選択ラインの先で、世界線は生へ反転する

久遠 古詠

プロローグ

夕暮れの色が、ゆっくり街の端から溶けていく。


街路樹の影がアスファルトを斜めに横切り、昼の熱だけがじりじりと地面に残っていた。


佐伯澪の髪が、風に押されてふわり揺れる。

その小さな動きを、朝倉湊は視線だけで追いかけた。


「今日、ちょっとだけ涼しいね」

澪がそう言って、自然に歩幅を合わせてくる。


さりげないのに、いつも距離が近い。

特別なことは何も話していないのに、横にいるだけで胸の内側が緩んでいく。


湊は返事をしようとして、喉の奥で言葉がひっかかった。

声より先に、心臓の拍だけが一拍分、強く鳴る。


澪が首をかしげて覗き込んでくる。

オレンジ色の光が、まつ毛の影をくっきり落としていた。


「湊?」

「……ううん、なんでもない」


ほんとうはある。

伝えたいことも、壊したくないものも。


たった一言で、今あるこの形が崩れてしまう気がして、足が前に出ない。


澪が小さく笑う。

それだけで、胸の奥が弱く刺さる。

湊は視線を落とした。足元に伸びた二つの影が、寄り添うように重なっている。


そのときだった。


金属が悲鳴を上げるような音が、空気の底からせり上がってきた。

続いて、ブレーキの焦げた音と、タイヤが路面を跳ねる乾いた衝撃音。


空気の温度が、一瞬で変わる。


湊が顔を上げるより早く、澪が小さく息をのんだ。

「……え?」


視界の端から、黒い塊が線を引くみたいに飛び込んでくる。

澪の瞳が、驚きとも理解ともつかない色で揺れた。


音が消えた。


世界のボリュームだけが絞られて、空気の輪郭だけがやけにくっきりする。

次の瞬間、衝突音が遅れて戻ってきた。


澪の身体が、視界の中で不自然な角度に折れた。


地面とぶつかる鈍い音がして、手から買い物袋が滑り落ちる。

中身のペットボトルが転がり、アスファルトを跳ねるまでの時間が、ひどく長く感じた。


「……澪?」


自分の声が、自分のものに聞こえなかった。

足が縫いとめられたみたいに動かない。

それでもどうにか近づいて、膝をつく。


澪の胸が、上下していない。

さっきまで笑っていた口元が、その形のまま止まっている。


湊は震える手で澪の肩に触れた。

肌の温度が、もうさっきの夕方より半歩遠い。


「……いやだ」


それしか言葉が出てこなかった。

喉の奥で、別の言葉が暴れているのに、形にならない。


胸の内側がじわじわ焼かれていくみたいに熱いのに、指先だけが冷えていく。

世界の色が一度、薄く落ちた。


「……澪、起きて。帰ろうよ」


押し殺した声が、澪の耳にも届かない。

返事がない空白だけが、やけに大きく広がっていく。


こんな終わり方を、認められるはずがなかった。


湊は、かすかに震える手でスマホを掴んだ。

汗と涙で滲む画面に、指が何度も滑る。


頭は真っ白なのに、身体だけが覚えているみたいに、勝手に文字が浮かぶ。


#rewind


送信ボタンを押した瞬間、世界が落ちた。


耳鳴りが、ひび割れたガラスみたいに頭の中を埋め尽くす。

胃の奥が裏返るような浮遊感。

夕焼けの色が剥がれ落ちて、視界が反転する。


車の音も、誰かの叫び声も、澪の崩れ落ちる姿も、

全部逆再生になって、後ろへ吸い込まれていく。


——暗転。


まぶたの裏に残った残像が消えるころ、湊は息を吸い込んだ。

肺の中に、さっきと同じ夕方の空気が戻ってくる。


夕焼けは、まだ高いところにあった。

澪が、何事もなかったように前を歩いている。


「ねえ湊、さっきの話のつづきなんだけど──」


振り返った顔が、ちゃんと生きている。

声に温度があって、息づかいが距離を測ってくる。


頭が追いつくより先に、左腕が焼けるように痛んだ。

袖をめくると、さっき澪の胸を打ち砕いたはずの衝突痕が、皮膚の上にはっきり残っていた。


ありえない痣なのに、痛みだけは現実だ。


そのとき、スマホが短く震えた。

胸ポケットの中で、心臓とは別のリズムを刻む。


画面には、見覚えのないアカウント名が表示されている。


《mirror_log》


——未読1件。


指先がわずかに汗ばむ。

DMを開くと、一文だけが浮かんでいた。


「初回は上手くできたね。次はもっと急がないと死ぬよ」


丁寧な文面なのに、温度だけが一切ない。

ぞくりと背骨をなぞられたような感覚がした。


意味はわからない。

けれど、一つだけ確かなことがある。


——澪は、もう一度死ぬ。

そして次も、その次も。


守らなくては。

何があっても。


湊は横に並ぶ澪の横顔を見つめ、ゆっくり息を吸い込んだ。

世界のどこかが、微かにノイズを帯び始めている。


耳の奥で、誰にも聞こえないざわめきだけが、未来の崩壊を先に知っているみたいに揺れていた。

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