ネットニュース編集長の朝

 翌朝6時。都内の閑静な住宅街にある中古マンションの一室で、星健一郎は目を覚ました。


 二日酔いの頭を抱えながら、シングルベッドの中でスマホを手に取る。

 まずはXのトレンド欄に目を通す。何か大きな炎上や事件が起きていないか確認するのが日課だった。この日は特に大きな騒ぎはなさそうだった。


 枕に頭を預けたまま、昨夜のことを思い出す。柄にもなく大人げないことをしたな、と内心反省しつつも、やり過ぎたとは思わない。最上には多少の刺激も必要だろう。


 ベッドから這い出て身支度を済ませる。冷蔵庫から取り出したBASEブレッドの袋を開けながら、コーヒーメーカーのスイッチを入れる。シンプルな朝食だ。シャワーを浴びている間にコーヒーが出来上がり、カップに注いでテーブルに置く。


 星は仕事用のノートPCを立ち上げ、メールをチェックし始めた。FLMニュース編集長としての彼のメールボックスには常に膨大な量のメールが届いている。社内からの連絡、名刺交換した相手からのプレスリリース、怪しげなタレコミ、記事へのクレーム…。

 星はパンを頬張りながら、それらを効率よく仕分けていく。多くは読み流すだけだ。彼の職業柄、一日の始まりにすべてのメールを隅々まで読んでいる余裕はない。

 そんな中、一通のメールが目に留まった。件名は「記事削除依頼」。半年ほど前に出したこたつ記事の中で、SNSの投稿に対する感想として引用した一般ユーザーの声、それを書き込んだ本人と名乗る人物からのメールだった。


「貴紙に無断で掲載された我が投稿を速やかに削除されたく。該当記事:『人気アイドルAの卒業発言に「さみしい」の声』(2024年1月5日配信)。該当箇所:「本当にさみしい。Aちゃんの笑顔に何度救われたか。でも次の道も応援したい」の投稿」


 たどたどしい文体で、記事の削除を要求していた。

 星は一瞬眉をひそめた。しかし、すぐにそのメールを既読にして次のメールに移った。こうした削除依頼は珍しくないし、引用したコメントは公開されたSNS上のものだ。著作権侵害にも名誉毀損にも当たらない。何より、いちいちこんなものに対応している暇はなかった。

 メールチェックと並行し、星はブラウザの別タブでGoogleAnalyticsやYahooニュースのインサイトツールを立ち上げた。昨日と今朝のPV数を確認するのも日課の一つだ。画面を眺め、ため息をつく。昨日はあまりパンチのあるネタがなかったこともあり、数値はそれほど伸びていなかった。

「ん…」

 画面をスクロールしながら、星は少し表情を和らげた。夜遅めに公開されたこたつ記事がリアルタイムでアクセスを稼いでいる。「人気声優Cの結婚発表に「おめでとう」の声殺到」という典型的なこたつ記事だが、Googleのレコメンド「Discover」に拾われたようで、サイト本体のPVを伸ばしてくれている。


「この勢いで行ってくれれば…」

 星は頭の中でそろばんを弾いた。Yahoo!ニュース上での今月のPV目標達成まであと何本の記事が必要か。自社サイトでどのくらいのPVを確保すれば、売上目標を達成できるか。そのためにはどのような記事を出していくべきか。メディアビジネスの厳しい現実が、常に彼の頭の片隅にあった。

 パソコンの作業を続けながら、星は片手にスマホを取り、Yahoo!ニュースのアクセスランキングと最新記事に目を通し始めた。これもまた日課だった。ヒットする記事の傾向をキャッチアップするため。それに、特にこたつ記事の場合、他社が先行して出している話題でも、見出しを少し変えたり、トップ画像を差し替えたりするだけで、二匹目、三匹目のどじょうを狙える場合もある。話題によっては、編集部で深掘り取材を視野に入れることもあった。

 画面をさーっとスクロールしながら、星は気になった見出しをメモアプリに貼り付けていった。「今日の記事候補」というノートに、順次リストが伸びていく。


 そんな中、ふと、彼の目にひとつの記事が留まった。


「【衝撃】みらい福祉庁は『年間数十兆円の税金を中抜き』 インフルエンサー社長・鬼頭アキラ氏が断言、ネットで反響」


 星の表情が一瞬で曇った。

 みらい福祉庁——近頃、ネット上では、この省庁が膨大な公金を「中抜き」しているという、デマ混じりの陰謀論的な主張が拡散され、批判が殺到していた。根拠となる具体的な数字が恣意的に切り取られ、文脈を無視した形で広まっていた。

 記事を開くと案の定、インフルエンサー経営者の鬼頭アキラなる人物が、「みらい福祉庁は年間数十兆円もの税金を中抜きしており、即刻廃止すべきだ」などと主張している内容だった。記事は直接的な断言は避けつつも「鬼頭氏はこう語った」と引用符で囲むだけの最小限の逃げを打ちながら、具体的な根拠は示されない誇張された数字をほぼそのまま伝えていた。それどころか「よく言った!」「目からウロコ」などネットの喝采の声まで記事は拾い上げていた。


「こういうのが…」

 星は低く呟いた。こたつ記事の最悪の形だ。単にSNSの投稿を引用するだけでなく、曖昧な主張に一定の正当性を持たせるような書き方。何の検証もせず、「炎上している」というだけで記事にする無責任さ。

 ランキングをさらにスクロールすると、フリージャーナリストや大して売れてもない漫画家のみらい福祉庁批判発言をネタにした、似たようなこたつ記事が複数並んでいた。どれも検証らしい検証もなく、単に「批判の声が上がっている」という体裁だけの内容だ。中には「鬼頭アキラ氏の指摘に各界から賛同の声」などと、他のこたつ記事を引用する形で連鎖しているものまであった。

 星は昨夜の自分の発言を思い出した。最上に向かって「少なくとも有害ではない」と言ったが、それは平和な芸能ネタの場合だ。今、目の前にあるような記事は明らかに有害になりかねない。


 彼はFLMニュースでは、こうした「危ない」ネタはこたつ記事としては扱わないようにしていた。編集長としてのポリシーだ。よっぽどの有名人の発言なら話は別だが、鬼頭アキラのような人物の検証されていない主張は取り上げない。扱うなら必ず取材する。裏を取る。素人の主張をそのまま垂れ流しにしない。


 かつてネットニュース業界に星が転じた十年ほど前は、だいたいのメディアがそういう風潮だった。しかし最近は、そのタガが外れてきている。PVだけを追い求め、なりふり構わずになっているメディアが増えてきた。

 こうしたランキング上位の記事の配信元を確認して、星はさらに深くため息をついた。


「新スポオンライン」


 星の古巣である新生新聞の子会社、新生スポーツのウェブ版だった。かつては比較的良心的だったはずのスポーツ紙系メディアすら、こうした記事に手を染めるようになっている。一方で最近、こうしたなりふり構わないスポーツ紙系メディアのこたつ記事に、FLMニュースも少し押され気味になっているのを、星は肌で感じていた。

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