あの日の野菜スープ

Pokój

あの日の野菜スープ

生きていくのがしんどいと思った暗く長い夜に買ってきてもらったお寿司。


とにかく泣きたかった雨の降る夜に奢ってもらったのり弁。


「勉強頑張ったんやから」と譲ってもらった焼き立ての厚切り上塩タン。


「いちばん美味しいところを食べな」と譲ってもらった大きな生牡蠣。


二十歳になった日に親と乾杯した「ほろよい」の甘くて白いサワー。


大事な勉強を終えた日に乾杯したやかんに入ったマッコリ。


「せっかくボローニャまで来たんやから」と譲ってもらったモルタデッラ。


「ペーザロに来てくれてありがとう」とみんなで乾杯したプロセッコ。




地球の反対側まで移動して疲れきった夜に作ってもらったこころまで温まるような野菜のスープ。


世界中探してもここでしか食べられないと言われたとろけるようなチャウスコロ。


こんなに広い世界で擦れ違った誰かとともに座ったテーブル。


こんなに広い世界で擦れ違った誰かと交わした盃。


受験勉強を頑張った日の帰りのバスで見る夕焼けの空ほど透き通っているものはなかった。


勉強が捗った日の帰りに行ったいつもの焼肉屋で飲んだマッコリは喉に染み渡る味だった。


悲しいことがあると空はいっしょに泣いてくれた。




嬉しいことがあると空はいっしょに笑ってくれた。


悲しいことがあった日の食事はしょっぱくて、味がしなかったけど、美味しい記憶だけが残った。


嬉しいことがあった日の食事はどこか遠い世界に飛んでいけそうな気持ちで、やはり美味しい記憶が残っている。


あの日の空は暗くて、いまにも押しつぶされそうなほど重かった。


あの日の空は明るくて、いまにも紙吹雪が降ってきそうなほど賑やかだった。


それを見ながら、それを思い出しながら、私達は食事をする。盃を交わす。


それを感じながら、それに触れながら、私達は食事をする。盃を交わす。




雨が降る2 月のボローニャで、オープンスペースのバールを多く目にした。


曇り空の2 月のピサで、オープンスペースのパスティチュリアでお菓子を食べた。


空の色に触れながら、空の明るさに自分の気分を重ねながら、お友達とどんなちいさなことも話していた。


バラエティ豊かな食事を味わいながら、よく冷えたお酒を飲みながら、お友達といつまででも話をしていた。


日本酒。マッコリ。紹興酒。シャンパン。プロセッコ。サングリア。


世界各地のお酒が、そこにはあった。


モルタデッラ。ボロネーゼ。アロスティチーニ。お寿司。しゃぶしゃぶ。唐揚げ丼。


世界各地の料理が、そこにはあった。




そこにはいつもテーブルいっぱいの食事と、すこしのお酒があった。


そこにはテーブルの向こうに座っている誰かがいた。誰もいないようなときでも、遠くの誰かを思いながら食べた。


この空は、いま泣いている誰かのもとに繋がっている。涙の雨を降らせて、空は彼に寄り添っている。


この空は、いま笑っている誰かのもとに繋がっている。喜びはあたたかい光となって、空は彼に寄り添っている。


心の底から泣きたいときに、思いっきり笑いたいときに、空はいつもそこにあり、湯気の出るような食事と持つ手が悴むほどのお酒もいつもそこにあった。


たいせつなひとも、いつだって同じ空の下で、みんな同じ空を見上げながら、こころの中でいっしょに歩いている。


私が沈んだ顔をしていると、誰かがあたたかい食事を奢り、そっと傘をさしてくれたことをはっきりと覚えている。


私が空を飛べそうなときには、誰かと盃を交わし、透き通る夜空の下をいっしょに歩いたのを覚えている。


もらったものばかりで、なにも渡せなかった。


受け取ったものは覚えているのに、渡したものが思い出せない。


私はなにを渡せるだろうか?


私はなにを残せるだろうか?




あたたかい食事の温もりを、いっしょに見た燃えるような夕暮れを、いっしょに分け合うことができたなら。


食事を取り合って、空を切り分けて、みんながお腹いっぱいで綺麗な青い空を見られたなら。


たいせつなひとを、隣にいるひとを、合わないなと思うひとを、ひとを故意に傷つけるひとまでも、空はなにも言わずに愛してくれる。


私には、なにができるだろうか。それは、目の前にあるフィッシュアンドチップスをみんなで分け合うことだろう。


もしたいせつなひとたちのの行く先が泥濘んでいても、たとえ私にはなにもできなくても、ただただいっしょに泥だらけになりながら、その道を歩いていきたい。


転びながら、倒れながら、そんなときに目にした空の青さと、美味しい食事だけは決して忘れない、いつも支えてくれる道標になるから。


あの日の野菜スープが、疲れ切った私のからだを癒してくれたように。あの日の野菜スープが、凝り固まったこころを解してくれたように。


この空の下で、今日も仕事を頑張る同僚たちと、この空の下で、些細でもかけがえのない毎日を過ごしているクラスメイトたちと、この空の下で生きのびるために頑張っているひとたちと、この空の下で、武器を取りひとを殺せと教えられている若い兵士たちと、この空の下で凍えるほどの寒さに震えているひとたちと、この空の下で自殺の準備をしているひとたちと、この空の下で食べるものがないと追い詰められたひとたちと、みんなであの野菜スープを分け合えたら、世界は、ほんのすこしでも、変わるはずだ。世界全体を変える力はなくても、そのひとが前にした世界を変える力は、私達の手の中にある。

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