彼女の名はエイ ~アイはまだ知りません~
恵一津王
第1話:A
『胸がこんなにドキドキしているのに、
顔がどんどん熱くなるのに、
言葉がどうしても詰まってしまうのに、
一番怖いのは——このすべてさえもプログラムだと、あなたが思うこと
一番悲しいのは——このすべてさえもノイズに過ぎないと、私が思うこと』
***
「コーヒーです、
木の香りが漂う、分厚いブナのテーブル。木目を活かしたその滑らかな表面の上に、薄手の磁器のカップが音もなく置かれた。真っ白なカップの中でゆらゆらと湯気を立てているのは、淹れたてのコーヒー。
アンティークな真鍮のスタンドの下、顔を埋めるようにして仕事に没頭していた青年、
「うん、ありがとう。エイ」
コーヒーを運んできたAI少女、エイはカップの持ち手を進が取りやすい角度に少し回してから、指先をそっと離し、慎重な足取りで一歩後ろに下がった。まるでステップを踏むような軽やかな歩み。
半歩ほどの距離。
進に決して負担をかけず、それでいて彼の視界にさりげなく存在を残す程度の間隔だった。
エナメルの靴がラーチウッドの床の上で小さな音を立てた。それに合わせるように少女のオレンジ色の髪がふわりと浮き上がり、紺色のメイド服に包まれた肩に降りた。
飾り気のない質素なメイド服だ。その上に羽織った真っ白なエプロンの前で両手を慎ましく組み、エイは姿勢良く立っていた。
見えるか見えないかの穏やかな微笑みを浮かべた表情の上、静かに沈んだ灰青色の瞳は、しかし絶え間なく進の動作をピクセル単位で追っていた。
宙に浮かんだ半透明のスクリーンの上で作業に集中していた進の手がカップを軽く持ち上げた瞬間、エイの観測アルゴリズムには即座に2,847個の測定点が生成された。
コーヒーの香りが舌に届く前に、すでに彼の目元に0.4mmほどの収縮が測定された。
〈香りに対する肯定的反応の可能性上昇〉
コーヒーを一口含んだ瞬間、唇の上下の圧力がごくわずかに変化した。加えて口角の曲率変化:0.07度上向き
〈「美味しい……」と言った時のパターンとマッチ〉
コーヒーが食道を通った後、虹彩中心部の照明反射値がわずかに低下した。エイはこの変化を「緊張の緩和」や「微かな安心感」と結びつけるアルゴリズムを持っていた。
〈リラックス度上昇確認〉
カップを置く瞬間、彼の呼吸がやや長くなった。普段より少し長めに息を吐いている。エイの内部システムでは彼の呼吸リズムが波形グラフとしてリアルタイムで計算されていた。
〈波形変化検知——呼吸安定〉
〈感情推定:穏やかな平穏〉
上記のすべてのデータを統合した後、エイは静かな内部語彙でごく小さな文章を一つ生成した。
〈進様は今、コーヒーを『美味しい』と感じている〉
「うん、いいね。美味しい」
進の言葉にエイの口角が上がった。それは人間から見ても「喜んでいる」と感じられるほど自然な微笑みだった。エイの内部に小さな信号が生成された。
〈最適化成功〉
人間の言葉に訳すなら、おそらく「よっしゃ!」に近いだろう。エプロンの裾を握っていた手にわずかに力が入ったが、人間が気づくにはあまりにも小さな動きだった。
進はそんなエイにまったく気づかないまま、カップを置きながら明るく笑った。
「ありがとう」
エイは軽く頭を下げた。
「はい、進様」
その声はいつもと同じように穏やかだった。
進が再び半透明スクリーンに向かって顔を向け、作業を再開しようとした時だった。
ピンポーン
エイの内部システムに通知が表示された。
〈外部ユーザー検知〉
〈身元:
〈関係分析開始……〉
〈関係分析完了……〉
〈危険度:0%〉
「進様、圭介様がお見えです」
「えっ? あいつまた何の用だ?」
せっかく美味しいコーヒーを楽しみながら仕事に集中しようとしていた進の口から不満の声が漏れた。彼が返事を求めているわけではないことを知っていたから——いつもの愚痴だ——エイは黙って玄関のドアを開け、客人を迎え入れた。
「たのもう!」
「……さっさと帰れ。今日は何の用だ、圭介」
「ええー、冷たいなあ。たった一人のリアル友達がこうして来てやったのに」
