放課後、君の手が離れなくなるまで
桃神かぐら
第1話 放課後、君の手が離れなくなるまで
――僕が佐伯さんを好きになった理由は、ひとつじゃない。
最初のきっかけなんて、きっと誰にでもあるような、ほんの小さな場面だった。
◇
入学して、一週間くらい経ったころ。
まだクラスの空気が固くて、誰もが“新しい自分”を演じようとしていた時期。
「このアンケート、前の席から後ろに回していってくれ」
担任の声に従って、プリ刷りを受け取って、後ろに回そうとして――
僕は、紙の角で指を切った。
「……っ」
たいした傷じゃない。
でも、紙って妙に鋭くて、思ったより痛い。
「あっ」
前の席から、小さな声がした。
「大丈夫? 指、切ってる」
振り向くより早く、ふわっとハンカチが差し出される。
淡い水色に、小さな白い花が散った布。
持ち主は、佐伯(さえき)さんだった。
「ちょっと見せて。あ、血出てる」
「ううん、大丈夫だから」
「大丈夫じゃない。ほら、押さえて」
彼女は勝手に僕の手を取って、指先をつまむようにハンカチを巻いてくる。
柔らかい布と、指に触れた体温に、心臓が変なリズムで跳ねた。
「これくらいなら平気だね。でも、ばい菌入ると嫌だから」
「……ありがと」
「ううん。紙って油断するとすぐ刺してくるよね。私もしょっちゅうやる」
笑った顔が、まっすぐで、あまりにも眩しくて。
その時はまだ、「優しい人だな」くらいにしか思ってなかった。
でも、あの瞬間からたぶん、僕の中の何かは少しずつ傾き始めていた。
◇
二回目に「好きかもしれない」と思ったのは、雨の日だった。
六月の終わり。
朝から曇っていた空が、帰りのHRが終わるころには本格的な雨に変わっていた。
「最悪だ……傘、持ってきてない」
窓の外を見てぼやくと、横から軽い声が飛んできた。
「傘、ないの?」
振り向けば、そこにいたのはまた佐伯さんで。
「うん。降らないって言ってたから」
「天気予報、あてにならないよね。……はい」
そう言って、彼女は自分の傘を軽く揺らしてみせた。
しまいかけていたリュックのチャックを閉め、当たり前のように僕の前に立つ。
「入っていこ?」
「え、でも……いいよ。悪いし」
「なにが?」
「びしょ濡れになるでしょ、そっちが」
「ふたりで半分ずつ濡れたら、どっちも同じじゃん。ひとりだけずぶ濡れよりいいでしょ?」
話が早すぎる。
僕がためらっている間に、彼女はすでに傘を僕の頭の上まで広げていた。
「ほら、行こ。さっさと帰らないと風邪ひいちゃう」
彼女の歩幅に合わせて、僕も歩き出す。
小さいほうの肩に傘の持ち手が寄っていて、明らかに僕のほうが守られている。
「……もっと、そっち行っていいよ」
「え?」
「濡れるでしょ」
「大丈夫。ほら、背高いんだから、そっちが中心にいて」
そう言って、彼女は少しだけ僕の腕を押した。
距離が詰まる。
クラスメイトが何人か、笑いながら駆けていく。
視線を感じて、耳まで熱くなった。
「そんな顔する?」
「どんな顔」
「“見られた……”って顔。かわいい」
「かわいくはない」
「かわいいよ?」
笑いながらそう言う彼女の横顔を見て、
僕はまたひとつ、好きなところが増えた気がした。
◇
三回目は、小テストの朝だった。
英語の小テストがある日、僕は少し早起きして、いつもより早く教室に入った。
教室は、まだ静かで、窓から光だけが差し込んでいる。
「おはよ」
声に振り向くと、ドアのところに美咲が立っていた。
「……早いね」
「うん。単語、全然覚えられてなくてさ。少しでも悪あがきしようと思って」
そう言って、彼女は自分の席にかばんを置くと、迷いなく僕のところへ歩いてくる。
「ねぇ、このプリント見てもいい?」
僕の作った単語まとめのプリントを指差していた。
「ああ、これ? いいよ」
「ありがと。君のまとめさ、ほんと見やすいんだよね。色分けもきれいだし」
「ただの趣味だけど」
「その趣味、すごく助かってる」
そう言いながら、彼女は僕の隣に座った。
