒーを飲み始めた。思わぬ再会は思わぬ指摘を伴ったが、鍛代はこの『調子』をとても懐かしいと感じた。
「訳あって、逃げ出した飼い猫を探しててさ」
「なるほど。すまない、探偵には守秘義務があるというのに」
「え? 俺まだ言ってないよね、探偵始めたって」
「今のはカマをかけただけだ。君、向いていないんじゃないか。探偵には」
「はは、やられた。でも確かに、向いてはいないだろうなぁ」
この『調子』である。鍛代にとって、初めて三尋木と言葉を交わした小学四年のあの頃から、この『調子』はずっと変わらないものであった。部活が一緒だったわけでもなければ、趣味嗜好が似通うわけでもない。帰り道が途中まで同じで、訳あって言葉を交わし、いつの間にか仲良くなり、中高では六年間ずっと同じクラスであった。大学進学を機にお互いがあまり連絡を取らなくなった、そういった、よくある関係性である。
三尋木は続けてたずねた。
「広範囲を探しているようだが、飼い猫がそんなに遠くに行くだろうか」
「俺もそう思って、近くを念入りに探しているんだけどさ。猫って隠れるの上手いからか、全然見つからないね」
「なるほど。ではきっと、人間に連れていかれたのだろう」
「……あ、その線があったか」
「やはり君は、探偵には向いていないな」
鍛代は、これまで溜息しか得られなかったこの依頼の進展を確かに予感しながら、コーヒーにミルクを入れてみて、スプーンでくるくると混ぜた。
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