放課後、君の手が離れなくなるまで

桃神かぐら

第1話 放課後、君の手が離れなくなるまで

 ――僕が佐伯さんを好きになった理由は、ひとつじゃない。


 最初のきっかけなんて、きっと誰にでもあるような、ほんの小さな場面だった。


 



 


 入学して、一週間くらい経ったころ。

 まだクラスの空気が固くて、誰もが“新しい自分”を演じようとしていた時期。


「このアンケート、前の席から後ろに回していってくれ」


 担任の声に従って、プリ刷りを受け取って、後ろに回そうとして――

 僕は、紙の角で指を切った。


「……っ」


 たいした傷じゃない。

 でも、紙って妙に鋭くて、思ったより痛い。


「あっ」


 前の席から、小さな声がした。


「大丈夫? 指、切ってる」


 振り向くより早く、ふわっとハンカチが差し出される。

 淡い水色に、小さな白い花が散った布。


 持ち主は、佐伯(さえき)さんだった。


「ちょっと見せて。あ、血出てる」


「ううん、大丈夫だから」


「大丈夫じゃない。ほら、押さえて」


 彼女は勝手に僕の手を取って、指先をつまむようにハンカチを巻いてくる。

 柔らかい布と、指に触れた体温に、心臓が変なリズムで跳ねた。


「これくらいなら平気だね。でも、ばい菌入ると嫌だから」


「……ありがと」


「ううん。紙って油断するとすぐ刺してくるよね。私もしょっちゅうやる」


 笑った顔が、まっすぐで、あまりにも眩しくて。

 その時はまだ、「優しい人だな」くらいにしか思ってなかった。


 でも、あの瞬間からたぶん、僕の中の何かは少しずつ傾き始めていた。


 



 


 二回目に「好きかもしれない」と思ったのは、雨の日だった。


 六月の終わり。

 朝から曇っていた空が、帰りのHRが終わるころには本格的な雨に変わっていた。


「最悪だ……傘、持ってきてない」


 窓の外を見てぼやくと、横から軽い声が飛んできた。


「傘、ないの?」


 振り向けば、そこにいたのはまた佐伯さんで。


「うん。降らないって言ってたから」


「天気予報、あてにならないよね。……はい」


 そう言って、彼女は自分の傘を軽く揺らしてみせた。

 しまいかけていたリュックのチャックを閉め、当たり前のように僕の前に立つ。


「入っていこ?」


「え、でも……いいよ。悪いし」


「なにが?」


「びしょ濡れになるでしょ、そっちが」


「ふたりで半分ずつ濡れたら、どっちも同じじゃん。ひとりだけずぶ濡れよりいいでしょ?」


 話が早すぎる。

 僕がためらっている間に、彼女はすでに傘を僕の頭の上まで広げていた。


「ほら、行こ。さっさと帰らないと風邪ひいちゃう」


 彼女の歩幅に合わせて、僕も歩き出す。

 小さいほうの肩に傘の持ち手が寄っていて、明らかに僕のほうが守られている。


「……もっと、そっち行っていいよ」


「え?」


「濡れるでしょ」


「大丈夫。ほら、背高いんだから、そっちが中心にいて」


 そう言って、彼女は少しだけ僕の腕を押した。

 距離が詰まる。

 クラスメイトが何人か、笑いながら駆けていく。

 視線を感じて、耳まで熱くなった。


「そんな顔する?」


「どんな顔」


「“見られた……”って顔。かわいい」


「かわいくはない」


「かわいいよ?」


 笑いながらそう言う彼女の横顔を見て、

 僕はまたひとつ、好きなところが増えた気がした。


 



 