朝の静かな教室で、二人だけ、プリントをはさんで肩を並べる。
「ねぇ、ここ教えて」
「ここはね――」
説明しているとき、彼女がふいに顔を近づける。
プリントに書かれた小さな字を一緒に覗き込む形で、
気づけば頬の距離が、数センチしかなかった。
呼吸が浅くなる。
けれど、彼女は何事もないようにうなずいて、ペンを走らせた。
「ふふ。やっぱりね、君と一緒だと勉強はかどる」
「そう?」
「うん。説明うまいし、声落ち着くし。……えっと、その、隣にいると安心する」
最後の一言が、妙に小さかった。
そのとき、僕はペンを握ったまま、
“あ、やっぱり僕、この人のこと好きだ”と、改めて思った。
好きになった理由をひとつにしろと言われても無理だ。
どれもこれも、同じくらい大切だ。
――優しいから。
――よく笑うから。
――僕のことを、ちゃんと見てくれるから。
それだけで、恋に落ちるには十分すぎた。
◇
だから、あの日の放課後。
彼女が僕を探して駆けてくる足音を聞いた瞬間には、
もうどうしようもないくらい、心は決まっていたんだと思う。
恋は突然じゃない。
積もった「好き」が、ある日、形になってあらわれるだけだ。
その日の放課後が――まさに、その瞬間だった。
*
「……あ、やっと見つけた」
名前を呼ばれなくても、自分のことだと分かった。
階段の踊り場でぼんやり外を眺めていた僕は、振り返る。
階段の下から、軽い足音を鳴らして駆け上がってくる人影。
夕陽を溶かし込んだような、肩までの髪。
「佐伯さん」
「うん。よかった、帰っちゃってないかと思った」
息を弾ませながら笑う顔は、いつもより少し紅くて。
その分だけ、僕の鼓動も速くなる。
「どうかした?」
「あのね、今日もノート借りたいんだけど……できれば、一緒に見せてほしくて」
「……一緒に?」
「うん。数学のとこさ、また追いつかなくて。
ひとりで写すより、一緒のほうが頑張れるかなって」
本当かどうかは分からない。
けれど「一緒に」という言葉だけで、頭の中が真っ白になった。
「迷惑、だった?」
「全然。迷惑じゃないよ。むしろ……嬉しい」
正直に言うと、彼女は目を丸くしたあと、ふわっと笑った。
「そっか。よかった。……ね」
「うん?」
「屋上、行かない?」
「屋上?」
「うん。風、きっと気持ちいいよ。今日、あったかいし。
人も少ないから、ノートも見やすいよ?」
屋上は、ふつう放課後すぐ施錠される。
でも、彼女は生徒会の手伝いをしていて、鍵を預かることがあるらしい。
“人も少ない”という一言に、胸の奥がじんわり熱くなる。
二人きりで、屋上。
それがどれだけ危険で、どれだけ甘い状況かくらいは、僕にも分かる。
「嫌なら、他の――」
「嫌じゃない。……行こう。屋上」
彼女の言葉を遮るように、思わず答えていた。
自分の声が、少しだけ震えていた。
「……そっか。ふふ。じゃあ決まりだね」
前を歩き出す彼女の後ろ姿を追いながら、
僕は右手の指先を、ぎゅっと握りしめた。
(また、好きなところが増えた)
止まる気配のないカウントに、苦笑いする。
これ以上増えたら、もう隠しきれない。
……いや、とっくに隠せてないのかもしれないけれど。
*
屋上への扉を押し開けた瞬間、ふわっと風が頬を撫でた。
「わぁ……やっぱり、きれい」
彼女は小さく感嘆して、フェンスのそばまで駆けていく。
スカートの裾が、夕方の風に引っ張られて揺れた。
僕も少し遅れてフェンスの前に立つ。
街はいつもどおりのはずなのに、隣に立つ人が違うだけで、全部違って見えた。
「ここ、好きなんだ」
彼女がぽつりと言う。
「前にもそう思ったって、言ってたね」
「うん。入学してすぐの頃かな。
クラス馴染めなくて、ちょっと苦しくて……生徒会の先輩に頼まれて書類運びに来て、
ここで風当たったら、“あ、ここ、好きだな”って」
「……そっか」
「だからね。また来る時は、“一緒に来たい人”決めておきたいなって思ってた」
軽く言った一言が、胸のど真ん中に刺さる。
