人身冬蚕ヒトヤヤク
蟹谷梅次
第1話 冬蚕 トウゴ
春に飼育する春蚕、夏に飼育する夏蚕、秋に飼育する秋蚕・秋の遅くに飼育する晩秋蚕などがある。
では、冬に生まれた蚕はどうだろう。
平成十二年十二月二日。
岩手北部にある、平田養蚕場で冬場に蚕が生まれた。
その蚕はどす黒く、そして何より大きかった。
社長の孫である
この日は土曜日で、「
「いやぁ、それにしても寒いな。悪いね、上着貸してもらって」
従兄弟の
「人間困った時は助け合いだろ? それに、ほら、従兄弟なんだし。気にしない気にしない」
「かっくい〜」
孵化室の前で椅子が二つ。石油ストーブが一つ。
ふたりの手には腕があり、どうやら鍋でもつついているらしい。石油ストーブの上にはそれがあり、根野菜と鶏肉がうまい汁で煮込まれている。
「つーか冬蚕様ってなんなんだろうな」
「蚕ってたしか越冬するんだよな。卵で」
「ついうっかり冬に生まれるおばかさんがいるんじゃねぇの? 可哀想だからどうにかしてやろうというつもりで。人払いはなんだろうな……」
「探偵になっちゃおうぜ」
「蚕探偵かぁ」
面白そうだしやってみようぜ、とはしゃぎだしたその時だった。
孵化室の中からガタンという大きな音がする。
何かが落ちたような音だった。そして、蠢くようなズルズルという気配もある。「生き物でも忍び込んだか」と、餅が切れなくて困りだした真琴をそこに座らせたままにして、一郎は孵化室に入った。
昼間ながら薄暗く、陽の光が伸びるそこに黒い蚕がいた。
大きさでいえば一メートルほど。とても大きく、そして黒い。
複眼はたいへん赤く、触角は金色に輝いている。
「美しい」……そう思った。気がつけば腕を伸ばしており、それと触れた瞬間、両者の肉体が輝きを放ち始めた。
そして、黒く大きな蚕は一郎の身体の中に吸い込まれていく。
途端に呼吸が苦しくなって、扉にもたれかかるように倒れた。
真琴が異変に気づき親たちを呼ぶと、祖父は一つ「
しかし冬蚕様は決して良いものではなく、人の心の良心を食らいつくし、白い神になって冬が終わると死んでいく。
二十年前、平田養蚕場の従業員が人身冬蚕になり、崖から身を投げ姿を消したという。当時の新聞記事を取り出して、祖父が言う。
一郎の父が祖父に訊ねる。「死なない方法はないのか」と。
「こいつが底抜けに善人でなければ、ない」
祖父は絞り出すように言う。父は崩れるように座り込んだ。真琴はその様子を少し遠くから眺めて「じゃあ大丈夫だ」とだけ呟きながら。目をさまさない一郎の額をペチンと叩く。
「お前はなんでそういつも変な目にばかりあうのかな」
真琴は一郎のことを信じていた。
なにも最初からこうだったわけじゃない。東京生まれ東京育ち。両親が飛行機事故で亡くなって、一郎の叔父夫婦に拾われてから二年目の夏に二つの家族合同のキャンプで初めて一郎と出会う。
底抜けのバカだと思い、得体のしれない善人は気持ち悪かった。
だから最初は真琴もできれば一郎とは二人きりになりたくないなと思い、そういう場面を避けていたし、一郎もそういうのを察してか一人になっていた真琴を気にはするものの、声をかけるようなことは無かった。
ただ、ある出来事があった。
キャンプで初めて出会った次の日、海に行く事があった。
海沿いのコテージを借りて、一泊二日の海の会。そこでは敢え無く同室になってしまって気まずい空間に。
車内でも隣り合えば最大限の会話しかせず、食事中もそのような感じで、真琴はろくに一郎という人間を知る機会がなかったのだ。
ふと、容姿が特別可愛く髪も長くしていたせいもあって、ナンパを受けた。声で男だと伝えようとも、男女どちらにもいそうな中間ほどの声質だから説得力がないし「いっそチンポ出したろか」と考えても、なんだか相手方から「可愛けりゃ男でも」という雰囲気が伝わってきて純粋に逃げ道がなくなりそうで恐ろしい。
動けなくなった頃、左手に海の家で買い込んだ食い物を持った一郎がやってきて、真琴に駆け寄って、「おい! 海の家にパイナップルあるぜ! スイカもだ!! スイカ好きだったろ、スイカあるんだしスイカ行こうぜ」と強引に連れて行く。それがはじまりだった。
その日の晩に、一郎は真琴と一緒に誘拐された。
どうやら昼間のナンパ野郎は多少よろしくない人間だったらしく、一郎に腹を立てていたらしい。一番近くにあった山に連れて行かれ、そこで殺されかけた一郎には今もはっきりと傷跡がある。
最初は真琴を狙っていたらしいが、一郎がそれを許さなかった。
頑なに前に立ち、恐怖に怯えるように震えながらも退こうとしない。
心臓をナイフで二突き、肋骨は全て折れ、背骨は一本折れ、両腕を砕かれ、頭蓋骨は砕かれ、鼻は折られ、腸は少し腹から溢れた。
その状態で、頭ドイカレナンパ野郎は一郎を、痛めつけるので気が晴れたのか真琴を襲おうとするが、しかし運良くちょうど警察がやってきて、男はお縄となった。
普通は死ぬ大怪我。しかし、一郎は運良く生き延び、意識が覚醒すると、真琴はおもわず「逃げればよかったのに」と言った。