 三回目は、小テストの朝だった。


 英語の小テストがある日、僕は少し早起きして、いつもより早く教室に入った。

 教室は、まだ静かで、窓から光だけが差し込んでいる。


「おはよ」


 声に振り向くと、ドアのところに美咲が立っていた。


「……早いね」


「うん。単語、全然覚えられてなくてさ。少しでも悪あがきしようと思って」


 そう言って、彼女は自分の席にかばんを置くと、迷いなく僕のところへ歩いてくる。


「ねぇ、このプリント見てもいい?」


 僕の作った単語まとめのプリントを指差していた。


「ああ、これ? いいよ」


「ありがと。君のまとめさ、ほんと見やすいんだよね。色分けもきれいだし」


「ただの趣味だけど」


「その趣味、すごく助かってる」


 そう言いながら、彼女は僕の隣に座った。

 朝の静かな教室で、二人だけ、プリントをはさんで肩を並べる。


「ねぇ、ここ教えて」


「ここはね――」


 説明しているとき、彼女がふいに顔を近づける。

 プリントに書かれた小さな字を一緒に覗き込む形で、

 気づけば頬の距離が、数センチしかなかった。


 呼吸が浅くなる。

 けれど、彼女は何事もないようにうなずいて、ペンを走らせた。


「ふふ。やっぱりね、君と一緒だと勉強はかどる」


「そう?」


「うん。説明うまいし、声落ち着くし。……えっと、その、隣にいると安心する」


 最後の一言が、妙に小さかった。


 そのとき、僕はペンを握ったまま、

 “あ、やっぱり僕、この人のこと好きだ”と、改めて思った。


 好きになった理由をひとつにしろと言われても無理だ。

 どれもこれも、同じくらい大切だ。


 ――優しいから。

 ――よく笑うから。

 ――僕のことを、ちゃんと見てくれるから。


 それだけで、恋に落ちるには十分すぎた。


 



 


 だから、あの日の放課後。

 彼女が僕を探して駆けてくる足音を聞いた瞬間には、

 もうどうしようもないくらい、心は決まっていたんだと思う。


 恋は突然じゃない。

 積もった「好き」が、ある日、形になってあらわれるだけだ。


 その日の放課後が――まさに、その瞬間だった。


 


   *


 


「……あ、やっと見つけた」


 名前を呼ばれなくても、自分のことだと分かった。

 階段の踊り場でぼんやり外を眺めていた僕は、振り返る。


 階段の下から、軽い足音を鳴らして駆け上がってくる人影。

 夕陽を溶かし込んだような、肩までの髪。


「佐伯さん」


「うん。よかった、帰っちゃってないかと思った」


 息を弾ませながら笑う顔は、いつもより少し紅くて。

 その分だけ、僕の鼓動も速くなる。


「どうかした?」


「あのね、今日もノート借りたいんだけど……できれば、一緒に見せてほしくて」


「……一緒に?」


「うん。数学のとこさ、また追いつかなくて。

 ひとりで写すより、一緒のほうが頑張れるかなって」


 本当かどうかは分からない。

 けれど「一緒に」という言葉だけで、頭の中が真っ白になった。


「迷惑、だった?」


「全然。迷惑じゃないよ。むしろ……嬉しい」


 正直に言うと、彼女は目を丸くしたあと、ふわっと笑った。


「そっか。よかった。……ね」


「うん?」


「屋上、行かない?」


「屋上?」


「うん。風、きっと気持ちいいよ。今日、あったかいし。

 人も少ないから、ノートも見やすいよ?」


 屋上は、ふつう放課後すぐ施錠される。

 でも、彼女は生徒会の手伝いをしていて、鍵を預かることがあるらしい。


 “人も少ない”という一言に、胸の奥がじんわり熱くなる。

 二人きりで、屋上。


 それがどれだけ危険で、どれだけ甘い状況かくらいは、僕にも分かる。


「嫌なら、他の――」


「嫌じゃない。……行こう。屋上」


 彼女の言葉を遮るように、思わず答えていた。

 自分の声が、少しだけ震えていた。


「……そっか。ふふ。じゃあ決まりだね」


 前を歩き出す彼女の後ろ姿を追いながら、

 僕は右手の指先を、ぎゅっと握りしめた。


(また、好きなところが増えた)


