第2話 ようこそ“プロ・ネバーランド”へ
目を開くと、そこには何もなかった。
真っ白な床。真っ白な空。
どこを見渡しても境目はなく、自分が立っているのは床なのか、見ている先は奥行きなのか。
何もかも曖昧で、これは夢なのだとすぐに悟った。
「……そういえばさ。」
夕方、教室で別れたはずの人の声がする。
そちらに目を向ければ、声の主が立っていた。
「掲示板見たこと、親にバレた?」
「……いや、サイトが古すぎて記録されなかったらしい。そっちは?」
「うちも。何も言われなかった。」
妙に、リアルな会話が続く。
不思議と違和感はなかった。
まるで本物と喋っているかのようで。
——夢って、こんなに会話が成立するものだっけ。
そう訝しんでいると、遠くから“何か”が近づいてくるのが見えた。
軽快な足音……と呼ぶべきか、アニメや創作物でしか聞いたことのない、表すなら“ぽてぽて”という音が、次第に大きくなっていく。
2人は顔を見合わせた。
なんとも言えない互いの表情が、夢か現かの自信すら奪っていくようで。
そうして目の前に来たそれは——
「「……犬の、ぬいぐるみ?」」
つぶらな瞳にふわふわの毛、垂れた耳は空も飛べそうなほどに大きく、四つん這いなら床についているだろう。
……そう、四つん這いなら。
ぬいぐるみは後ろ足で立ち、2人の目の前まで来るとその場でくるくると、ダンスでもするかのように回り出した。
ああ、やはり夢だ、と2人は胸を撫で下ろした。
あまりにも、ぬいぐるみの動きがぎこちないのだ。
「凄い、こんなにカクカクした動き見たことないや。
ロボ科の授業で私が作ったのよりひどい。」
「なんの夢なんだよ……って、うわ!?」
突然風が吹いたかと思えば、柔らかいタオルのような何かが彼の顔を直撃した。
思わず尻もちをついた麻陽が見たものは、くるくると回るたび、風を切るように広がる耳と、膨らんでいく胴体。みるみるうちに人と変わらないサイズへと変化していく、ぬいぐるみだった。
その姿には
『……ああ、ごめんねェ。
近ごろサイズ感が“バグる”んだよねェ。
どこかにメンテしてくれる人、いないかなァ?』
やっと回るのをやめたぬいぐるみは、耳を撫でながら悪びれる様子もなく、呑気に言い放った。
見た目よりも、低い声。
先ほど麻陽の頬を打ったのは、その長い耳だろう。
今も状況の整理に勤しむ2人を気にも留めず、ぬいぐるみは何事もなかったように喋り出した。
『ようこそ、“プロ・ネバーランド”へ!
ぼくは案内人……犬?のナナだよォ』
「…………プロ?ネバーランドは第3古語……。
ならprofessionalか?」
「progressかも。第3古語の時代から進歩したって意味なら、だけど。」
柘榴の言葉に、麻陽も納得したように頷いた。
まさか自分の発した単語について議論が始まるとは思わなかったのだろう。
先ほどまでとは打って変わって、今度はぬいぐるみ——ナナの方が置いてきぼりだ。
『なんだっけ……ぷろかろす?ぷろすろす?
……あァもう、そんなことはいいんだよォ!
プロ・ネバーランドっていうのはね——』
「……πρόσκαιρος(プロスカイロス)?」
「なんで今のでわかるんだよ。」
「第1古語って格好良いから覚えてて……。
てか、仮のネバーランドって何——」
ようやく2人がナナを振り返った時、しまった、と思った。表情は変わらないのに、その項垂れた姿は今にも泣き出しそうな子どものようで。
「ご、ごめんってば……!えーっと、ナナ?
私たち変なところに引っかかっちゃって……!」
「悪かったよ、話ちゃんと聞くから……。」
夢だと分かっていながらも必死にナナを宥める2人は、ボタンの目にあまりにも滑稽に映ったのだろう。
ナナは体を震わせながら、顔を上げた。
『フン!
ここは夢の国“プロ・ネバーランド”!
掲示板に書き込んでくれたから迎えにきたんだァ!
きっと説明するよりも体験した方が楽しいから……。
好きに“遊んで”おいでよォ!』
ナナはそう言って胸元の毛並みをかき分けると、小さな鈴を取り出した。
——カランッ……
鈴の音が鳴るとともに、足元は緑の芝生に、空は青く、太陽の光が真っ直ぐに世界を照らした。
柘榴と麻陽の目がようやく眩しさに慣れた頃、2人の前には巨大な遊園地が見渡す限り広がっていた。
かつてこんなにも鮮やかな夢を、見たことがあっただろうか。
2人が呆気に取られていると、遠くの人影が手を振っているのが見えた。
「……ーい、おーい!麻陽ー!
遊ぼうぜー!!」
「ひ、
「なにぶつくさ言ってんの?
ここならアラームも鳴らないし口うるさい奴もいないんだ。なあ、あれ乗ろうぜ!」
「ぇ、ぁ、……う、うん……!」
麻陽が腕を引かれていった先には、何人もの見知った顔ぶれ。そのまま子どもたちの笑い声の中へ溶けていった。
「……渡部くんってあんなに笑うんだ……。」
残された柘榴の肩を、誰かが軽く触れた。
振り返るとそこには、柘榴と同じ顔——正確には、柘榴より少しだけ気の弱そうな顔の少女が立っている。
「……葵……?」
「柘榴、ぼーっとしてどうしたの?
早く遊ぼう?たくさん話したいことあるんだ!」
両手を握って微笑む葵に誘われ、柘榴も笑顔を咲かせた。
2人もまた、他の子どもたちの輪に入り、笑い声に包まれていく。
* * *
そうしてどれほどの時間が経ったかもわからぬまま、2人がアトラクションを楽しんでいると、突如としてアラームの轟音が世界に鳴り響いた。
思わず耳を塞ぎ、目を閉じた麻陽と柘榴。
次第に音が止み、ゆっくりと目を開けると、そこはまた、境界のない真っ白な空間に、ナナがくるくると回っているだけの世界。
『楽しんでもらえたかなァ?
そろそろ起きる時間だよォ。』
2人の前でナナはピタリと止まりそう告げた。
よく見れば、その姿は少しずつ溶け出している。
『ぼくは本物の夢の国、“ネオ・ネバーランド”を作りたいんだ。そのためにはキミたちの力が必要……。
ねェ、《子どものままでいたい》のも、《大人のいない世界に行きたい》のも、きっと“嫌いな大人”がいるからだよねェ。』
不意に、真っ黒なボタンの目がきらりと光る。
ナナも世界も、ゆっくりと崩れていく。
『1日だけあげる。
その“嫌いな大人”を制裁する覚悟を決めてきてよ。
そうしたら、ずっと、楽しいままの世界を見せてあげる、約束だよ。
……また、次の夢で会おう。』
* * *
気付けばまた、アラームが鳴り響いている。
だけれどそれは自分の頭の中で聞こえるもので、自分の部屋、自分のベッド、いつもと変わらない朝だった。
夢を見た気がする。
どんな夢だったっけ、でも確かに楽しかった感覚はまだ残っていて——。
曇った思いを残したまま、普段の通りに、麻陽はまずアラームを止めてもらうためリビングへと降りていき、柘榴はその場でアラームを止めた。
今日も、いつもと同じ1日を過ごす。
“普通”に亀裂が入っているだけの、1日を。
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