怖かったなら逃げてよかったのに、頑なに退かないからそういう怪我をして、運がよかったから生還できたけど、普通心臓二回刺されりゃ人は死ぬ。死んでまで守ったのが俺じゃ馬鹿げてる、と。
言葉が止まらなかった。飛行機事故で自分一人生き残り、両親揃って死んでしまったたのも重なってしまったのだろう。
「やっぱり俺は、馬鹿馬鹿しいか……?」
少し震えるような、痛みに耐える掠れ声。
一郎は傷口を痛まないように易しく撫でながら、言葉を続ける。
「でも、君が死んじゃあいけないじゃないか。生きてりゃきっと君の哀しみを全部綺麗さっぱり吹き飛ばしてくれるような奴が現れるんだぜ。俺にはそういうのはきっと現れないけど、でも、君は違うだろ」
「命をかけるようなもんでもないだろ」
「俺は昔から身体が頑丈なんだよ。ゲームみたいに言うけど、何をされてもヒットポイントが一つだけ残るようなやつでね、トラックで跳ねられて崖から落ちたときも、落ちてきた鉄骨に潰されたときも生きてたし、ほとんど完璧に治るし」
「人間じゃねぇのか?」
「俺は強いんだよな。だから目の前で誰かが困ってるなら、死にかけてでも良いからその誰かを助けたいんだよ。偽善的で気持ち悪いかもしれないけれど、ただ、誰かが泣くのを見過ごせないだけなんだ」
底抜けの善人。でもきっと自分のことは大嫌いなんだろう。
あの時、めざめた一郎にかける言葉が違っていれば、彼はどういう反応をしたのだろう、とたまに思うことがある。
「……おっ」
一郎の瞼が開いた。
「体調はどう?」
「恒常的な痛みと疲れがなくなりましたねぇ……」
「最高じゃん」
ムクリと立ち上がってみると、身体が軽い。一郎が「出てきなさい」と何処かに言うと、頭の上に手のひらサイズの黒い蚕が現れる。
「なっ……」
祖父が言葉を失う。祖母は腰を抜かす。
両親は「冬蚕様」とだけ呟いた。
「いろいろ話をして、協定を結んだ。この子の望みは白くなること。白くなれば神として空の国に帰ることができるから。で、俺の望みは……秘密で、とりあえず、友好的に接していこうやということになった」
「信じられるか! 一郎、そいつをこちらによこしなさい。殺さなければ、お前が死んでしまうんだぞ、お前が……」
「そこはもう、大丈夫! ね! 俺死なない! な、フユ」
フユと呼ばれた黒い蚕は触角をピョコピョコと動かした。
騒然としている中、真琴がフォローをいれるように口を開く。
「今回の冬蚕様がこんなんなんだろ」
「そう! やっぱり真琴、分かってる」
「だろ。でも人殺すのはどうなってんの」
「俺死なないから別に良いかって感じ」
「うわぁ……すっげぇ浅慮……」
そういう事で冬蚕様との共存が始まった。
人間の善良な心を喰らい、最終的に殺してしまう最低な怪異──冬蚕様いわく、このような人間に取り憑く怪異というのは、他にもいるらしい。
そのような怪異の力を食うことをすすめる。
一郎が「なぜ?」と訊ねれば、「君の心を喰わない変わりに」と。
ならやろうすぐにやろう、と一郎は跳ねて喜んだ。「冬蚕様に心を喰われないために」というもっともらしい理由があって嬉しかったのだ。
真琴はそれがわかり少し笑みを浮かべてから、「どうやって怪異の力を食うんだ」と訊ねる。答えは「戦って弱らせて、人間から分離させて食う」というものだった。なんと簡単かつなんと野蛮。
「お前大丈夫? 暴力的なの」
「……あんまり良くない……」
「だよなぁ……」
「でも、悪さをされて誰かが苦しむくらいなら、ね。あとは言わなくても分かると思うけどさ。そういうことだから、俺やるよ」
だが懸念もあるらしい。
「フユと対になる存在が同じタイミングで生まれていて、同じように人と共存を選んでいた場合が厄介らしい」
「なんで? 協力して勝利をもぎ取れよ」
「……ふむふむ。フユと対になる存在っていうのは、つまるところ、あんまりよろしくないらしい。フユはドストレートに特殊個体でこうやってある程度コミュニケーションが取れるけど、普通の冬蚕様とかそこら辺の蛾畜生は人を殺すことに快楽を覚えるタイプらしいから、最悪の場合が最悪の場合で……殴りまくり死にまくり……みたいな、あんな感じになる」
要するに、やべぇ奴らしい。
「命賭けだよ、本当だぜ」
「うるせぇなこいつ」
「まぁ頑張っていくんで……応援してくれたらな、と……」
「応援したい気持ちもあるんだけど、やっぱり素直に応援するのはダメなんじゃないかっていう気持ちも大きいかなぁ、いまのところは」
「だろうなって俺も思う」
「でもやるんだ」
「やるよ」
やらなくちゃならない理由を聞いたから。一郎はそういう男だった。
「きっとこれからもずっと『なんとなく生き残れる』という感覚を引きずりながら生きていくんだろうな」「きっと長生きだけはできない人間なんだろうな」と、そういう事を察せてしまう。
きっとこの男が死ぬ時は、誰かの前で死んでるんだろうなと。
その誰かが自分でなくても良いから、ただ簡単に自分の感情を。
「じゃ、がんばれ」
口にできるわけなどない。
「おう。がんばる」
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