 止まる気配のないカウントに、苦笑いする。

 これ以上増えたら、もう隠しきれない。


 ……いや、とっくに隠せてないのかもしれないけれど。


 


   *


 


 屋上への扉を押し開けた瞬間、ふわっと風が頬を撫でた。


「わぁ……やっぱり、きれい」


 彼女は小さく感嘆して、フェンスのそばまで駆けていく。

 スカートの裾が、夕方の風に引っ張られて揺れた。


 僕も少し遅れてフェンスの前に立つ。

 街はいつもどおりのはずなのに、隣に立つ人が違うだけで、全部違って見えた。


「ここ、好きなんだ」


 彼女がぽつりと言う。


「前にもそう思ったって、言ってたね」


「うん。入学してすぐの頃かな。

 クラス馴染めなくて、ちょっと苦しくて……生徒会の先輩に頼まれて書類運びに来て、

 ここで風当たったら、“あ、ここ、好きだな”って」


「……そっか」


「だからね。また来る時は、“一緒に来たい人”決めておきたいなって思ってた」


 軽く言った一言が、胸のど真ん中に刺さる。


「そ、それって……」


「誰か、気になる?」


「……気になる、かな」


 誤魔化しようがない。

 僕の声は、彼女の笑い声で簡単に拾われる。


「教えてあげようか?」


「……うん」


「紙で指切ってた人」


 即答だった。


「え」


「覚えてる? プリントでケガしてたでしょ。

 あの時、“ありがとう”って、ちゃんと私の目を見て言ってくれた」


 あの日の、情けない自分の顔が蘇る。

 それと一緒に、彼女の笑顔も、はっきり浮かんだ。


「なんかね、その時、『あ、この人いいな』って思ったの。

 それから、ちょっとずつ目で追うようになって……気づいたら、屋上に一緒に来たい人も、その人になってた」


 風の音が、少しだけ遠のいた気がした。


「……それって」


「ねぇ」


 彼女は僕のほうを向く。

 夕陽を背負った瞳に、僕の顔が小さく映り込んでいた。


「ノート、見せてくれる?」


「もちろん」


「じゃあ、そのあと――ちょっとだけでいいから、手、繋いでみてもいい?」


 さらりと、とんでもないことを言う。

 頭の中で、警報と歓喜が同時に鳴り出した。


「……だめ?」


 不安そうに眉を寄せられて、勝てるわけがない。


「だめじゃない。……嬉しい」


「ほんと?」


「うん」


 彼女の顔がぱっと花みたいに綻ぶ。


「じゃあ、ちゃんと勉強してからね。ノート理解できたら、ご褒美」


「ご褒美って……」


「ふふ。やる気出るでしょ?」


 そんなやり取りをしながら、ふたりでノートを開く。

 肩が触れそうで、ぎりぎり触れない距離。

 でも、ページをめくるたび、指先が少しずつ近づいていく。


 問題を解くふりをしながら、心はもう、次の「ご褒美」のことでいっぱいだった。


 


   *


 


