試みの箱庭―悠遠の残響―

花風花音

プロローグ

 夜闇よるやみでも浮き上がるほど白い室内の中、はめごろしの大窓の前で月明かりに照らし出された人影は、神々しい白鷺しらさぎのように見えた。


 全てが白い空間で、なお輝くように白く浮き上がる人の姿。

 窓ガラスは少しのくもりも、ささいな気泡きほうもない澄んだ氷のように上質なものだから、その人は月を従えているように見える。

 身も心も霧に包まれたような、現実から切り離された空間。

 その場所で、マルティナはためらわずに間合いをつめて鋭い刃を突き立てた。

 どれほどきたえようとも、所詮しょせん、女の身である。

 腕力だけでは、人の身体を構築する骨や筋を壊すことは難しく、全体重を一点に込めてぶつかった。

 しなるような感触の次に、硬い骨が短剣に当たる振動が掌に伝わる。

 依頼の内容は誘拐であったが、はなから従うつもりはなかった。

 ターゲットは、祖国の――家族の運命を狂わせたかたき

 必ず息の根を止めてやると、深く胸に刻んだ存在。

 指示通り事を済ませて報酬を受け取るよりも、命と引き換えにしてでも悲願を果たすことをマルティナは選んだ。

 香木の香り漂うターゲットの華奢きゃしゃな身体が大きく震え、唇から鮮やかな赤が滴った。

 うつむいている小さな顔は、真珠のような光沢を持つ癖のない長髪におおわれ、表情が窺えない。

 痛々しい姿に、けれどマルティナの心は少しも動かなかった。

 深く突いた短剣を引き抜きざま、ターゲットを目いっぱい突き飛ばす。

 白い空間に、勢いよくせんを抜かれてほとばしる赤葡萄酒あかぶどうしゅのように、鮮血が弧を描く。

 窓から差し込む淡い月明かりに青く照らされた血の色は、現人神あらびとがみであっても人と同じ、か黒い赤だった。

 ―……ようやく……。

 マルティナの胸に達成感が込み上げる。

 胸の鼓動こどうが異様に高鳴り、強い耳鳴りもそれに重なって頭の内部がひどく煩い。

 思わず抑えた胸は、チュニックの下に着こんだ硬い皮の防具が膨らみを押し潰していて、なお息苦しかった。

 それでもマルティナの薄く形の良い唇は、歓喜に歪む。


 ―……ようやく、かたきを取ることができた……。


 故郷に、現人神あらびとがみを奉じる大国ミルミアールが侵攻してきた時、マルティナは幸せというものを――人生を、失った。

 国の守護神を奉じる神殿の神官であった父母は、現人神の名の下に殺された。

 父母によって狭い隠し部屋に押し込められ、命こそ助かったものの、マルティナは孤児になったのだ。

 12歳の少女――侵略されて属国とされた国の民が、その後、安心して暮らせる環境などは用意されない。

 ましてや、マルティナは侵略国の信仰の下、邪教扱いになった土着神を奉じていた神職者の娘なのだ。

 邪教を粛清するという大義名分のもとで、兵士たちがどれほど残酷なことをするのか、今まさに手に掛けた現人神は知っていようか?

 逃げて、隠れて……異教徒であっても対話を望んだ父母の誠意が通じることを信じ、住まいに戻ったマルティナが見たのは、無残な破壊の後だった。


 ―……信仰を異にしても、同じ神ならば、なぜ平穏を…命を奪うような真似をするの?

 ―……生まれ育った土地の神を、ひたすら真面目に奉じていた父母に、一体何の罪があったというの?


 ―……現人神は、なぜ、国王が決めた布教という大義名分に隠した侵略を、止めなかった……?


 残骸となった神殿跡に、見せしめでさらされた父母の丸太にくくられた黒く焦げた亡骸なきがらを見た時、マルティナの胸には消しようのない憎悪が生まれた。

 その惨事さんじを皮切りにして、多くの人々の運命がねじ曲がっていった。

 心を闇色に塗りつぶすその日々の果てに、マルティナは誓ったのだ。

 復讐してやると。

 自らを奉じる国の愚行をいさめない、現人神に。

 父母の仇として、祖国を踏みにじって多くの人の運命を歪めた厄神やくしんとして、必ず自分の手で息の根を止めてやると。

 日陰に身を隠し、自らの手を穢し、心も穢しながら、それでもマルティナが生きてきたのは、その目的のためだけだった―――……。

 

 現人神が背後の窓に背を打ち付け、弾みで身をしならせて床に倒れ伏した時、マルティナの手から短剣が滑り落ちた。

 乾いた音が、虚しく室内に響く。

 大国ミルミアールにおいて最も巨大で、最も荘厳な神殿。

 その真奥にそびえる塔の、最上階であるこの部屋。

 たどり着くのは至難だと思っていたが、気が付いたらこの場所にいた。

 大きな邪魔はなく、難なく進むことができた。

 何かがおかしいと、今更ながら直感が訴える。


 まるで、見えない糸にたぐり寄せられるようではなかったか…?

 すべて、用意されたようではなかったか…?