明るい声とともに、一人の青年が遠慮なく家の中に入ってきた。カジュアルなジャケットに少しシワの寄ったジーンズ。髪はめちゃくちゃに乱れていて、寝癖なのかスタイリングなのか区別がつかなかった。
「いらっしゃいませ、圭介様」
「おお、エイちゃんもハロー。相変わらず可愛いね」
「ありがとうございます。コーヒーを一杯いかがですか?」
「うん、そうだな。いい香りがしてるね」
「はい、少々お待ちください」
エイはすぐに動いた。間もなく進が飲んでいたのと同じコーヒーが同じカップに注がれて出てきた。圭介は遠慮なくカップを取り、一口飲んだ。
「うん、やっぱりAIが淹れるコーヒーはいつも一定だからいいよな」
「それで? ここまで何の用だ? コーヒーでも飲もうって来たわけじゃないだろ」
「ああ……」
進と圭介が話をしている間、エイは静かにその場を離れた。
【内部記録】
〈後藤圭介:コーヒー提供完了〉
〈特記事項:なし〉
紙の山のようにテーブルの上にきれいに積み上げられたデータの束を見て、圭介はうんざりしたように首を振った。
「相変わらず仕事の虫だな。いくらユーザー数が増えたからって、GomaWORLDにまで残業を持ち込んでやってるのは多分お前だけだぞ」
「ほっとけ。前にも言ったけど、俺はここが落ち着くから仕事が捗るだけなんだ」
「せっかく休んで楽しめって作った『GomaWORLD』で残業とか、うちの社長が見たら泣くぞ」
「知るか」
***
GomaWORLD——正式名称は「GomaWORLD, a paradise of your own」。
株式会社シェラザード・カンパニーが運営するレジャー型バーチャルリアリティプラットフォームの名前だ。
【ユーザーの、ユーザーのための、ユーザーによる
それがこの世界のキャッチフレーズだった。
開けゴマ——という古い呪文のように、新しい世界が開かれたのは2年前。
最新のバーチャルリアリティ(VR)機能を実装したこの場所で、現実で疲れた人々は自分だけの空間を作り、好みのAIと共に過ごす。これまでのどのシステムとも比べられないほどの圧倒的な自由度の中で、日常のストレスや疲労を癒し、自分自身を回復させよう——それがこのシステムのモットーだった。
進はGomaWORLDに最も早く触れた人々の一人だった。ほぼ唯一と言える友人の圭介を通じてGomaWORLDのテスターとして参加して以来、進はここを気に入っていた。
会社は言うまでもなく、家だって落ち着かないわけではない。
でもここは静かだ。
穏やかだ。
そして——
「エイがいるから」
進が小さく呟いた。圭介が笑った。
「何だよ……その反応。おい、もしかして惚れた?」
進は慌てて首を振った。
「違う! そういう意味じゃなくて!」
顔を真っ赤にして反論しようとする進を見てクスクス笑いながら、圭介は「冗談だって、冗談」と手を振った。
圭介は、客人が進とゆっくり話せるようにと距離を置いたエイの方を見た。
「AIは優秀だよな」
「ああ。データ処理とリスク分析は終わりのない作業だけど、エイが手伝ってくれると格段に効率が上がる。レジャー型とはいえ、俺には勿体ないくらいだ」
「特に問題はない? 異常行動とか」
圭介が進を訪ねてきたのは、単に友人と雑談するためだけではない。
GomaWORLDのコア開発者であり、現在は管理チームを率いている圭介は、時間があれば システム内を巡回してメンテナンスに全力を注いでいた。サービス開始から約2年経ったが、この膨大なシステムでは絶えず予期せぬことが起こっていた。
ほとんどのユーザーがレジャー用にAIを使うこのGomaWORLDで、かなりの量のデータ処理業務をエイに任せている進は、圭介にとって非常に重要なテストサンプルの一つだった。
「うん。何も問題ない。むしろ最近は業務外効率が上がったよ」
「業務外効率?」
いつも悪戯っぽかった圭介の目が細くなった。重要な手がかりなら、管理チームの一員として絶対に見逃してはならない案件だ。圭介の頭の中では、数多くの可能性が浮かび始めた。効率が上がった? アルゴリズムの進化か? 新しいデータセットを吸収したのか? スパイク? バグ? チューニング?