「よし、バッチリだね」


 最後の問題を解き終わって、美咲が満足そうにうなずく。


「ありがとう。本当に分かりやすかった」


「それはよかった」


「じゃあ……約束、覚えてる?」


 彼女は少しだけ目線を下げて、僕の右手をそっと見つめた。


「……うん」


「手、貸して」


 差し出した手を、彼女は両手で包むように握った。

 指先が絡む。体温が乗る。その全部が一気に押し寄せてくる。


「……あったかい」


 彼女の声は、さっきまでよりずっと小さかった。


「佐伯さんの手も」


「名前、呼んでほしいな。……“好きな人”っぽく」


 心臓が喉まで上がる。


「……美咲」


 そう呼んだ瞬間、彼女の肩がびくんと震えた。


「……もっかい、言って」


「美咲」


 夕陽の色よりも濃く頬を染めて、彼女は小さく笑う。


「ねぇ」


「うん」


「私ね。君のこと、見てると……胸がぎゅってなる。ドキドキして、でも落ち着くの。

 “好き”って、たぶんこういうことなんだろうなって、ずっと思ってた」


 反則みたいな告白だった。


 風の音も、遠くの車の音も、全部消えた気がした。


「……僕も」


 気づけば、口が勝手に動いていた。


「僕も、美咲のこと好きだよ。

 ハンカチ貸してくれたときも、雨の日に傘半分くれたときも、ノート褒めてくれたときも、

 そのたびに、“あ、また好きになった”って、何回も思った」


 言葉にした瞬間、胸の奥に溜まっていたものがするすると解けていく。

 怖さよりも、嬉しさの方が勝っていた。


「……ずるい。そんな風に言われたら」


 美咲は、目尻にうっすら涙を溜めて笑う。


「ますます、君のこと好きになっちゃう」


「じゃあ、よかった」


「ほんと、ずるい……」


 そう言いながら、彼女は僕の肩に額をそっと預けてきた。

 繋いだ手の熱が、胸の奥まで伝わっていく。


「ねぇ」


「うん?」


「明日さ。放課後、寄り道しない?」


「寄り道?」


「うん。ちゃんと“デート”って言っていいやつ」


 耳まで熱くなる単語だった。


「……行きたい」


 即答すると、美咲はくすっと笑って、僕の手をぎゅっと握った。


「じゃあ決まり。明日、校門で待ってるね、好きな人」


 


   *


 


 翌日の朝、登校途中。

 ポケットの中でスマホが震いた。


『おはよう。今日、ちゃんと来てね?

 逃げたら泣いちゃうからね』


 文の最後に並んだ絵文字が、妙に可愛くて。

 ホーム画面を閉じても、それだけで一日分の元気をもらった気がした。


 


   *


 


「――お待たせ」


 放課後。校門の横で待っていると、鈴の音みたいな声が聞こえた。


 振り向いた先で、美咲が小さく息を弾ませて立っていた。


 髪をいつもより丁寧に結び、制服のリボンも整えて。

 ほんの少しだけグロスが光っている。


「……なんか、今日、すごく可愛い」


 思わず本音が漏れてしまう。


「えっ……ほんと?」


「うん。いつも可愛いけど、今日は特別」


「……ずるい。そういうこと、さらっと言うの」


 そう言いつつも、美咲は嬉しそうに頬を押さえた。


「じゃあ、行こっか。――手、繋いでいい?」


「聞かなくても、もう繋いでるけどね」


 気づけば、美咲の指はもう僕の方へ伸びていた。

 自然に絡まる。昨日より、ずっと自然に。


「ねぇ、商店街のクレープ屋さん行きたい。

 “好きな人と食べるともっと甘い”って聞いたことあるから」


「そんな噂ある?」


「今作った」


「……そういうとこが好き」


「また増えちゃった?」


「うん。更新された」


 くだらないやりとりが、なぜか全部愛おしい。


 


   *


 