「そ、それって……」
「誰か、気になる?」
「……気になる、かな」
誤魔化しようがない。
僕の声は、彼女の笑い声で簡単に拾われる。
「教えてあげようか?」
「……うん」
「紙で指切ってた人」
即答だった。
「え」
「覚えてる? プリントでケガしてたでしょ。
あの時、“ありがとう”って、ちゃんと私の目を見て言ってくれた」
あの日の、情けない自分の顔が蘇る。
それと一緒に、彼女の笑顔も、はっきり浮かんだ。
「なんかね、その時、『あ、この人いいな』って思ったの。
それから、ちょっとずつ目で追うようになって……気づいたら、屋上に一緒に来たい人も、その人になってた」
風の音が、少しだけ遠のいた気がした。
「……それって」
「ねぇ」
彼女は僕のほうを向く。
夕陽を背負った瞳に、僕の顔が小さく映り込んでいた。
「ノート、見せてくれる?」
「もちろん」
「じゃあ、そのあと――ちょっとだけでいいから、手、繋いでみてもいい?」
さらりと、とんでもないことを言う。
頭の中で、警報と歓喜が同時に鳴り出した。
「……だめ?」
不安そうに眉を寄せられて、勝てるわけがない。
「だめじゃない。……嬉しい」
「ほんと?」
「うん」
彼女の顔がぱっと花みたいに綻ぶ。
「じゃあ、ちゃんと勉強してからね。ノート理解できたら、ご褒美」
「ご褒美って……」
「ふふ。やる気出るでしょ?」
そんなやり取りをしながら、ふたりでノートを開く。
肩が触れそうで、ぎりぎり触れない距離。
でも、ページをめくるたび、指先が少しずつ近づいていく。
問題を解くふりをしながら、心はもう、次の「ご褒美」のことでいっぱいだった。
*
「よし、バッチリだね」
最後の問題を解き終わって、美咲が満足そうにうなずく。
「ありがとう。本当に分かりやすかった」
「それはよかった」
「じゃあ……約束、覚えてる?」
彼女は少しだけ目線を下げて、僕の右手をそっと見つめた。
「……うん」
「手、貸して」
差し出した手を、彼女は両手で包むように握った。
指先が絡む。体温が乗る。その全部が一気に押し寄せてくる。
「……あったかい」
彼女の声は、さっきまでよりずっと小さかった。
「佐伯さんの手も」
「名前、呼んでほしいな。……“好きな人”っぽく」
心臓が喉まで上がる。
「……美咲」
そう呼んだ瞬間、彼女の肩がびくんと震えた。
「……もっかい、言って」
「美咲」
夕陽の色よりも濃く頬を染めて、彼女は小さく笑う。
「ねぇ」
「うん」
「私ね。君のこと、見てると……胸がぎゅってなる。ドキドキして、でも落ち着くの。
“好き”って、たぶんこういうことなんだろうなって、ずっと思ってた」
反則みたいな告白だった。
風の音も、遠くの車の音も、全部消えた気がした。
「……僕も」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「僕も、美咲のこと好きだよ。
ハンカチ貸してくれたときも、雨の日に傘半分くれたときも、ノート褒めてくれたときも、
そのたびに、“あ、また好きになった”って、何回も思った」
言葉にした瞬間、胸の奥に溜まっていたものがするすると解けていく。
怖さよりも、嬉しさの方が勝っていた。
「……ずるい。そんな風に言われたら」
美咲は、目尻にうっすら涙を溜めて笑う。
「ますます、君のこと好きになっちゃう」
「じゃあ、よかった」
「ほんと、ずるい……」
そう言いながら、彼女は僕の肩に額をそっと預けてきた。
繋いだ手の熱が、胸の奥まで伝わっていく。
「ねぇ」
「うん?」
「明日さ。放課後、寄り道しない?」
「寄り道?」
「うん。ちゃんと“デート”って言っていいやつ」
耳まで熱くなる単語だった。
「……行きたい」
即答すると、美咲はくすっと笑って、僕の手をぎゅっと握った。
「じゃあ決まり。明日、校門で待ってるね、好きな人」
*
翌日の朝、登校途中。
ポケットの中でスマホが震いた。
『おはよう。今日、ちゃんと来てね?