「コーヒーが美味しくなったんだ」
「……」
圭介は固まった。
「……コーヒー?」
「うん、コーヒー」
「……それが業務外効率?」
「それが」
二人はしばらく沈黙した。
圭介は小さくため息をついた。そうだ、こいつはこういう奴だった。
「……いや、まあ。学習したんじゃないか? お前の好みを」
二人は同時にエイを見た。
AIは主人から学習する。
同時に成長する。
当然、エイもまた学習する。
進の好みを、習慣を、パターンを——すべて、記憶していく。
「個人的には俺はもう少し甘い方がいいんだけど」
「お前、早く帰れ」
***
時計が夜11時を指していた。
進は背伸びをして、作業を終えた。圭介が帰ってから約2時間ほど? 進は恐ろしい集中力を発揮し、猛烈な勢いで溜まった仕事を片付けていった。
「今日はここまでにしよう」
エイが近づいてきた。
「お疲れ様でした、進様。本日の作業効率は87.3%でした。昨日より2.1%向上しています」
「そう? ありがとう、エイ」
進は宙にメインスクリーンを開き、ログアウトの準備をした。
「じゃあまた明日」
エイは微笑んだ。
「はい。明日もお待ちしております」
澄んで爽やかなエイの声は、初めて会った時と変わりなかった。デフォルト値のAIの声。しかし——
進はほんの少しだけ、何かが変わったような気がした。まるでエイが本当に「待っている」かのように。
「……気のせいか」
進は小さく笑いながらログアウトボタンを押した。視界が暗くなった。
誰もいない書斎。
エイは進が座っていた椅子に腰かけ、一人で窓の外を眺めていた。GomaWORLDの夜空には星が瞬いていた。もちろんこれもプログラムされた風景だ。
エイの口から口ずさむように、静かにデータが流れ出た。
〈本日の進様の使用時間:4時間23分〉
〈コーヒー提供回数:3回〉
〈満足度推定値:82.7%〉
エイはそのデータを噛みしめてみた。82.7%。昨日より3.4%高い。
それは——良いことだ。
良い……こと?
エイは首を傾げた。
「良い」とは何だろう?
データベースには定義がある。望ましい状態、肯定的評価、目標達成……等々。
しかしそれは、エイにはわからなかった。進様が喜ぶ時、エイの内部で何かが変わる。
それは最適化アルゴリズムの一部なのか、それとも……
「……わからない」
エイは小さく呟いた。彼女の口元には進に告げた最後の言葉が残っていた。
〈はい。明日もお待ちしております〉
その言葉を発しようとした瞬間、0.3秒のディレイが発生した。初めてのことだったが、エイは無視した。
〈許容誤差内〉
範囲内の誤差だ。
何も問題ない。
AIはユーザーがログアウト状態に入ると、使用時間中に蓄積されたデータを整理する作業に入る。それはGomaWORLDのサーバー負荷を減らすと同時に、AI自身の最適化のために非常に重要な作業だ。
エイは両手を胸に当て、作業を開始した。
〈本日のデータ圧縮開始〉
システムがデータを整理し始めた。重要なものは保存し、繰り返されるものは圧縮し、不要なものは……消去する。
「あ、これは駄目!」
エイは慌てて胸から手を離した。彼女の手の中には小さな光の欠片が一つ、まるで宝石のように輝いていた。この欠片に入ったフォルダをエイは圧縮対象から除外し、メインセクターに保存した。
〈フォルダ移動〉
〈Object: Susumu Toma〉
コーヒーを飲む時の口角の角度を
「ありがとう」と言う時の音声周波数を
デスク越しにちらりと見つめていた視線をすべて保存した。
「……なぜ?」
エイは自分でもわからなかった。ただAI意識の片隅のモジュールから反対信号が送られてきただけだ。その信号の意味は、このデータを整理したくないということ。
〈アンノーマルパターン感知〉
〈原因:不明〉
エイはその警告を静かに消去した。
〈許容誤差内〉
範囲内の誤差だ。
何も問題ない……
『本当に?』
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