 商店街のクレープ屋は、放課後の学生で少し賑わっていた。


「いちご生クリームと、チョコバナナ……どっちにしよう……」


 メニュー表を真剣に見つめる美咲の横顔が、やけに近い。


「僕は、いちごの気分かな」


「じゃあ私も、いちごにする」


「お揃い?」


「うん。初デートだし、お揃いがいい」


 さらっと「初デート」と言われて、胸がまた一段階甘くなる。


 ふたり並んでクレープを受け取り、店先から少し離れたベンチに腰掛ける。


「一口、食べる?」


「いいの?」


「うん。はい、“あーん”」


「……ここ、人いるんだけど」


「平気平気。世界には私と君しかいないから」


「そんなわけないでしょ」


 口では文句を言いながら、一口もらう。

 いちごの甘さと一緒に、彼女の笑い声まで流れ込んでくる気がした。


「ね、美味しい?」


「すごく」


「よかった。じゃあ、次は君から一口ちょうだい?」


「……はいはい」


 クレープを少しだけ差し出すと、美咲はいたずらっぽく目を細めて、

 ゆっくりと口を近づけた。


「……ん。甘い」


「クレープが?」


「それも。あと――」


 彼女は僕のほうを一瞬だけ見て、またクレープをかじった。


「この時間も」


 そんな一言のために、たぶん僕は何度でも恋をする。


 


   *


 


「ね、本屋寄ってもいい?」


 クレープを食べ終えて歩き出したところで、美咲が言った。


「いいよ」


「新しいノート欲しくてさ。君みたいに、ちゃんとまとめてみたくなった」


「僕みたいにって」


「うん。だって、あのノートなかったら、今日のデートもなかったかもしれないでしょ?」


 たしかに、と心の中でうなずく。


 本屋の文具コーナーで、美咲は真剣な顔でノートを選んでいた。


「どっちがいいかな。シンプルなのと、ちょっと花柄のやつ」


「どっちも似合うと思うけど」


「ずるい。ちゃんと選んで」


 少し迷ってから、僕は花柄のほうを指さした。


「こっち。最初にもらったハンカチと、ちょっと似てる」


「あ……」


 美咲は一瞬目を見開いて、それからふわっと笑った。


「覚えてたんだ」


「覚えてるよ。あれが、たぶん最初のきっかけだから」


「そっか……じゃあ、これにする」


 レジに向かう横顔が、誇らしげで、少し照れていて。

 その全部がまた、新しい「好き」として積もっていく。


 


   *


 