 疑念が胸に渦を巻き始めるのと時を同じくして、目の前で異変が起こった。

 血だまりの中で倒れていた現人神が、むくりと起き上がったのだ。

 マルティナは小さく悲鳴を漏らし、後ずさる。

 幾度いくども危険に、そして陰惨いんさんな現場に遭遇そうぐうしてきたけれど、死人が動き出す怪異はさすがに初めてだった。

 確かに心臓を深く貫き、呼吸が途切れるのを間近で確かめたはず……。

「ためらわずに急所を一撃で貫くなんて、あなた、相当の手練てだれね。悲鳴はとても愛らしいのに」

 予想よりも幼い口調の、澄んだ声が室内に響く。

「残念だけど、あなたの悲願はごく当たり前の武器で果たすことはできないの。だってわたくしは、死ぬことがないのだから」

 何事もなかったように立ち上がった現人神は、血まみれの髪をかき上げた。

 たちまち、膝裏ひざうらまである髪や顔にこびりついた鮮血が、綺麗に清められる。

 現実から乖離かいりした存在の前に呆然と立ち尽くすマルティナの前で、現人神は落ちたナイフを拾った。

 そして、片手で自らの髪を一つに束ねて持つと、ナイフでそれを切り裂いた。

「いい切れ味ね」

 言いながら切った髪を、先ほど自分が流した血だまりの上に放り投げる。

 上質な絹の束のようなそれは、赤黒い染みの上できらめきながら無造作に散らばった。

「はい」

 何事もなかったかのように、現人神はマルティナにナイフを差し出す。

 丁寧に、柄の部分を向けて。

 間近で向き合うと、一縷の隙もない整った美貌ではあるが、どう見ても幼い。

 生きている時間は、自分よりも長いはずだが……。

 動きを失ったマルティナに焦れたのか、現人神は半ば強引にナイフを手に握らせた。

 その時触れた手の感触は、ごく当たり前の人のぬくもりがあった。

「……化け物め……」

 思わずのような呻きに、現人神はこくんと頷く。

「同意だわ」

 そして、おもむろに血で汚れた簡素な白いドレスを脱ぎ捨てた。

 月明かりに青白く浮き上がった裸体は肉が薄く、手折ればたちまち萎れてしまう白百合のようだ。

 そのまま現人神は部屋の隅に行くと、次に現れた時には、同じような刺繍ししゅう一つないドレスを身にまとっていた。

 細帯ほそおびもつけないまま、その上からまた白いローブを羽織って留め具で前を止める。

「じゃあ、行きましょう」

 理解できない言葉をかけられて、マルティナは微かに片眉を上げる。

 現人神は、小首を傾げてさらに言葉を重ねた。

「行きましょう。あなたの願いを叶えに」

 つかつかと歩み寄り、現人神はマルティナの両手を取った。

「わたくし、あなたが気に入ったわ」

 意味の分からない言葉に、血の生臭さと神聖な香木の香りが入り混じり、マルティナの頭を混乱させる。

「あなたがわたくしの期待に沿える人物か確かめるために、今夜は神殿に仕える者すべてを早々に眠らせたのよ。あなたが来ることは視えていたから。

 あなたなら、きっとためらわないと見込んだの。正解だったわね」

 動揺の中、やはり、という気持ちが沸き上がる。

 ここまでスムーズにたどり着ける方が、不自然なのだ。

「……私は、アンタに踊らされていたというわけ……?」

 現人神は肩をすくめて微笑んだ。

 血の匂いが消えないその場にはおよそ不似合いな、無垢な微笑み。

「その言い方は、ちょっと語弊ごへいがあるわ。あなたの願いと、わたくしの願いが一致しそうだから、お招きしたのよ。

 わたくしはあなたの願いを叶える力がある。あなたが失ったものを、取り戻してあげるわ」

「ハッ」

 マルティナは吐き捨てるように笑って、現人神の手を振り払った。

 後ろ髪は短く整えているものの、顔立ちを見られぬよう、隠すために伸ばした前髪がまぶたかすめてわずらわしい。

「貴様は、死んだ私の両親を生き返らせ、無残に踏みにじられた神殿も信仰も、故郷も元通りにできるのか!?」

「ええ、できるわ」

 無理難題を突き付けて罵り倒してやろうと構えていたマルティナは、あっさり頷かれ、虚を突かれる。

「ここでは無理だけれどね。だから、連れて行って。ハルディス山の頂上に。わたくし一人では難しいの。だから、あなたが道中、守ってね」

 現人神は再びマルティナの手を取り、有無を言わさず窓辺へと引っ張っていく。

「あ、忘れてはいけないわ」

 ふと足を止めて、現人神は自分が倒れていた血だまりを指さした。

 すると、その上に散らかった髪と血がうごめいてみるみる人型になり、現人神の姿そのものを形作った。

「これで一日はごまかせるでしょう」

 一人満足そうに頷くと、改めてマルティナの手を引いて窓の前に立つ。

「おい、待て」

 聞きたいこと、言いたいことは山ほどあるが、どうにも主導権を握れない。

「月が美しいわ」

 うっとりと囁いて、現人神が窓にはめ込まれたガラスにてのひらを当てる。

 すると小さな手は、ガラスをすり抜けた。

 驚くマルティナの手を取ったまま、現人神は窓枠に足をかける。

 決して強い力で引きずられているわけではなく……けれど抗えない力によって、マルティナは世界一高い、真白な塔の最上階から、夜の景色へと現人神と共に身を躍らせた。

「ああ、わたくしはシンシアよ。マルティナ。山頂までよろしくね」

 名乗った覚えはないが、当たり前のように名を呼ばれても、マルティナはもう反発することができない。

 恐ろしい高さから落下していく状況に、意識のすべてを持っていかれた。


 切り裂いたとはいえ、それでも長い髪を空に広げて落ちていく現人神の姿は、やはり、最初に目にした時同様、白鷺のようだとかすんでいく意識の中で思った。

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