逃げたら泣いちゃうからね』
文の最後に並んだ絵文字が、妙に可愛くて。
ホーム画面を閉じても、それだけで一日分の元気をもらった気がした。
*
「――お待たせ」
放課後。校門の横で待っていると、鈴の音みたいな声が聞こえた。
振り向いた先で、美咲が小さく息を弾ませて立っていた。
髪をいつもより丁寧に結び、制服のリボンも整えて。
ほんの少しだけグロスが光っている。
「……なんか、今日、すごく可愛い」
思わず本音が漏れてしまう。
「えっ……ほんと?」
「うん。いつも可愛いけど、今日は特別」
「……ずるい。そういうこと、さらっと言うの」
そう言いつつも、美咲は嬉しそうに頬を押さえた。
「じゃあ、行こっか。――手、繋いでいい?」
「聞かなくても、もう繋いでるけどね」
気づけば、美咲の指はもう僕の方へ伸びていた。
自然に絡まる。昨日より、ずっと自然に。
「ねぇ、商店街のクレープ屋さん行きたい。
“好きな人と食べるともっと甘い”って聞いたことあるから」
「そんな噂ある?」
「今作った」
「……そういうとこが好き」
「また増えちゃった?」
「うん。更新された」
くだらないやりとりが、なぜか全部愛おしい。
*
商店街のクレープ屋は、放課後の学生で少し賑わっていた。
「いちご生クリームと、チョコバナナ……どっちにしよう……」
メニュー表を真剣に見つめる美咲の横顔が、やけに近い。
「僕は、いちごの気分かな」
「じゃあ私も、いちごにする」
「お揃い?」
「うん。初デートだし、お揃いがいい」
さらっと「初デート」と言われて、胸がまた一段階甘くなる。
ふたり並んでクレープを受け取り、店先から少し離れたベンチに腰掛ける。
「一口、食べる?」
「いいの?」
「うん。はい、“あーん”」
「……ここ、人いるんだけど」
「平気平気。世界には私と君しかいないから」
「そんなわけないでしょ」
口では文句を言いながら、一口もらう。
いちごの甘さと一緒に、彼女の笑い声まで流れ込んでくる気がした。
「ね、美味しい?」
「すごく」
「よかった。じゃあ、次は君から一口ちょうだい?」
「……はいはい」
クレープを少しだけ差し出すと、美咲はいたずらっぽく目を細めて、
ゆっくりと口を近づけた。
「……ん。甘い」
「クレープが?」
「それも。あと――」
彼女は僕のほうを一瞬だけ見て、またクレープをかじった。
「この時間も」
そんな一言のために、たぶん僕は何度でも恋をする。
*
「ね、本屋寄ってもいい?」
クレープを食べ終えて歩き出したところで、美咲が言った。
「いいよ」
「新しいノート欲しくてさ。君みたいに、ちゃんとまとめてみたくなった」
「僕みたいにって」
「うん。だって、あのノートなかったら、今日のデートもなかったかもしれないでしょ?」
たしかに、と心の中でうなずく。
本屋の文具コーナーで、美咲は真剣な顔でノートを選んでいた。
「どっちがいいかな。シンプルなのと、ちょっと花柄のやつ」
「どっちも似合うと思うけど」
「ずるい。ちゃんと選んで」
少し迷ってから、僕は花柄のほうを指さした。
「こっち。最初にもらったハンカチと、ちょっと似てる」
「あ……」
美咲は一瞬目を見開いて、それからふわっと笑った。
「覚えてたんだ」
「覚えてるよ。あれが、たぶん最初のきっかけだから」
「そっか……じゃあ、これにする」
レジに向かう横顔が、誇らしげで、少し照れていて。
その全部がまた、新しい「好き」として積もっていく。
*
人通りの少ない公園に着くころには、空はオレンジから群青へと変わりかけていた。
「ここ、子どもの頃よく来てたんだ。ブランコまだあるかな」
「乗る?」
「……さすがに今は恥ずかしいかも。見てるだけでいい」
笑いながらも、美咲はブランコの前で立ち止まり、
小さく鎖を揺らしていた。
人の少ないベンチを見つけて、並んで座る。
自然と、また手が絡む。
今度は、お互い離そうともしない。
「ねぇ」
「うん」
「昨日までと、何が違うんだろうね」
「昨日までも、好きだったよ?」
「私も。
でも、“好きな人と手を繋いで、クレープ食べて、本屋行って、公園でのんびりしてる自分”って、ちょっと不思議」
「……幸せ?」
聞くのが怖くて、でも聞きたくて、言葉が転がり出る。
美咲は、すぐにうなずいた。
「うん。すごく。
ねぇ……」
彼女は少しだけ体を寄せて、僕の肩に頭を預けた。
髪が触れて、シャンプーの匂いがふわっと近づく。
「これさ、“好きな人と恋人になる練習”みたいだね」
「練習?」
「うん。いっぱい手を繋いで、名前呼んで、ドキドキして……