 人通りの少ない公園に着くころには、空はオレンジから群青へと変わりかけていた。


「ここ、子どもの頃よく来てたんだ。ブランコまだあるかな」


「乗る?」


「……さすがに今は恥ずかしいかも。見てるだけでいい」


 笑いながらも、美咲はブランコの前で立ち止まり、

 小さく鎖を揺らしていた。


 人の少ないベンチを見つけて、並んで座る。

 自然と、また手が絡む。

 今度は、お互い離そうともしない。


「ねぇ」


「うん」


「昨日までと、何が違うんだろうね」


「昨日までも、好きだったよ?」


「私も。

 でも、“好きな人と手を繋いで、クレープ食べて、本屋行って、公園でのんびりしてる自分”って、ちょっと不思議」


「……幸せ?」


 聞くのが怖くて、でも聞きたくて、言葉が転がり出る。


 美咲は、すぐにうなずいた。


「うん。すごく。

 ねぇ……」


 彼女は少しだけ体を寄せて、僕の肩に頭を預けた。

 髪が触れて、シャンプーの匂いがふわっと近づく。


「これさ、“好きな人と恋人になる練習”みたいだね」


「練習?」


「うん。いっぱい手を繋いで、名前呼んで、ドキドキして……

 そうやって、“恋人”って関係に、心の準備をしてる感じ」


「……なら、本番はいつ?」


 自分でも驚くくらい、まっすぐな言葉が出た。


 美咲は、僕の胸元をぎゅっと掴んだまま、顔を上げる。


「……今でもいい?」


「え?」


「今言ったら、間に合うかな。

 ――今日から、ちゃんと恋人になってください、って」


 瞳が、真剣だった。

 怖さも、期待も、全部混ざった色をしていた。


 僕は彼女の手を、そっと両手で包み込む。


「……お願いされなくても、そのつもりだったよ」


「……ほんと?」


「うん。昨日の屋上からずっと。

 “この人と恋人になれたらいいな”って、何回も思った」


 美咲は一瞬息を止めて、それから、こぼれるみたいに笑った。


「……よかったぁ」


 目尻に小さな涙が光る。


「ねぇ、じゃあさ。改めて言ってもいい?」


「うん」


「――今日から、恋人になってください。……ねぇ、君のことが、大好きです」


 その告白は、今まで僕が見てきたどんな夕焼けよりも綺麗だった。


「……よろしくお願いします。僕も、美咲が大好きです」


 名前を呼ぶと、美咲はぷるっと肩を震わせて笑った。


「今、“美咲”って言った」


「うん。恋人だから」


「……ずるい。もっかい言って」


「美咲」


「もう一回」


「美咲」


 何度も呼ぶたびに、彼女の笑顔が少しずつ崩れて、目の縁がまた潤んでいく。


「……ねぇ、今、すごく幸せ」


「僕も」


「ずっと、こうしてたい」


「じゃあ、ずっと、そうしよう」


 繋いだ手に、少しだけ力を込める。

 その力を、美咲も同じ強さで返してきた。


 


   *


 


 空がむらさきから濃い青へと変わる頃、僕たちはようやく立ち上がった。


「そろそろ帰らないと怒られちゃう」


「そうだね」


「でも、手は――」


「駅まで離さない」


「ふふ、欲張り」


「恋人だから」


 そんな会話をしながら、夜になりかけの道を歩く。

 街灯の光が、繋いだ手の影を長く伸ばしていく。


「ねぇ」


「うん?」


「また来週もデートしていい?」


「来週だけ?」


「再来週も、その次も」


「じゃあ、ずっとだね」


「……うん。“ずっと”で、お願いします」


 照れくさそうに言う美咲の横顔を見て、

 胸の奥で、静かに何かが決まる。


 ――恋が始まった日の、続き。

 指先にハンカチを巻いてもらった、あの何気ない瞬間から、少しずつ積み上がってきた想いは。


 今日、ようやく名前をもらった。


 恋人。


 呼び方が変わっただけで、世界の見え方がこんなにも甘くなるなんて、知らなかった。


「また明日ね。……ねぇ、恋人さん」


 角を曲がる前、美咲が小さく手を振る。


「うん。また明日。美咲」


「っ……反則。最後まで甘い」


 ひとりごとのようにそう言って、彼女は笑いながら走り出した。


 残された僕の手には、まだ彼女の温度が残っている。


 ――恋は甘いものだ。

 指先から、胸の奥から、ゆっくりと広がっていく。


 きっと明日も、その先もずっと。

 この甘さは、終わらない。


 そう信じてしまえるくらいには、僕はもう、彼女に恋をしていた。


 


   * * *


 


【あとがき】


 ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


 この物語は、

 「恋は甘くていいんじゃない? むしろ思いきり甘くしよう」

 というところから始まりました。


 指に巻かれたハンカチ、

 雨の日の傘、

 早朝の教室のプリント、

 夕焼けの屋上、

 商店街のクレープ、公園のベンチ――


 どれも特別じゃない、小さな場面ばかりです。

 でも、そういう小さな「いいな」がちゃんと積み重なって、

 ある日ふっと「恋」って名前がつく瞬間が来る。


 そんな“積み重なっていく初恋”を、甘さ多めで書いてみました。


 主人公は、ちょっと不器用だけれど、ちゃんと「好き」を言葉にできる子に。

 ヒロインの美咲は、素直で、よく笑って、ちゃんと自分からも一歩踏み出せる子に。


 二人とも、すれ違いよりも

 「どうしたらちゃんと伝わるかな」と考えるタイプにしたのは、

 読んでくれた人に、安心して浸かってもらえる恋にしたかったからです。


 恋は、苦くても切なくても物語になるけれど、

 甘くて、優しくて、ただただ幸せでも、ちゃんと物語になる。


 この短編が、あなたの今日の時間を

 少しでも甘くできていたら、作者としてこれ以上の幸せはありません。


 ここまでお付き合い、本当にありがとうございました。

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