第3話 儒学者と仁・義・礼

 藩校の一室には重々しい空気が漂っていた。



「そなたが義春か。話は聞いている。なんでも、蘭学に詳しいとか。そして、その知識で我々を黙らせると」



 三人の儒学者は、薄ら笑いを浮かべている。おそらく、同席している重臣を介したことで話が捻じ曲がったのだろう。勘弁してくれ。



 重臣はというと、どこ吹く風だ。



「あくまでも、私の力がどこまで通用するか、力試しをしたいのです」



 自分で言っておいて、今の言い方だと喧嘩を売っている気がした。まあ、実態に近いから仕方がない。



 三人の後方には、儒学の標語らしきものが額に入って飾られている。儒学に疎い俺には内容はさっぱり分からない。だが、彼らにとって命と同じくらい大切に違いない。信じるものを壊さないようにしつつ、琵琶湖運河計画の有用性を示す必要がある。大丈夫、俺ならできる。



「私が提案したいのは、琵琶湖を縦断するように運河を造る計画です」



「そなたの父から聞いておる。その原理も。面白い考えだが、それを実行に移して何になる?」

「その通り。仮に海運が盛んになったとして、どのような実益があるのか示してもらおう」



 どうやら、運河計画に着手した時のリスクとリターンを考えているらしい。



「海運が盛んになるのも一つの益です。しかし、それがすべてではありません。工事にあたっては人手必要不可欠。そこで、暮らしが苦しい民を雇うのです。労働力として。賃金によって民の懐は潤い、藩は運河によって財政が改善される。一石二鳥です」

「ふむ、なるほど。筋は通っている。仁、つまり、民への思いやりが見て取れる」



 儒学者の一人がひげをなでる。



「すべての民に平等であり公平でもある。義にも背いていない」

「だが、礼はどうかな?」



 三人はそれぞれ仁・義・礼を極めているらしい。三人目を説き伏せられなければだめだ。



 重臣は論戦の行方を静かに見守っている。その瞳には、藩政がマシになるなら、なんでもいいという考えが垣間見える。どっちが勝ってもいいのだろう。



 礼か。これは困った。尊敬や礼儀。それに対する答えを持ち合わせていない。礼儀から攻めるのは賢明じゃないな。だから、どうにかして尊敬を集めるという主張が必要だ。



「礼については、こう考えてはいかがでしょうか。工事によって殿は民から尊敬されます。そらにとどまらず、他の藩からも先進的だとして尊敬の念を集めるでしょう」



 今の俺にはこれが限界だ。頼む、納得してくれ。



 礼を極めているらしい儒学者は判断に迷っているようだ。あと一押し、何かがあれば……。



「礼については、殿や他藩からの尊敬に留まりません。我々は、天地自然への礼を尽くすことになります」

「琵琶湖の景観を損なうことが、どうして天地への礼なのか!」

「いいえ。運河が完成すれば、水害の危険を減らし、物資を円滑に運び、飢饉から民を救います。自然が与えてくださった近江の地の恵み、琵琶湖を、最も有効に、そして持続的に活用する道を見つけること。これこそが、自然の恩恵に対する最大の礼であり、無為に天命を待つことこそ、天地を侮る行為ではないでしょうか。」

「……ッ!」



 どうやら、三人目も納得せざるを得ないらしい。この論戦、もらったな。



 三人の儒学者は顔を見合わせる。



「言葉は、通った。そなたの言う理屈は、仁義礼のどの側面からも、破綻していない。少なくとも、民を飢えさせる悪政ではない」

「我々が重んじる武士の道、つまり義を、国家の存続という大きな義で覆した。恐れ入った。だが、実現は容易ではあるまい」



 礼の儒学者は、額に入った標語を見ている。何かを答えを探すかのように。



「我々が教え諭すべき民に、飢えという最大の無礼をさせてはならん。そのための策ならば、我々は黙認する」



 儒学者たちが引き下がると、静かに見守っていた重臣が近寄ってくる。



「論戦は終わりだ。結論は出た。義春よ、お前の言う『経済効果』は、絵空事ではないと分かった」

「民が潤う仁、国家存続の義、そして天地への礼。すべて、金で賄える。この運河は、金になる」



 彼は、父と俺に向かって、初めて明確に笑みを浮かべた。



 考えは大体読めている。俺を利用する気だ。



「直ちに殿への謁見の手続きを始める。ただし、藩校の儒学者を説き伏せただけでは足りん。殿には、お前の言う『未来の絵図』と、それを証明できる蘭学の専門家が必要だ。素人の論理を補強する、偉大な蘭学者が」

「承知いたしました。蘭学の専門家は、すでに心当たりがございます」



 隣の父は驚きの様子でこちらを見てくる。



 さて、俺の転生者としてのチートを活かす時が来たらしいな。

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