そうやって、“恋人”って関係に、心の準備をしてる感じ」
「……なら、本番はいつ?」
自分でも驚くくらい、まっすぐな言葉が出た。
美咲は、僕の胸元をぎゅっと掴んだまま、顔を上げる。
「……今でもいい?」
「え?」
「今言ったら、間に合うかな。
――今日から、ちゃんと恋人になってください、って」
瞳が、真剣だった。
怖さも、期待も、全部混ざった色をしていた。
僕は彼女の手を、そっと両手で包み込む。
「……お願いされなくても、そのつもりだったよ」
「……ほんと?」
「うん。昨日の屋上からずっと。
“この人と恋人になれたらいいな”って、何回も思った」
美咲は一瞬息を止めて、それから、こぼれるみたいに笑った。
「……よかったぁ」
目尻に小さな涙が光る。
「ねぇ、じゃあさ。改めて言ってもいい?」
「うん」
「――今日から、恋人になってください。……ねぇ、君のことが、大好きです」
その告白は、今まで僕が見てきたどんな夕焼けよりも綺麗だった。
「……よろしくお願いします。僕も、美咲が大好きです」
名前を呼ぶと、美咲はぷるっと肩を震わせて笑った。
「今、“美咲”って言った」
「うん。恋人だから」
「……ずるい。もっかい言って」
「美咲」
「もう一回」
「美咲」
何度も呼ぶたびに、彼女の笑顔が少しずつ崩れて、目の縁がまた潤んでいく。
「……ねぇ、今、すごく幸せ」
「僕も」
「ずっと、こうしてたい」
「じゃあ、ずっと、そうしよう」
繋いだ手に、少しだけ力を込める。
その力を、美咲も同じ強さで返してきた。
*
空がむらさきから濃い青へと変わる頃、僕たちはようやく立ち上がった。
「そろそろ帰らないと怒られちゃう」
「そうだね」
「でも、手は――」
「駅まで離さない」
「ふふ、欲張り」
「恋人だから」
そんな会話をしながら、夜になりかけの道を歩く。
街灯の光が、繋いだ手の影を長く伸ばしていく。
「ねぇ」
「うん?」
「また来週もデートしていい?」
「来週だけ?」
「再来週も、その次も」
「じゃあ、ずっとだね」
「……うん。“ずっと”で、お願いします」
照れくさそうに言う美咲の横顔を見て、
胸の奥で、静かに何かが決まる。
――恋が始まった日の、続き。
指先にハンカチを巻いてもらった、あの何気ない瞬間から、少しずつ積み上がってきた想いは。
今日、ようやく名前をもらった。
恋人。
呼び方が変わっただけで、世界の見え方がこんなにも甘くなるなんて、知らなかった。
「また明日ね。……ねぇ、恋人さん」
角を曲がる前、美咲が小さく手を振る。
「うん。また明日。美咲」
「っ……反則。最後まで甘い」
ひとりごとのようにそう言って、彼女は笑いながら走り出した。
残された僕の手には、まだ彼女の温度が残っている。
――恋は甘いものだ。
指先から、胸の奥から、ゆっくりと広がっていく。
きっと明日も、その先もずっと。
この甘さは、終わらない。
そう信じてしまえるくらいには、僕はもう、彼女に恋をしていた。
* * *
【あとがき】
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
この物語は、
「恋は甘くていいんじゃない? むしろ思いきり甘くしよう」
というところから始まりました。
指に巻かれたハンカチ、
雨の日の傘、
早朝の教室のプリント、
夕焼けの屋上、
商店街のクレープ、公園のベンチ――
どれも特別じゃない、小さな場面ばかりです。
でも、そういう小さな「いいな」がちゃんと積み重なって、
ある日ふっと「恋」って名前がつく瞬間が来る。
そんな“積み重なっていく初恋”を、甘さ多めで書いてみました。
主人公は、ちょっと不器用だけれど、ちゃんと「好き」を言葉にできる子に。
ヒロインの美咲は、素直で、よく笑って、ちゃんと自分からも一歩踏み出せる子に。
二人とも、すれ違いよりも
「どうしたらちゃんと伝わるかな」と考えるタイプにしたのは、
読んでくれた人に、安心して浸かってもらえる恋にしたかったからです。
恋は、苦くても切なくても物語になるけれど、
甘くて、優しくて、ただただ幸せでも、ちゃんと物語になる。
この短編が、あなたの今日の時間を
少しでも甘くできていたら、作者としてこれ以上の幸せはありません。
ここまでお付き合い、本当にありがとうございました。
放課後、君の手が離れなくなるまで 桃神かぐら @Kaguramomokami
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